続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

🈞デュシャン『急速な裸体に囲まれた王と王女』③

2019-05-19 06:35:43 | 美術ノート

 総ては接合しているように見え、塊があり流れがある。
 そうだろうか、そう見えるに過ぎないのではないか。仮にそう見えたとして、では何か?と問われれば答えに窮する形態である。
 連続するような関連も孤立した主張もない。
 曲線の多用によってひどく立体的に見えるが、分散し継続のない集合は遠目で見ると平板である。近視眼的に部分を追うと複雑な組織は何かを正確に描き表しているように見える。
 何か?
 答えを見つけられないまま視点は中央の光の当たった部分で止まってしまう。

 画を逆さにしても、答えは同じである。
 大体、急速な裸体などというものはない。急速な、という形容は時間を要する表現であり、裸体(物体)という名詞にかかることはあり得ない。つまり意味を解放、意味の呪縛を解いている。

 王と王女の存在であるが、どこに表現されているのか不明である。これだと思う指摘があっても確実性はなく、あの部分でもこの部分でも想像を働かせるのは自由であり、タイトルの言葉に匹敵する画はあれでもこれでも選択の自由に任せられており、逆にあれでもこれでもないという選択も残される。

 王と王女という階層は開放されており、誰が王でも王女でも構わないという設定である。急速な裸体、急速はともかく裸体とは無産を暗示する。王も王女も無産も誰がどれだかわからない。
 ある種の部族(集合)はあっても、みんなそれぞれが偶然隣り合っているに過ぎない。デュシャンは権威からの解放を秘密裏に描いたのである。


 写真は(www.tauschen.com)より