雑多な形態が複雑に入り混じっている。細い線を追っていくと、繋がっているというよりは隠蔽、隠れてその関係が見えない。彩色の濃いものが背後にあるのかと思えば手前に出てくる。
遠近をさりげなく否定、壊している。光彩に関しても同様な不明があり、対象物(光景)を描く(見る)という基本(通念)を微妙に崩壊(否定)しており、現実に再構成(組み立て)の不可能な立体(三次元)である。
そして、何故これが『花嫁』なのかと問えばさらに混迷は深まる。
花嫁という誰もが得られる可能性のある命名、しかし、誰もがその命名に固執し続けることのない命名。一時的にあるように見える、否、確かに在るが存続しえない美称は世界中あちこちで生まれては消えている。日常のなかにあって非日常性を帯びた言葉。
男女の結びつき(婚姻)において周囲のものが祝福をこめて、そう呼称する。
時空の中に起きる現象、定まった時期や法規の中にも存在せず、偶発的とも言える《泡》のようなものである。
時空の中で居場所を決定しない、宙に浮いたシャボン玉のような言葉としての『花嫁』を選択し、近似する光景としての作画を描いたのだと思う。摘まもうとすればスルリと抜け出てしまうような流体への感覚、確かに在るが、無いのである。
写真は(www.tauschen.com)より
ゴーシュはひるからのむしゃくしゃを一ぺんにどなりつけました。
「誰がきさまにトマトなど持ってこいと云った。第一おれがきさまらのもってきたものなど食うか。それからそのトマトだっておれの畑のやつだ。何だ。赤くもならないやつをもしっていままでもトマトの茎をかじったりけちらしたりしたのはおまへだろう。行ってしまへ。ねこめ。」
☆逸(隠れたもの)を推しはかる。
字で運(めぐらせた)題(テーマ)が逸(隠れている)自記である。
将(あるいは)、化(教え導くこと)の釈(意味を明らかにする)系(続きをなすもの)の講(話)である。