前回に続いての京都戦記。
このご時世、なんの因果か京都を観光することになった、バンゲリング帝国よりの使者、エーリヒ・ハインツ・マリーア・フォン・リリエンシュターン武装親衛隊少尉(そういう設定なのです)。
こないだは、京都が誇る観光地二条城を楽しんだが(その模様は→こちら)、この場所に少尉は、もうひとつ個人的な思い入れがある。
それが、小学校の卒業式。
この行事と言えば、なぜか子供たちが6年間の思い出を、声を合わせながらダラダラと語るというイベントがあり、
生徒A「○○小学校で学んだ6年間は」
生徒B「本当に」
生徒全員「楽しかった!」
生徒C「お父さん、お母さん」
生徒D「先生がた」
全員で「本当に、ありがとうございました!」
みたいな、ファシスト国家のごとき光景がくり広げられるのが、お約束となっている。
陣内智則さんのコントでもネタにされていたが(→これですね)、あそこで私が受け持ったのが、まさに京都のシーンで、
「二条城の唐門の」
というセリフを担当した。
それに続けて、女の子が、
「その輝きの美しかったこと」
このときの違和感を、今でも覚えている。
陣内さんのネタでもある通り、ああいうとき子供たちはたいてい、べちゃッと間延びしたトーンでセリフを言うもの。
上記の例でいえば、
「○○小学校で学んだ6年間は」
ではなく、
「○○しょーがっこーでぇ~、まなんだろくねんかんわぁ~」
その方程式に従って私も、
「にじょーじょーのぉ~、からもんのぉ~」
底抜けな発声をするわけだが、次が問題である。
続く女の子というのが、堂々と、
「その輝きの美しかったこと!」
メチャメチャにビシッとした声で、こちらの後を受けるのだ。
この並びが、えらいこと変なのである。
こっちは先生方の
「みなが一斉に声を合わせて、心がひとつになって感動」
といった、ナスのヘタのごとき自己満足的ルールに従って、わざわざダルく読んでいるのに、そこを腹式呼吸もバリバリの伸びやかな声量。
これでは、まるで私がやる気のないか、居眠りでもしている、スットコ生徒のようである。
おいおい、学校という全体主義なファッショの世界では、もうちょっと空気を読むというか、周囲とトーンを合わせることが必要である。
そこにガッツリ自己主張を入れてくるとは、どういう了見だ。
しかもそれが、卒業式などという、どうでもいいイベントで発動とは、まったく自我の無駄遣い。
ほかにもっと、大事なことはあるだろう。コンゴの怪獣モケーレ・ムベンベは本当にいるのかとか。
そんな、こちらのつぶやきもなんとやらで、彼女は朗々と謳いあげる。まるでシェイクスピア女優か、オペラ歌手。
なんせミスヲタなもんで、思わずクレイグ・ライスの小説みたいに、
「どうした、オフィーリアよ!」
なんて、声をかけたくなっちまったよ。
こういう場合は、どちらかが妥協して、相手に合わせないと、聞いてる親御さんも腰が抜けるであろう。
とはいえ、卒業式を精一杯盛り上げようとがんばる、奇特……マジメな女子生徒に、
「もっとマヌケでお願いします」
なんて、とても頼めるものではない。
かといって、こちらが合わせて、
「二条城の、唐門の!(ビシッ!)」
とかヒトラー・ユーゲントの優等生のごとく右手を挙げても、それはそれで恥ずかしいし、きっとクラスの仲間から、
「おいおい、えらいイキッてんなあ」
「女のプレッシャーに負けたな」
「モテたいだけちゃうか」
「どっちにしても、阿呆にしか見えへんけどな。アハハ!」
などなど、バカにされまくるのは目に見えている。
そしてなにより、
「小学校における卒業生の言葉は、腰砕けでなくてはならない」
という日本古来からの伝統文化を、ここで途切れさすわけにはいかない。
それこそまさに、小学校生活の画竜点睛を欠くというものだ。
決めた、私は我が道を行く。
「二条城の、唐門の!(ビシッ!)」
ではなく、
「にじょーじょーのぉ~、からもんのぉ~」
これこそが、真の日本の卒業式だ。
子供ながら、なんという愛国精神であろうか。こんな男がいてくれれば、日本の未来はまさに盤石である。
結局、12歳の少尉はおのれの信念をつらぬき、どこまでもマヌケに、「にじょーじょーのぉ~」と声を発した。
これにはオフィーリア子ちゃんも、ひるむことなく「その美しさよ!」と応えた。
その声はどこまでも軽やかに、場から浮いていたが、列席した大人はどう感じたのだろう。
案外、ふつうに感動したりしてね。
それはともかく、なんか、そんなことしか覚えていないってことは、私はよっぽど「学校」や「式典」というものに興味がないんだなあ。
とか、今さら思ったり思わなかったり、したとさ。