続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)とりかへし。

2020-10-09 07:11:36 | 飯島晴子

   とりかへしかずかがやく夏大根

 とりかへし? 春大根は失敗に終わったけれど、再び元の状態に返った畑。かずかがやく・・・根が土から盛り上がり数多の生育を見せている日差しに強い夏大根である。

 とりかえし(取返)はシュ・ヘンと読んで、趣、変。
 かずかがやく(数輝)はスウ・キと読んで、数、記。
 夏大根はカ・タイ・コンと読んで、加、他意、根。
☆趣(ねらい)が変る数(図りごとの)の記である。
 加えた他意には根(物事のもと/気力)がある。

 とりかへし(取返)はシュ・ヘンと読んで、修、遍。
 かずかがやく(数輝)はスウ・キと読んで、枢、揆。
 夏大根はカ・ダイ・コンと読んで、何、代、混。
☆修(整える)と、遍(もれなく)枢(要)の揆(図りごと)がある。
 何かに代わるものが混ざっている。


R.M『終わりなき認識』④

2020-10-09 06:41:52 | 美術ノート

 球体の上の彼に近づくことは永遠にできない。なぜなら、それが絶対的な前提だからである。
 彼は常に落下の危機を孕む状態にいるが、こちらのわたくし(マグリット)は室内にいるからその危機はない。というのは、思い込みにすぎない。わたくしが彼であるからで、この関係が認識の根拠である。

 認識とは常に対象に対する見極めであるが、五感を最大限に生かしても完全な把握には届かない。総合的な経験値、情報の過多を誇っても誤差は免れず、曖昧さが残る。曖昧さを肯定するのは自身の客観的見方によるもので、否定は認識の第一条件である。

 内なるわたくし(マグリット)と、外なる彼(マグリット)が主観と客観であるならば、一致の傾向はあっても、見える景色には空間的にも時間的にも差異があることを認めないわけにはいかない。

 自身を分解することで証明した『終わりなき認識』である。


 写真は『マグリット』展・図録より


『注文の多い料理店』51.

2020-10-09 06:24:20 | 宮沢賢治

「だからさ、西洋料理店といふのは、ぼくの考へるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家とかういふことなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが……。」がたがたがたがた、ふるへだしてもうものが言へませんでした。


☆済(救い)が、要(かなめ)の霊(死者の魂)の裏(物事の内側)を展(ひらく)講(話)である。
 済(救い)が、要(かなめ)の霊(死者の魂)の裏(物事の内側)の理(道理)を来す。
 認(見分けること)に頼る。
 腎(かなめ)の済(救い)は陽(太陽)である。
 霊(死者の魂)の理(道理)の自記であり、化(教え導くこと)が現れる。


『城』3513。

2020-10-09 06:14:44 | カフカ覚書

そうでない場合でも、フリーダは、おそろしくけちで、よい身なりをしませんでした。かせいだお金は、みんな貯めこむ一方でした。なんのためにそんなに貯めこむのか、だれにもわかりませんでした。


☆そうでない場合も、彼女はケチで、よいものを身につけることはありませんでした。働いて得るすべてを持っているのは何のためなのか、誰も知りませんでした。