続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『オツベルと象』57

2019-02-25 07:01:41 | 宮沢賢治

「お筆も紙もありませんよう。」象は細うきれいな声で、しくしくしくしく泣き出した。


☆必ず旨(志す)章(文章)で、済(救い)の照(あまねく光が当たる=平等)を究め、推しはかる。


『城』3133。

2019-02-25 06:43:39 | カフカ覚書

たしかにそのとおりなんです。もちろん、そういうチャンスがあっても、それを一度も利用しなければ、全体の事情と一致することになってしまいます。しかし、なぜそれを利用しないのだろうかと、わたしはたえず疑問におもっているのですがね」


☆わかっています。もちろん、それにもかかわらず、そのチャンスがあっても、それを傷痕として利用しなければ、すべての状態はうまくいくでしょう。しかし、なぜ利用しないのだろうかと、わたしは常々問題視しているのです。


🈞マグリット『現実の感覚』③

2019-02-22 07:13:01 | 美術ノート

 この光景の視点は一つである。二重の視点によって被せられた光景ではなく石を真正面に見据えた眼差しで下方の風景を捉えている。

 つまり石と風景は同じ時空にある。そしてそれは現実ではない。重力圏内に於いて落ちてこない物は無いからである。
 即ち非現実の光景であり、それをもって『現実の感覚』と題している。目に見える物理的尺度の世界を通常では現実と呼ぶ。
 しかし、心象こそが私的世界における五感(あるいは六感)をもって感じうる刺激的な現実の感覚であるという主張である。

 見えていることへの信奉、それを現実と呼ぶ。積み重ねた情報を取捨選択し仮想の時空を《わたくしの時空》として重力を外し並び変えた光景である。
 私的な時空には正しく二十六日の月の南中が在り、風景は太陽に拠らずとも明るく雲は真白である。つまり、影がないのである。しかし自身(石)には少々の汚れが認められる。喜怒哀楽の人としての業の悲しさかもしれない。

『現実の感覚』、すなわち私的世界の告白であり表明である。


(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)


『オツベルと象』56

2019-02-22 06:49:04 | 宮沢賢治

「おや、何だつて?さよならだ?」月が俄かに象に訊く。
「えゝ、さよならです。サンタマリア。」
「何だい、なりばかり大きくて、からきし意気地のないやつだなあ。仲間へ手紙を書いたらいゝや。」月が笑つて斯う云つた。


☆化(教え導くこと)を合わせ、画(はかりごと)の章(文章)を尽くす。
 化(教え導くこと)の他意を為す記である。
 二つを注(書き記し)換(入れ替える)趣(ねらい)の詞(言葉)がある。
 諸(もろもろ)合わせた詞(言葉)を運(巡らせている)。


『城』3132。

2019-02-22 06:30:11 | カフカ覚書

しかし、ご注意いただきたいのは、全体の事情がそうだるにしても、ときにはほとんどそこからはみだしたような機会も生じてくるということです。言葉ひとつ、眼くばせひとつ、信頼のしるしひとつだけでも、生涯にわたる血のにじむような努力によるより以上のことが達成できる、そういうチャンスがあるものです。


☆しかし、注意していただきたいのは、そうであってもたくさんの傷痕の場所がほとんど一致しないということです。徴候や信頼が衰弱するほどの苦労によれば、すべての状況が生涯を通して達成できる機会があるということです。


🈞マグリット『現実の感覚』②

2019-02-21 07:06:21 | 美術ノート

 ぽっかり浮かんだ月ならぬ巨岩石、最も自身の意思表示であれば、巨岩というより単に石という感覚かもしれない。
 世界の中心に位置しており、世界(風景)はわたし(石)を包み込む背景にすぎない。

 その背景(世界)の穏やかなこと。尖った山はなく川の流れの続く豊かな草原の拡がり、雲白くスカイブルーの空も明るい・・・平和である。
 なのに、わたし(石)は少々汚れでくすんでいる、疲弊だろうか。

 しかし、上空にある二十六日の月、朝方見えても昼には太陽の明るさで霞んで消失してしまう、その月がくっきり見えるということは虚偽であるが、その月がないわけではなく厳然と存在しているのである
《有るが無い》・・・わたし(石)も有るが無い心象の石である。

 争いの絶えない世界の現状も宇宙の上から見たなら何事もない風景にすぎない。
 存在と非存在の狭間を行き来する『現実の感覚』、証明の論理は常に否定と肯定の先にあり、空論に帰す徒労を孕んでいる。

 宙に浮く石の徒労を誰も知らない。有るが無い、それが現実の感覚である。


(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)


『オツベルと象』55

2019-02-21 06:53:55 | 宮沢賢治

 ある晩象は象小屋で、三把の藁をたべながら、十日の月を仰ぎ見て、
「苦しいです。サンタマリア。」と云つたといふことだ。


☆番(組み合わせる)章(文章)の衝(重要なところ)は、照(あまねく光が当たる=平等)也。
 散(バラバラにし)破(壊す)考えは、自由な何かを合わせる講(話)でありり、兼ねた句(言葉)を運(巡らせている)。


『城』3131。

2019-02-21 06:41:52 | カフカ覚書

わたしは、そういうことの実情をしらべてみるつもりはりませんが、そういうふうに見えるということは、もしかしたら実情と合致しているかもしれません。ただ、わたしのような立場におりますと、あまりのも距離が近すぎて、よくわからないのです。


☆わたしは、それによって本来の事態を調べるつもりはありませんが、ひょっとしたら実際、現実に一致するかもしれません。わたしの立場では正しく突き止められないのです。


🈞マグリット『現実の感覚』

2019-02-20 07:02:47 | 美術ノート

   『現実の感覚』

 このシリーズ(空中浮遊の石)の画面の大きさはほぼ身の丈くらいであり、石は目の高さに向き合っている。この対峙は〈わたくし=石〉を暗示している。
 二重の時空が被さっているが地上は遥か下方にあり、この対峙から見ると眺め下している構図である。また、水平線の視野から見れば石は見上げる位置にあり、うっとおしく奇異な存在に映るに違いないが、あくまで個人(マグリット自身)の心象であるから実際の軋みは論外である。

 つまり、心象風景である。
 にもかかわらず、『現実の感覚』と題している。地上をはるかに超越した高みに浮かぶ巨岩石(石の風袋をした風船ではない)。
 悠々たる浮上には命がけで燃焼せざるを得ないエネルギーが必須である。

 しかし、見よ! 頭上には二十六夜の月が南中している。真昼間には決して見えない細い月である。(反対の三日月も夕刻近くにならなければ見えないのと同じ論理である)
 見えないものを見せてる。
 見えない光景を描いている。鋭敏な観察力による告知の風景、わたくしの告白である『現実の感覚』は、わたくし自身の世界を写している。


(写真は国立新美術館『マグリット』展/図録より)


『オツベルと象』54

2019-02-20 06:50:37 | 宮沢賢治

しかたがだんだんひどくなつたから、象がなかなか笑はくなうた。時には赤い竜の眼をして、じつとこんなにオツベルを見おろすようになつてきた。


☆照(あまねく光が当たる=平等)は章(文章)の釈(意味を明らかにする)で流(世間に広まる)。
 現れたものを験(よく調べること)。