前回(→こちら)の続き。
小島剛一『トルコのもう一つの顔』によると、トルコという国は自らのことを「単一民族で、単一言語の国家」と位置づけている。
だが言語学者である小島氏によると、それは現実を無視した、そう思いたいだけの欺瞞であるという。
世界のあらゆる国や民族は、スキあらば自分たちに心地の良い、かたよった歴史を語ろうとし、そのこと自体は心情的に理解できなくもないが、問題となるのはそのファンタジーと矛盾する存在を、ときに非人道的手段で「なかったこと」にしようとしてしまうことだ。
ナチスによる「背後からの一突き」理論や、アヘン戦争に対するイギリスの態度に、アメリカのインディアン迫害。
カティンの森、ヴィシー政府に天安門事件、わが国でも南京事件をはじめ、認めたくない負の歴史の数々など、この手の話は枚挙に暇がない。
「あんなものは、なかったんだ」と。
トルコの場合は先も出た、ザザ、ラズ、イスラムのマイナー一派であるアレウィー教徒のような、「単一民族国家」にはあってはならない少数民族。
トルコ政府は彼らの文化や言語を迫害し、それに反した者を逮捕投獄。ときに残忍な拷問をくわえる。
実際、小島氏もそういった危機におちいっている。そう、氏がやっている「トルコ少数民族言語の調査」は、単なる反論を越えて、大トルコ主義ビリーバーな人々にとって完全無欠にタブーの抵触になるからだ。
このあたりの展開は、あたかも冒険小説のごとき緊迫感であって、知的興奮とともにサスペンスフルな興味からどんどん読み進めてしまうが、そうして読書を楽しみながらも、同時にトルコの持つ「もう一つの顔」にショックをかくせない。
私も子供ではないから、世の中に完璧な人などいないくらいわかっているつもりだが、それにしても、本書はその重い内容と同時に、トルコ旅行の際に親切にしていただいたトルコの方々の顔が思い浮かんで困ったものだ。
それはおそらく、小島氏も同じだったろう。これが物語に出てくる独裁者のような、わかりやすくイメージできる「悪」だったらなんということもないが、なまじトルコという評判のいい国だけに、「もう一つの顔」のギャップは下腹のあたりに、ズッシリとのしかかる。
何より怖いのは、これは外国の話で他人事のようだが、我々だって知らずに似たようなことを日々の生活でしているかもしれないということだ。
多くのトルコ人も、自分たちが「もう一つの顔」を持っていることを、さほど意識していないに違いない。
なぜなら彼らは、学校で「トルコはトルコ人の国」と教えられ、素直にそれを信じている、もしくは「愛国心」からそれを信じたいと願っている。
そもそも、疑う理由もきっかけもないのだ。だとしたら、我々も、彼らと同じような欺瞞におちいっていないと、いったいだれが言えよう。
『トルコのもう一つの顔』はもしかしたら、同時に『日本のもう一つの顔』をもあぶりだしかねない、おそろしい一冊かもしれない。
本書には長らく続編が望まれていたが、諸処の事情で封印されていた。
ところが2010年に、本書に感銘を受けた雑誌『旅行人』の元編集長である蔵前仁一さんの尽力によって、20年ぶりに沈黙が破られることとなる。
『漂流するトルコ 続「トルコのもう一つの顔」』では、『トルコのもう一つの顔』のラストで著者がトルコを国外追放されたところから物語がはじまり、前作以上のサスペンスフルな展開がくり広げられる。
2冊セットで、ぜひどうぞ。
小島剛一『トルコのもう一つの顔』によると、トルコという国は自らのことを「単一民族で、単一言語の国家」と位置づけている。
だが言語学者である小島氏によると、それは現実を無視した、そう思いたいだけの欺瞞であるという。
世界のあらゆる国や民族は、スキあらば自分たちに心地の良い、かたよった歴史を語ろうとし、そのこと自体は心情的に理解できなくもないが、問題となるのはそのファンタジーと矛盾する存在を、ときに非人道的手段で「なかったこと」にしようとしてしまうことだ。
ナチスによる「背後からの一突き」理論や、アヘン戦争に対するイギリスの態度に、アメリカのインディアン迫害。
カティンの森、ヴィシー政府に天安門事件、わが国でも南京事件をはじめ、認めたくない負の歴史の数々など、この手の話は枚挙に暇がない。
「あんなものは、なかったんだ」と。
トルコの場合は先も出た、ザザ、ラズ、イスラムのマイナー一派であるアレウィー教徒のような、「単一民族国家」にはあってはならない少数民族。
トルコ政府は彼らの文化や言語を迫害し、それに反した者を逮捕投獄。ときに残忍な拷問をくわえる。
実際、小島氏もそういった危機におちいっている。そう、氏がやっている「トルコ少数民族言語の調査」は、単なる反論を越えて、大トルコ主義ビリーバーな人々にとって完全無欠にタブーの抵触になるからだ。
このあたりの展開は、あたかも冒険小説のごとき緊迫感であって、知的興奮とともにサスペンスフルな興味からどんどん読み進めてしまうが、そうして読書を楽しみながらも、同時にトルコの持つ「もう一つの顔」にショックをかくせない。
私も子供ではないから、世の中に完璧な人などいないくらいわかっているつもりだが、それにしても、本書はその重い内容と同時に、トルコ旅行の際に親切にしていただいたトルコの方々の顔が思い浮かんで困ったものだ。
それはおそらく、小島氏も同じだったろう。これが物語に出てくる独裁者のような、わかりやすくイメージできる「悪」だったらなんということもないが、なまじトルコという評判のいい国だけに、「もう一つの顔」のギャップは下腹のあたりに、ズッシリとのしかかる。
何より怖いのは、これは外国の話で他人事のようだが、我々だって知らずに似たようなことを日々の生活でしているかもしれないということだ。
多くのトルコ人も、自分たちが「もう一つの顔」を持っていることを、さほど意識していないに違いない。
なぜなら彼らは、学校で「トルコはトルコ人の国」と教えられ、素直にそれを信じている、もしくは「愛国心」からそれを信じたいと願っている。
そもそも、疑う理由もきっかけもないのだ。だとしたら、我々も、彼らと同じような欺瞞におちいっていないと、いったいだれが言えよう。
『トルコのもう一つの顔』はもしかしたら、同時に『日本のもう一つの顔』をもあぶりだしかねない、おそろしい一冊かもしれない。
本書には長らく続編が望まれていたが、諸処の事情で封印されていた。
ところが2010年に、本書に感銘を受けた雑誌『旅行人』の元編集長である蔵前仁一さんの尽力によって、20年ぶりに沈黙が破られることとなる。
『漂流するトルコ 続「トルコのもう一つの顔」』では、『トルコのもう一つの顔』のラストで著者がトルコを国外追放されたところから物語がはじまり、前作以上のサスペンスフルな展開がくり広げられる。
2冊セットで、ぜひどうぞ。