「まえに申しあげた、非常にまれな、ほとんど起りっこない可能性なるものは、どこにあるのでしょうか。秘密は、管轄にかんする法規のなかに隠れているのです。
☆それぞれの思い込みの中で、決して傷痕は無いという可能性はどこにあるのか。秘密は権限のある処方に入っています。
全く何かを想像できない作画である、何かに当てはめることを拒否しているとも言える。ロートのような物の先は唐突に切れているし、何より接合部分の危うさ、ネジのような物も回転するには欠けている。全体、各所で動きは止まる仕組みである。手前のものより後ろにある部分に正面から光が当たっているのに、影を見ると上方からに感じられる。
総てが切れ切れで重さを感じるにもかかわらず、宙に浮いている。(着地感がない)
きわめて条理に反したこの作画は何を意味しているのだろう。
『花嫁』とタイトルしている。
華やかさや喜びといった通常花嫁から受ける印象をことごとく消している。
二人が一つに結びつくという一体感は無く、いずれ崩壊をを余儀なくされるような構成でありながら、一見堅固に結びつきを保っている作画。否、持続は可能かもしれない。
問題は時間かも知れない。
『花嫁』という呼称の持つ時間は不定である。
(永遠≠花嫁≠0)(永遠≧花嫁≧0)
時間は社会的(世界基準)であるが、個人の内にもある。
『花嫁』は明白であるように見えてズレと曖昧さによって成り立つ時間を内包している。デュシャンは時間の曖昧さを『花嫁』という作品で問うている。
写真は(www.tauschen.com)より
ゴーシュの畑からとった半分熟したトマトをさも重さうに持って来てゴーシュのまえにおろして云ひました。
「ああくたびれた。なかなか運搬はひどいやな。」
「何だと」ゴーシュがききました。
「これおみやげです。たべてください。」三毛猫が云ひました。
☆将(その上)判(可否を定めて)粉(細かく砕き))を熟(まったく)自由な字を頼りに全てを運(めぐらせている)。
太陽の望(願い)の平(平等)を運(めぐらせている)。