第二外国語の選択はむずかしい。
というテーマで少し前に語ったことがあったが(→こちら)、私の場合はドイツ文学科に進学したので、これに関しては泣いてもわめいても「強制ドイツ語」だった。
なぜにて、そんな因果な羽目におちいったのかといえば、これはもう10代のころ
「ドイツ文学」
これに、目覚めてしまったからに他ならない。
そこで今回は、ただでさえ足を踏みはずしがちだった私の人生を、完全にレールの外に追いやってしまった、罪深くも、すばらしい本の数々を紹介したい。
■エルンスト・フーケ―『水妖記』
初めて買った岩波文庫の本。
知ったきっかけが『オフィシャルD&Dマガジン』というのが因果だが、ドイツ文学という「充実したつまずき」のはじまりでもあった一冊。
「人間と結ばれると魂を得られる」
という言い伝えの通り、騎士フルトブラントと恋に落ち結婚した、水の妖精ウンディーネ。
だが皮肉なことに「魂」を得てしまった彼女には、人でなかったころの無邪気な自由さをによる、その魅力は失われていた。
やがて恋も冷めた騎士は、かつての崇拝者ベルタルダに思いを寄せるようになるが、妖精界の掟では
「男に裏切られた女は、『死の接吻』でもってその元恋人を殺さなければならない」
とされており、苦悩したウンディーネは……。
ドイツロマン派の雰囲気バリバリな中世ロマンスで、これを原文で読みたいと思ったのがすべてのはじまり。
一言でいえば、
「釣った魚にエサをやらない男の、ゲス不倫と自業自得日記」
■ショーペンハウエル『読書について』
『水妖記』と、同時購入した一冊。
「デカンショ」の一角ということで、重厚な哲学書かと思いきや、サクサク読めてためにもなる、とってもオトクなものだった。
タイトルからすると
「本を読むのは、いいことだ」
みたいな内容かと見せかけて、実はその真逆で、読書に耽溺しすぎることをいましめるもの。
読書とは他人にものを考えてもらうことである。
一日を多読に費す勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失ってゆく。
という一説には、怒涛の活字小僧だった私にとって、大げさでなく頭をバットでなぐられたような衝撃だった。
頭でっかちになるな、読書量が多いからといって、かしこいとカン違いすな、と。
今風に翻訳するなら
「ネットしすぎると、バカになるよ」
もうひとつ収録されている『著作と文体』では、大仰なタイトルのわりに延々と、
「今どきのドイツ語の乱れが、ヒドイんや!」
というグチが続くというもので、一応マジメな提言なんだけど、そのいかにも偏屈な感じがほほえましくて、つい笑ってしまう。
私が年配者の
「若者言葉ディス」
を聞いても、もうひとつ共感できないのは、ショーペンハウアー先生のせいです。
いつの時代も、オジサンやオバサンが言うことは、一緒やなあと。
(ゲーテ編に続く→こちら)