#平成最後 #6/No.24.
平成最後のイメージとリアル。
まっ白い紙に『平成』と書かれた黒い文字。
その時、どんな年になるのだろうと考えた。
『平成』のイメージ。
#『平安』。
平成はきっと『平安』になるだろう、と。
東西ドイツを隔てていた壁が崩壊した。
『崩壊』により、兄と弟は互いに握手を交わせ、姉と妹は互いにハグをした。
元々、同じ国民が1つに成れるものなら、その崩壊は美しいものと言える。
そうであれば大歓迎だ。
かつての鉄のカーテンさえも無くなったのであれば。
兄は弟よりは偉くは無い筈。
姉は妹よりは優れているとは限らない筈。
少なくても生みの親からみたら、どの子も等しい。

楽しい筈の水掛けが、ある日、ある時、大変に感じ始めることがある。
ホースが絡まれば、身動きが取れない。
自分に絶えず水が降りかかる。
こんな筈じゃなかった!
と、後悔が始まった最初に、元に戻れば良かったのだ。
気づくのが遅かったと正当化するより、そのつもりがあるのなら、そこへ戻る勇気を示せば遅くはないのだ。
消えた過去へ固執するのでなく、真っ白な未来の方がこれから描ける可能性は沢山ある筈。
戻っておいで。
そう感じたときに。
#『平静』。
心が荒波のように騒ぎたてば、思いも掻き乱される。
心臓も脈打つ。
高鳴る鼓動をどうやって静めるのか?
心も、思いも、全てはあなたに属している。
自己統一する為の頭をまずは静めることです。
小さい、小さな1つの石ころにしたら、あなたの指先二本あれば、それは簡単に持ち上げることが出来ますよ。
感情の水に溺れていても、立ち上がればそれは膝小僧までしかない深さの水。
ゆっくりと立ち上がりましょう。

#『騒乱』。
シナリオは筋書き通りには運ばない。
予期せぬことが起き、想定外の事が生じ、管理出来ない事に遭遇した時、人はどうするのか?
責任転嫁、誤魔化し、情報隠蔽。
昔、『その後のウサギとカメ』の話を読んだ。
うまく行くつもりが、そこでもウサギは亀に負けた。
谷底からカメの大声が聴こえた。
『僕は谷底へ突き落とされても大丈夫ですよ~。』
『僕は生きていますよ~』。
ウサギはその声を聴いて、背筋が寒くなる想いをしたのだ。
世の中では、人が制御できない極地指定動物以上の猛獣を正当化して飼っている。
その猛獣が秘かに野に放たれた事さえ人々に知らされていない。

事の始まりの日に、真っ白な紙に思いっきり綺麗な文字を書いて見た。
思いの中にも、イメージングして描いてみた。
百人の人がいれば、千人の人よりは少ない。
しかし、ありとあらゆることは千人の人の縮小版と成り得る。
ローマはたった1人の人の無分別な行為により、別の人の引き金の切っ掛けとなった。
今日でも、それは同じである。
無分別なたった1つの行為により、沢山の人が命を亡くし救急車と消防車とパトカーがサイレンを掻き鳴らす。
良いことを願う誠実な気持ちの数は、例え地球が重たくなるほどに溢れ、それを実現しようと努力する数や力よりも、そうはしたくないと言うたった1つの思いと不作為の行為により、全ては悪へと走るのだ。
それを止めることの出来るものは誰か?
人類の中のたった2%の人は、今、どこに隠れているのだろうか。

1人の愚かな無思慮な行いにより、多数の人々は苦しみ、1人の人の不作為により、他の人は難儀を負わされる。
これを取り締まる事さえ、人は完全には行えないのかも知れない。
過去から今日までの人類の歴史を観れば、お人好しの詩人と暗い歌歌い人の声とが混じって聴こえてくる。
平成のイメージ。
それは、そうやって幕を閉じられる。
平成のその汚れたバトンを次の担い手に渡さないで、令和は独自に前を向いて走って欲しい。
そのゴールがどこに進むかは、誰1人それを知るものはいない。

人は何を選び、何を選択し、何をつまみ取るのだろうか。
それにより、人の進む先は見えてくる。
Words by YamanoshitaHyakuzen
©️20 April 2019.
#平成最後。(#6)
No.24.