続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

飯島晴子』(私的解釈)鍵束の。

2020-09-23 07:03:55 | 飯島晴子

   鍵束のよく鳴って蛇穴に入る

 鍵束のよく鳴って・・・じゃらじゃら、ジャラジャラ、蛇等蛇等。
 一つの穴に多くの蛇が一塊になっていることもあるという。鍵束が鳴って(人が近づいたので)、蛇が穴に隠れたという景。

 鍵束はケン・ソクと読んで、兼、則。
 よく鳴って(良鳴)はリョウ・メイと読んで、両、迷。
 蛇穴に入るはジャ・ケツ・ジュと読んで、邪、決、受。
☆兼ねる則(きまり)がある。
 両(二つ)を迷う邪(や)。
 決(きっぱり決めて)受(受け取る)。

 鍵束はケン・ソクと読んで、虔、足。
 よく鳴って(良鳴)はリョウ・メイと読んで、僚、盟。
 蛇穴に入るはジャ・ケツ・ジュと読んで、邪、結、需。
☆虔(慎み深い)足(弟子)である僚(友達)と盟(約束をして仲間になる)邪(や)。
 結(結束)を需(必要とする)。


R.M『目』

2020-09-23 06:26:36 | 美術ノート

   『目』

 画面中央に目が描かれている、周囲は覗き穴のようにベタで黒い色面に被われている。
 目を見ている鑑賞者は同じく描かれた目に見られている関係にある。
 目を見れば、目の機能を熟知している鑑賞者は見られていると感じてしまう。

 目は、すなわち対象世界を見る器官である。見ることは見られている関係にあるという基本の論理を承知していても、見るという主体を優位に考えがちである。
《わたしが見る》のであって《わたしは見られている》という同時性を無視する傾向にあることは否めない。
 つねに、《わたしは見ている》という優位を以て世界を眺め渡している。

《見ること》と《見られること》の間には心理的な壁が立ちはだかっているが、潜在意識の深い闇に霧消してしまう。見られていることを常に意識するのは自意識過剰の範疇にあり、犯罪心理などでは《見られたくない故に見ている》という現象であり、誇示心理では《見られることの快感》に行き当たる。

 見ることは時空の距離間を測ることであり、対象を把握し危険を回避、あるいは遭遇を歓喜するなどの意味を孕んでいる。つまり情報処理が目の器官を通じてなされるということである。
『目』、この作品は、見ることと見られることの同時性に支えらた日常への認識を新たにするものである。


 写真は『マグリット』展・図録より


『注文の多い料理店』39.

2020-09-23 06:15:35 | 宮沢賢治

「さうだらう。して見ると勘定はこゝで払うふのだらうか。」
「どうもさうらしい。」
「さうだ、きつと。」
 二人はめがねをはづしたり、カフスボタンをとつたり、みんな金庫の中に入れて、ぱちんと錠をかけました。


☆現れたものを観(よく見ると)、常に記は殖(増える)。
 字の図りごとが混ざっている。
 個(一つ一つ)を註(解き明かす)新しい状(すがた)である。


『城』3501。

2020-09-23 06:03:57 | カフカ覚書

女中たちのひとりが、以前から高価な布地をもっていました。これは、いわばその子の宝物で、よく同輩たちに見せびらかしては、いつかこれで豪華な服をつくれる日を夢みていたのでした。ところが、わたしが必要としているとわかると、その布地を提供してくれたのです。


☆作り話の一つには以前から多大な材料がありました。しばしば感嘆し、空想に耽ったまま、先祖の傷痕を利用し、非常に大変なふるまいをしたのです。今、ペーピ(わたし)に必要なのは彼女たちの犠牲です。