連写を思わせる描写は何を意図したのだろう。
《時間と空間》の関係性を追求したのだと思う。つまり(今)とは何かである。
今の今はすでに過去であり、未来はまたたくまに今になる。この空気感、得体の知れなさ、つかみどころのない時間の中の変化。時間を体感するのは人間の意識であり、外部とのズレである。
時間軸というのは自身のなかに在る。ただそれが地球という領域にあって太陽との関係で認定された基準に従っているだけではないか。
光と影には周期があり、それが繰り返されて帯状の線になる。人間の生死の連鎖はその時間帯に密接に絡みついて歴史という奇妙な物語を生じさせるが、元来時間は素/ありのままの人間の内部に生じる感覚だとも言える。
時間は平行(直進)なものか、上昇あるいは下降するものなのか…誰にもわからない。
デュシャンは、『階段を下りる裸体』において、真っ直ぐに下降していく図を描いて周囲の階段を螺旋状に、しかも機械的とも思える描き方をしている。
『階段を下りる裸体』は、時間の秘密に迫ったものではないか、と思う。
写真は(www.tauschen.com)より
光輝あるわが金星音楽団がきみ一人のために悪評をとるやうなことでは、みんなへもまったく気の毒だからな。
☆講(話)の祈(願い)の魂(精神)は、照(あまねく光が当たる=平等)である。
隠した絡(つながり)の談(話)には溢(たくさん)の図りごとがあるが、話に現れる祈(願い)は独(ただ一つ)である。
なにしろ、限度以上に重たい仕事をほんとうに気前よく引きかぶって、だれもが青息吐息のありさまですからな。しかし、われわれは、請願者が勝手にわれわれの担当業務を乱すことを黙許するわけにはいきません。
☆現場不在の重さを負うのは真の氏族ではないのですから。しかし、絶え間なく小舟の災難である妨害を甘受しています。