それはしばらく線路に沿って進んでゐました。
線路はセン・ロと読んで、千・路。
沿ってはエンと読んで、縁。
進んではシンと読んで、真。
☆千(たくさん)の路(みちすじ)が縁(つなぐのは)真(まこと)である。
わたしたちも、おなじように絶望しておりましたが、なにしろ若かったものですから、一家がこれで完全に破滅したのだとは信じられず、お客がこうしてつぎつぎに訪ねてくるけれど、最後にはだれかがあらわれて、待ったをかけ、すべてのことを逆行させて、またもとどおりにしてくれるだろう、とたえず考えておりました。
☆わたしたちみんなは同じように絶望しておりました。
わたしたちは、先祖がこのように破滅していくことが信じられませんでした。連なって訪ねてくる客も、最後には誰かが現れて、停止を命じ、死を逆行させ、この激動に打ち克つのだと常に考えておりました。
今、わたしが座っているパソコンの下には団扇がある。ついこの間まで、ここに座るとこの団扇で扇いで流れる汗を鎮めていたのに・・・。
今朝は電気座布団の電気を入れ、足には毛布、肩には一枚上着を羽織った。ストーヴやエアコンを点けるほどではないけれど、秋本番の寒さである。
めくるめく日々は過ぎ去っていき、わたしの衰退に拍車をかけていく。
(寂しくて虚しくて・・・)
自然の理の中を生きている、人生という列車が黄昏を直進している。
寒いと、考えまで硬直し切ない流れに巻き込まれてしまう。
まだまだ、明るくて楽しい日々だと夢想することくらいはできる。無理にもそう思い込み、今朝の冷え込みを清々しいと甘受したい。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
(鳥かごに入れられた152個の角砂糖型大理石、温度計、イカの甲)
ガラクタである。意味を見いだせず、美しくもなく、奇妙な混在でしかない。
本来、生物(小鳥/有機質)を入れるべく作られた容器に、大理石・温度計・イカの甲という無機質なものを詰め込んでいる。大理石は利用価値を疑うほどの小さな立方体に刻まれ、温度を測る必要のない物体の中に温度計を差し込み、イカの甲という死骸を付け加えた鳥かご。
全体、それぞれの物に必然性がない。循環の関係性が皆無である。
デュシャンは、《無意味》を熟考し、意味を見いだせない関係性を追及している。
《有》をもって《無》を提示せしめたのである。
空気を『パリの空気』というように、《無/見えないもの》をもって《有》を差し出したことと表裏である。
無は空中(見えないところ)にあるのではなく、存在の中にこそ《無》が潜んでいることの証明である。
(写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)
そのときすうっと霧がはれかゝりました。どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。
☆謀(はかりごと)の講(はなし)は、我意である。
禱(神仏に祈り)、照(あまねく光が当たる=平等)を伝え、導(教えみちびくこと)が逸(かくれている)。
裂(バラバラに離れる)Two(二つ)がある。
しかし、父のほうは、この日のことでもうすっかり疲れはて、絶望しきっていますので、他人に助け舟を出すことなんか思いもよりません。それどころか、そもそもなにが問題なのか考えめぐらすこともできないほど疲れきった様子です。
☆しかし、父(先祖)のほうは、この日のことですっかり疲れ、絶望していましたが、ゼーマンについては助けることができたのかもしれません。ただ、この事件を考えるには疲れ切った様子なのでした。
『秘められたる音』
《ネジ留めされた真鍮板で挟まれた紐の玉》とある。
真鍮の板で挟まれている・・・圧迫、圧制。
挟まれた紐の玉・・・拘束、不自由。
紐の玉を擬人化して観察すれば上記の様な感想を抱く。即ち、苦境の叫びが秘められているということになる。
四方に解放の出口は開けられているが、上下からの圧迫で身動きできない。これは社会への風刺だろうか。重く強固な真鍮版に比して、紐(縄)は軽く劣化が著しく速い。強者に対する弱者の構図とも言える提示である。
しかし、デュシャンは語らない、あるがままを感受すればそれでいいという冷徹な眼差しである。
見る側は、鈍重な対応でこれに対する判断を出しかね迷走する。重苦しく役に立たない工作に対し、疑念から憤怒に至る者も少なくないと思う。
はっきり対象物を見せているにもかかわらず、抽象的な見解しか導き出せない。答えに正解がないからである。
しかし、物は物の質感・置かれた状況によって言葉(雰囲気)を醸し出す。作家の創意は物の持つ特性に感情移入されるので、ことさら作家自身のコメントは不要なのである。
二枚の真鍮版に挟まれた紐の玉、拘束されているとも保護されているともいえるこの関係、この構図に、音が秘められているという。
聞こえない音を聞く、物理的な音波ではなく心理的な振幅である。精神の深淵に共鳴する音を感受せよと言っているのであり、無の中に有(音)を感じるということである。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
戦後、障害者施設を立ち上げた人が「この子らに光を」という同情を集めるフレーズではなく、「この子らを光に」という言葉に行き着いたという話を何気なく(TVで)聞いていた。
『ロゴスドン』の今回のテーマは『優生思想とは何か』だった。全くボンヤリ書き記し送信した後の時間に流れた放送に胸を衝かれた。
弱者と思われる人への同情でなく、《弱者こそが光である》という教えこそが、優生思想に対抗する要であるに違いない。
わたしの書き送った小論文など、この放送を聞いてからは輪郭のぼやけた甘いものに思えて仕方がない。本当の意味で偉い人がいらっしゃる、なかなかその域にまでは達することができないけれど、日々の生活においても優しさという緊張感を忘れてはならないと思ったことでした。
この子らに、という《に》を《を》に、たった一文字を変えることで大きく意味が変わることの素晴らしさ・・・この一文字の中には大きなエネルギーを要する優しさが溢れています。
(素敵な放送をありがとうございました。ただお名前を…どうしても思い出せません)
たゞたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金の円光をもった電気栗鼠が可愛い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。
☆黙っている要(かなめ)は、謀(はかりごと)で注(書き記し)留めている。
往(人が死んでも)魂は縁(つながっている)という考えを伝える記である。
律の礎(根本)は、化(教え導く)の信仰として注(書き記している)。
そうしながら、ゼーマンは、たえず笑っています。笑うことによって自分自身やみんなの気持ちをいくらかでも落着かせようというつもりなのでしょうが、ゼーマンは笑うことができないし、みなさんもこの人の笑い声をまだ聞いたことがないものですから、だれひとりとして、これは笑っているのだとは気もつかないのです。
☆その際、彼はたえず復讐しています。そのことによって先祖を少しでも安心させようと望んだのです。しかし、彼は復讐することができないし、だれも復讐しているのを知っている人はいません。誰一人として復讐しているとは思わないのです。