ゴーシュの畑からとった半分熟したトマトをさも重さうに持って来てゴーシュのまえにおろして云ひました。
「ああくたびれた。なかなか運搬はひどいやな。」
「何だと」ゴーシュがききました。
「これおみやげです。たべてください。」三毛猫が云ひました。
☆将(その上)判(可否を定めて)粉(細かく砕き))を熟(まったく)自由な字を頼りに全てを運(めぐらせている)。
太陽の望(願い)の平(平等)を運(めぐらせている)。
〈おまえは、おれだけのためにだけまわっているのだ〉
「だとするとですな」と、ビュルゲルは、二本の指で下唇をいじり、眼を大きく見ひらき、首をのばした。まるで、苦労して歩きまわったあげくに、やっとすばらしい景色を展望できる地点に近づいたとでも言わんばかりであった。
☆「ところで、要するにだな」と、ビュルゲルは言った。指(手)を強制され、下はぼろ布をまとっている。大きな目で首をうなだれ、辛苦に満ちた変化を魅力ある眺望の場所にした。
『花嫁』
花嫁というのは結婚当日もしくは結婚当初の美称である。つまり状態に冠を被せたような呼び名のことであり、実体その物の固有名詞ではない。花嫁という呼称は女なら誰でも呼ばれる可能性がある、一時的な仮の呼び名である。
確かに「花嫁さん」と呼び呼ばれる呼称であるが、継続的な長い時間を持たない。
時間が曖昧であり定着あるいは固定の持続に継続がないという宙に浮いたまぼろしであり、記録文書に記されることのない呼称である。むろん、花婿においても同じことが言える。
タイトルが示す作画に果たして「花嫁」を見出すことができるか。「これが『花嫁』です」と見せられても、脳裏に刻まれた花嫁とは合致しない。第一に人間(女)の不在、花嫁らしい衣装として納得できるものがない。
機械のようでもあるが連続した行程を示すものがなく、それぞれがそこに在る寄せ集めであって美的でもなく生産性を予期させるでもない。曲線や立体めくものに意味を探すが、現実の使用に耐えうるシステムを発見できない。
無為無策≠花嫁≠実体を呼ぶが、実体のない呼称という《有るが無いもの》である。
写真は(www.tauschen.com)より
そのとき誰かうしろの扉をとんとんと叩くものがありました。
「ホーシュ君か。」ゴーシュはねぼけたやうに叫びました。ところがすうと扉を押してはひって来たのはいままで五六ぺん見たことのある大きな三毛猫でした。
☆遂(やりとげるのは)悲(衆生の苦しみを除こうとする仏の哀れみ)の講(話)である。
訓(教え導く)教(神仏の教え)は秘(人に見せないように隠している)
往(人の死)は雷(神なり)。
語(言葉)で録(書き記し)現す。
題(テーマ)は太陽の望(願い)の平(平等)である。
ビュルゲルの、あきらかにご本人がねむるのにはなんの役にもたたない、得々としてまくしたてる低い声にも、もうすっかり慣れっこにんって、おれの眠りを妨げるどころか、子守歌にしかならないだろう。〈ごとごとまわれ、水車、ごとごとまわれ〉と、彼は考えた。
☆ビュルゲルは、明らかに色あせた不在証明にすっかり慣れさせ、自分の死に自分自身で満足していた。ごちゃごちゃ言う塵芥だと、わたしをそう考えていた。
あえて鋳型としたのであって型(パターン)ではない。
鋳型に先(上下)に尖ったり細かったりする部分がある、そういうこともあるかと思いつつ、内部の型をとる場合、外部から圧力が入るはず。細く尖っている部分をとる場合鋳型まで細く尖らせる必要はない。
鋳型・・・本来の目的は、写した本体の外側の形状を模り、内部の本体の形をした空間にある。
鋳型の本来の目的はその空間の形にある。
空間、何もない形、《無いが有るもの》である。
9つ(Neuf)に意味はあるだろうか、neut(neuter)…中性(男でも女でもない/無性)を暗示しているかもしれない。
雌でも雄でもない雄の鋳型(空虚)という意味を把握できない混沌に陥れられてしまう。
しかし作品には実態がある、ただそれが何なのか不明な形態であり、加えて鋳型の態をなしておらず、鋳型を否定するものである。
デュシャンは明らかに見える形態を通して、決して明らかに見ることの出来ない空無を制作したのであり、無を有(存在/言葉と物)によって浮上させたのである。
写真は(www.tauschen.com)より
雄・鋳型という関係から考えると、DNAやRNAの複製という観点が浮上するが、作品を見ると分子配列でもなく(物/物質)である。
何を模っているのかは不明であり、鋳型により鋳造された物とも考えにくい。
鋳型とは液状のものを流し込み、形を作るための仕掛け(物)であって、完成した目的ではなく媒体である。本来の形態の上をなぞり本来の形態を空洞化したものを指す。
9つの雄・・・雄とは生物の生殖器官の差異によるもう一方の呼称である。(染色体が一つ多い)どちらが雌でも雄でも構わない呼称であり一方が欠ければ繁殖は叶わない。
∴ 9つであること、雄であることの意味は無いのではないか。
しかも鋳型である。生産された後には不要になるものであり、見えていない内部こそが、重要な目的物を隠している。もちろんその有無は鋳型の外観からは図り知ることはできない。
もっともらしい9つの形態の提示。
見える形から作品の意図を探し感受することが、鑑賞の一般的な方法である。だから、見えている《9つの雄の鋳型なる図形=9つの雄の鋳型》という肯定を受け入れねばならない。
しかし考えを進めていくと、タイトル及び作品に《実体》がないことを悟る。追求すべき論点が空に浮上してしまう。
『9つの雄の鋳型』の鑑賞すべき焦点は《空無》に辿りつくしかなく、《存在による非存在》への凝視こそが答えの近くに位置しているのだと気づく。
写真は(www.tauschen.com)より
鋳型の外側は、本体に関係しないから無雑作・無作為であるのが普通ではないか。
にもかかわらず、外観こそが鋳型の中身であるかと錯覚させるような造りである。
しかも、何かを連想させない、連想することを拒否するような形態である。二本脚のような物はズボンを連想させるがズボンを鋳型で作るなど聞いたことがない。
倒立不可であり、中(鋳型)と外観が酷似(相似形)したものである確証もない。むしろ関連(酷似)などないと考えるのが妥当である。
一つ確かなことは、鋳型であれば、内部(本体)は、これら外観より小さいということだけである。
結論から言えば、9つの鋳型の中身(本体)は不明であり、有無さえも断言できない。
鑑賞者は作品に対峙した場合、極力作者の意図をくみ取ろうとし、想像力を働かせる。目に見える形から手掛かりを掴もうとする。
しかし、《鋳型》である。
何の、という説明がないかぎり、鋳型の中身は決して言及できない。
デシャンは《無/想像不可/想像拒否》を狙い、あたかも想像を許すような無意味な形態を示して鑑賞者を迷路に誘い込んでいる。
目にも見え、明らかに有る状況から《無》を垣間見せている。経験上知覚し得たあらゆるデータの抹消を図っている。
『9つの雄の鋳型』は、見えないものを見せるための創意を凝らした作品である。
写真は(www.tauschen.com)より
夜中もとうにすぎてしまひはもうじぶんが弾いてゐるのかわからないやうになって顔もまっ赤になり眼もまるで血走ってとても物凄い顔つきになりいまにも倒れるかと思ふやうに見えました。
☆夜の自由な談(話)であり、信仰の釈(意味を明らかにする)が現れる。
質(内容)は総て仏の済(救い)の願いである。
禱(祈り)の詞(言葉)が現れる。
片方には担当の秘書がいて、他方には担当出ない秘書がいる。眼のまえには、多忙多端な陳情者たちの群れがいる。それでも、おれは、深い眠りの海の底に沈んでいき、こうしてあらゆるものからのがれ去るだろう。
☆一方では、権限のある秘書と権限のない他の人たちがいる。その集団に対して深い眠り(死)に入りこんだ関係者たちは、巧妙にもこれらすべてから免れるだろう。