続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『城』3191。

2019-05-27 07:07:08 | カフカ覚書

〈おまえは、おれだけのためにだけまわっているのだ〉
「だとするとですな」と、ビュルゲルは、二本の指で下唇をいじり、眼を大きく見ひらき、首をのばした。まるで、苦労して歩きまわったあげくに、やっとすばらしい景色を展望できる地点に近づいたとでも言わんばかりであった。


☆「ところで、要するにだな」と、ビュルゲルは言った。指(手)を強制され、下はぼろ布をまとっている。大きな目で首をうなだれ、辛苦に満ちた変化を魅力ある眺望の場所にした。


🈞デュシャン『花嫁』

2019-05-27 06:30:17 | 美術ノート

   『花嫁』

 花嫁というのは結婚当日もしくは結婚当初の美称である。つまり状態に冠を被せたような呼び名のことであり、実体その物の固有名詞ではない。花嫁という呼称は女なら誰でも呼ばれる可能性がある、一時的な仮の呼び名である。
 確かに「花嫁さん」と呼び呼ばれる呼称であるが、継続的な長い時間を持たない。

 時間が曖昧であり定着あるいは固定の持続に継続がないという宙に浮いたまぼろしであり、記録文書に記されることのない呼称である。むろん、花婿においても同じことが言える。

 タイトルが示す作画に果たして「花嫁」を見出すことができるか。「これが『花嫁』です」と見せられても、脳裏に刻まれた花嫁とは合致しない。第一に人間(女)の不在、花嫁らしい衣装として納得できるものがない。

 機械のようでもあるが連続した行程を示すものがなく、それぞれがそこに在る寄せ集めであって美的でもなく生産性を予期させるでもない。曲線や立体めくものに意味を探すが、現実の使用に耐えうるシステムを発見できない。

 無為無策≠花嫁≠実体を呼ぶが、実体のない呼称という《有るが無いもの》である。


 写真は(www.tauschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』25.

2019-05-27 06:17:17 | 宮沢賢治

 そのとき誰かうしろの扉をとんとんと叩くものがありました。
「ホーシュ君か。」ゴーシュはねぼけたやうに叫びました。ところがすうと扉を押してはひって来たのはいままで五六ぺん見たことのある大きな三毛猫でした。


☆遂(やりとげるのは)悲(衆生の苦しみを除こうとする仏の哀れみ)の講(話)である。
 訓(教え導く)教(神仏の教え)は秘(人に見せないように隠している)
 往(人の死)は雷(神なり)。
 語(言葉)で録(書き記し)現す。
 題(テーマ)は太陽の望(願い)の平(平等)である。


『城』3190。

2019-05-27 05:48:29 | カフカ覚書

ビュルゲルの、あきらかにご本人がねむるのにはなんの役にもたたない、得々としてまくしたてる低い声にも、もうすっかり慣れっこにんって、おれの眠りを妨げるどころか、子守歌にしかならないだろう。〈ごとごとまわれ、水車、ごとごとまわれ〉と、彼は考えた。


☆ビュルゲルは、明らかに色あせた不在証明にすっかり慣れさせ、自分の死に自分自身で満足していた。ごちゃごちゃ言う塵芥だと、わたしをそう考えていた。