裸体、と言われれば裸体に見える物の連写風である。
確かに階段を下りるときの人間の体制には違いない、しかし、この作品の必然的な意味は何かを問うと、時間、時の刻みしか見えてこない。しかもそれは、階段を降りるときの人間の動きを経験、熟知したものに限られる。建物の構造を知らなければ通じることのない、想像し得ない一枚である。
第一、人間という態を成さない板状の質感は機械的でさえあり、血肉の生を消している。物が移動する場合熱量(位置エネルギ=)が発生する。役には立たず無為に消える熱量に他ならないが、ある意味それは《人生》そのものであるような気がする。
存在の意味、持続する生、始まりと終わり(生と死)・・・連続は永遠ではないが途切れることのない動きをもってそれを《生》とする。
『階段を下りる裸体』は人生そのものであり、人は裸で生まれ裸で死んでいくことの告白である。
『上から生まれ、下へと下降していく』デュシャンの皮肉かもしれない。
写真は『DUCHAMP』 www.taschen.comより
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