続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

足の痛み。

2019-05-14 07:36:02 | 日常

 頑張ればなんとかなる、とは若い時に限るのかもしれない。足に痛みがあっても頑張れば乗り越えられると錯覚したのが間違いのもと。
 筋肉痛になり、くしゃみをしても痛いほどの過敏に悩まされて初めて気づいた。

 哀しいかな失笑・・・身の程を知って高齢者らしく自分の体力と相談しながら行動すべきと今さらながら反省。
 本日はサークルのメンバーだった故倉沢氏による手作りの杖で外出。出てみるとお店の片隅に杖を忘れてくるほどには回復(ほっ)
 
 明日も出かける用があるけれど、今日の疲労度を測って出席か否かを決めるつもり。
 立っていられないほどの痛みは多少遠のいたけれど、年を取ってからは数日後に結果が出るので油断できない。

 つくづく情けないけれど、年相応の劣化を認めようと思う。
 転倒しリハビリに励んでいる友人のことを思うと、明日は我が身、ほとんど御同類である。早くKさんとも机を並べたい!


🈞デュシャン『汽車の中の悲しめる青年』③

2019-05-14 07:01:48 | 美術ノート

 汽車の中、つまり他力、換言すればすでに出来上がっている観念の呪縛の中でという意味である。
 自分はそこから飛び降りたいが走り出している汽車から出ることは不可能である。このまま汽車を信頼して乗っていていいものか・・・。

 若き日のデュシャンの苦悩である。
 過去・現在・未来の切れることのない時間・空間の中の存在である自分(青年)は絵(二次元)の中に表現(答え)を求めているが、〈悲しめる青年〉としての自分を客観視し、光景の中の自分を描いている。

 画の中に籠めようとした具体性、彩色はアースカラーで打ち沈んでいる。光はあるが陰翳の奥行の方が深く、青年と思われる形は肉質を持たず平板の寄せ集め、あるいは何かの部品の接合のようである。つまり、人の要素(条件)を打ち消している。
 連写を模して時間を切り取り、一つの対象に時間と立体(三次元)とを付加しようと試みているが鑑賞者を納得させるには足りない。その自覚が(悲しめる青年)というタイトルになったのかもしれない。
 当たり前のように目の前にある平面の領域、その中での試行錯誤、デュシャンの壁への挑戦。平面を突き抜ける表現、デュシャンの汽車は走り続ける。


 写真は(www.tauschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』16.

2019-05-14 06:50:26 | 宮沢賢治

おいゴーシュ君。きみには困るんだろうがなあ。表情といふものがまるでできてない。怒るも喜ぶも感情といふものがさっぱり出ないんだ。


☆訓(字句を解釈して)訓(教え導くこと)を混ぜ表している。
 条(物事の筋道/道理)に努(力を尽くしている)。
 記は換(入れ替えること)で常に推しはかる。


『城』3181。

2019-05-14 06:41:08 | カフカ覚書

むろん、これは、その件を担当している秘書にのみ当てはまることです。それ以外の秘書を夜中に不意打ちすることなら、だれでもできるでしょう。しかし、まずだれもそんなことはしませんし、ほとんど無意味です。


☆もちろん、この事件に属する秘書にのみ関係があり、その他には死期、死の不意打ちは誰にもあるでしょう。しかしそんなことは、ほとんど無意味です。