続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)親の列。

2021-05-11 07:18:24 | 飯島晴子

   親の列白い茸に立到り

 親の列はシン・レツと読んで、心、烈。
 白い茸はハク・ジョウと読んで、博、情。
 立到りはリツ・トウと読んで、律、当。
☆心(精神)は烈(正しく強く)博(大きく広がっている)。
 情(思いやり)を律(物事の基準となる決まり)とするのは当(当たり前)である。

 親の列はシン・レツと読んで、身、烈。
 白い茸はハク・ジョウと読んで、迫、常。
 立到りはリツ・トウと読んで、慄、闘。
☆身(からだ)の烈(はげしい)迫(苦しみ)、常に慄(恐れ戦き)闘っている。

 親の列はシン・レツと読んで、浸、烈。
 白い茸はハク・ジョウと読んで、駁、状。
 立到りはリュウ・トウと読んで、流、蕩。
☆浸(水がしみ込むこと)を烈(はげしく)駁(非難する)。
 状(ありさま)は流れで蕩(揺れ動く)。

☆親が並んで逝く、魂は静かな流灯(盂蘭盆会の夜、点火して水に浮かべてながす灯篭)である。


野いばら。

2021-05-11 06:52:55 | 日常

 小さな川…このあたりは子供のころ「雨が降って水位が上がると、ウナギが捕れたんだ。蛍も笹竹でさっとはいただけで、捕れたし…」と、懐かしそうに話す地の高齢者。
 今はコンクリートで固められた小川、だけど、川の淵にはいろんな草木が生えている。
 カラスザンショウ、この葉にアゲハチョウの卵が産み付けられるからと、葉をひっくり返して眺めたり、「ああ、これは野茨」バラの原種・・・小学校のときの山歩きを思い出す。博物館の生物探索も楽しかった。でも、もう無理・・・足元不如意のおばあさんと化したわたし、近所の草木を眺めているのが無難。
 衰えていく体調ではあるけれど、その時々それなりに自然に触れ合える楽しみに感謝している。


若林奮『1-1-10』

2021-05-11 06:14:58 | 美術ノート

   『1-1-10 泳ぐ犬』

 泳ぐ犬、泳ぐ犬の前にいるはずの作家、あるいは鑑賞者。向かっている、向かってくる犬である。
 対峙の距離、犬を見る者の位置。水の中、あるいは陸上なのかは不明である。
 泳ぐ犬は、自身そのものである可能性も否定できない。泳ぐ犬だけが厳然と目前に向かっている。犬は相の異なる場にいて休息を得ることができず、常に泳いでエネルギーを放出しなければならない。
 泳がなければ、すなわち死ぬという現象に移行せざるを得ない。地上の安息は遠く、泳ぎ続けるという過酷な条件を課せられている。

 泳ぎ続けるということは生き続けることに等しい。諦念や焦燥は泳ぐ(全身/希望)行為の障害であるが、必ずしも負の要因が内在しないとは言い切れない。絶対条件は泳ぎ続ける先の安息である地上に行き着くことである。

 泳ぐ犬を見ている自身、「あの犬は自分だ」という主観。「あの犬は自分ではない」という冷静な客観。

 犬と自身との距離…泳ぐ自分を犬が見ていると言い換えてもこの課題は成立する。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館


『城』3648。

2021-05-11 06:09:11 | カフカ覚書

「それでは、あなたは、ご自分がきのうおっしゃった言葉をやっと思いだされたようですね。さらにそれに無意味なことをつけ足して、いっそう完全なものになさろうというわけね。


☆あなたは自分の運命に気づいてしまったことを思い出したようですね。無意味なことを通して完全なものにしたのです。