新月のサソリ

空想・幻想・詩・たまにリアル。
孤独に沈みたい。光に癒やされたい。
ふと浮かぶ思い。そんな色々。

懐中時計

2024-11-07 11:07:00 | Short Short

懐中時計の表面を指でなぞり胸ポケットにしまう。彼はその指で帽子のツバを深く下げて顔を伏せた。
悔しい時、いつもそうする。ツバで隠した唇はぎゅっと固く結ばれているんだろう。
だから私もいつものように彼に背を向け歩き出した。目の端で彼がとぼとぼと ついて来るのを確かめて声をかける。


思いがけず押し寄せるあの頃の思い。
戸棚の奥に仕舞いこんでいた古い箱を開けると、あの懐中時計が目に飛び込んできて、私は潮風に吹かれた。
人はなんてたくさんの瞬間を、無造作に置き去りにしていくのだろう。

あの時、自分がなんと言ったのか、もう忘れてしまった。
でも私たちはあの後、並んで歩いた。
港を遠目に橋の上から行き交う船の灯りと色走る水面の揺らぎを交互に見ながら、ふたりで一緒に彼の悔しさを月白のしじまに流していった。
それからまた歩いて歩いて、駅近く踏切がカンカン鳴りだすと、私たちは顔を見合わせ走り出しくぐり抜けた後ろを列車が突風みたいに過ぎて行く風圧に、なんだか可笑しくなって笑っていた。

ひそやかに時を蓄えた懐中時計が映す可惜夜の風の匂いがいくつもそこに、ただそこにある。


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ふたつめ

2024-11-04 11:00:00 | Short Short

大きな翼の影が地上を走る。

薄暮れの中、石の灯篭が続く道にぼくは居た。
そこは真新しいふたつめのステージ。ひとつめの奥に潜んでいた真実が現れたふたつめの世界。これまでやりくりしてきた全ては崩れ去った。

石畳の回廊を守り人たちが、まるでふたつめの歩き方を示すように、道の両側に並んだ灯篭に順番に明かりを灯し始め、照らされた道の先へとぼくを誘う。

やり方なんてわからない。始まったばかりのこの道を、どうやって進めばいいのか、未だ混乱の中にいる。
水晶の夜にぼくの過去は知らないものになった。見えていたものは外側の張りぼてに過ぎず、けれど透き通った灯の道を、一歩、また一歩、足を前に踏み出し、ただただ歩いて行く。石畳に揺れているのが光なのか影なのか、陰陽の思惑も異質な揺らぎを放つこの道を。

翼の影が辿り着く場所は、ぼくの行く道と同じだっただろうか。
響く靴音に、語りかけるのは、誰。



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青い夜

2024-11-01 14:41:00 | Short Short

青い夜だった。
いつもよりも滲んだように青が広がる夜で、だから、いつもよりも月が黄色く見えていた。
星はなくて、そういう煌めいたものは滲んだ青の中に溶け込んでいて、だから、滲んだ黄色もいつもより輝いて見えたんだ。

今夜の空は閉じている。向こうへと続く道が閉じられている。
そのことが、何故かやけに僕には心地よくて、窓から背伸びをするように体を乗り出しても、今夜は怖くない。

湖も、その向こうの山も、みんな青く滲んできれいだった。
ぼんやりと輪郭のない僕と、夜の青が混ざって、僕も夜の一部になった。湖面の移ろいが僕の中に、森の雫が僕の中に。

まどろむ青に、パンを焼く匂いが朝のさえずりに運ばれてくる。
まだ手つかずの光がパンの匂いにほだされて、やわらかに笑った。

香ばしい匂いが夜の青を塗り替えていく。僕の滲んだ輪郭が、少しずつ光に晒され、やがて白い朝の中に立っていた。
行ってしまった夜の青を、僕は僕の胸に滲ませた。もう、あの夜は僕の一部だから。誰も知らない、僕の大切な青。

空の道が開く。景色が輪郭を取り戻していく。
僕はコーヒーを淹れに、窓を閉めた。



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剣(つるぎ)

2024-10-28 12:12:00 | Short Short

高く振りあげた剣を、そのまま静かに前に突き出す。微かな葉擦れの音が夜を際立たせ、闇をより深く引き寄せる。
鈍く光る剣はこの世のものではない妖しさを帯び、闇に力を与えている。

剣先を見つめる視線の先には黒い雲が流れ、山の向こう側の街灯りに浮かんで見えるその稜線が遠い。

この世はきれいなものばかりではない。

それらを葬ることが私の与えられた任のはずだった。
だがこの剣は、そういう人の世が定めた善悪美醜こそ忌み嫌う。人間が分けた《穢れたもの》という箱に投げ入れたものたちを祓おうとすれば、こちらがたちまち闇に呑まれてしまう。

私が剣を操るのではない。
剣が私を試している。
「お前は穢れのない存在なのか。祓う方の側なのか」と。

空で役目を終えた人口衛星が、オレンジの尾を引いた。
「お前にとって、あれは、美しいものなのか」
剣先に流れていくオレンジの光が消えても、私の中に解はない。
私はこの星に立ち、なにをしようとしているのか。これまで何を見てきたのか。

途切れた雲の先に広がるものを、鈍く光る剣の意味を、草木の声さえ、私は知らない。



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時の外側

2024-10-25 13:31:00 | Short Short

僕たちのポケットには白い小鳥がいつもいて、僕らの世界が止まるとき、ポケットから飛び立っていく。空の向こうのずっと向こうへ、ラインを越えてもっと向こうのその先に居る、僕たちのところへ戻ってくるんだ。
瑠璃の花を一輪咥えて。

    ⁑

ありていに言ってしまえば、『僕ら』はときどき動けなくなる。
それは例えるなら、今まですいすい泳げていたのに、突然手足が上手く水をかけなくなって、あれよあれよと沈んでいくようなものだ。

どんどん暗い場所へ、冷たい場所へと、誰にも気づかれず、誰も知らない水中の奥底深くに、君も静かに落ちてゆく。
ざっくりと横たわった君の体に万斛の砂が水に舞い、君の上に降り積もる。君の全部を隠してしまう。
どこにも行けない。誰も来ない。
君はひとり砂の中、時の外側に眠るんだ。灰色の原石を胸の奥に宿したまま。

ある凪の夜、世界はついに動かない。

だけどポケットから飛び立った小鳥がいつか戻って、そっと君の胸に瑠璃の花を寄せるだろう。君の中の原石が徐々に青く染まり始め、ついにはきっと輝きだす。
小鳥は君のポケットにするりと潜り込み、そして世界は明るく目覚めるんだ。


ときどき僕たちは時の外側で眠り、でもまたいつか戻ってくる。
ただそれだけのこと。
そう、ただそれだけのことなんだよ。



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プルシャンブルー

2024-10-11 07:45:00 | Short Short

市販のキャンバスに下地を塗りこめていく。
大きさは、そう、出来れば大きめがいい。でも決して大きすぎてはいけない。20号~30号くらいが良いだろう。

絵具の仁義はいろいろあるが、あまり気にせず。まずはジンクホワイトを薄くたっぷり何度も重ねる。それからシルバーホワイト。そしてイエローオーカーを濃くならないよう薄すぎないよう。その上からもう一度ジンクホワイトを。キャンバス上でイエローオーカーと馴染ませるように塗り込んで行く。薄い生成りの生地が出来あがる。

しっかりと乾いたことを確かめたなら、さあ、プルシャンブルーを。
初めは刷毛で、それからナイフで何度も何度もキャンバスに置く。ところどころまだらでいい。
黒に近い深い深いブルーから、明るく軽快なブルーまで、プルシャンブルーはそれだけでキャンバスに表情をつけていく。

青が乾かないうち、白や紫や淡いピンクにそれから黄色なんかをキャンバスの上に散りばめ濁らないよう青と馴染ませる。

あるラインを超えたとき、画上に風が吹き空間が開きそれぞれの色たちが輝き出す。キャンバスの奥から求められる色や形を、ただ夢中になってその世界の中に与えていく。もしくは与えた色を削ぎ落とし青の向こうの彩を迎える。

すべての色彩が踊る中、傍らでそっと私の手を取るのはプルシャンブルー。
私は青の中に身を任せ、そのリードに心地良く酔いしれる。時には軽快に、時には重厚に、時には静かに触れ合うように、その情熱の青と踊る。

そして突然、パタッと世界は完結する。

世界があちらとこちらに分けられる。
色彩たちは輝きながら、しかし私の手からは離れてしまった。もうこちらから与えるべきものは何もなく削ぎ落す場所も何処にもない。
青が世界をたゆたゆと湿らせ秩序を与えている。あちらから、静かに私を見つめている。

そうしたら注意深く、遠くから近くからずっと眺める。ずっと眺めていたいと思えたなら、それは完成だ。心が少しでも陰ったならその世界とは決別し、時間を置いてからまたプルシャンブルーと戯れる。

麗しのプルシャンブルー。私は躊躇うことなくあなたの前に跪く。

   

※写真・1994年制作  油彩  15号
※文・2011/09/10 別サイト投稿分を修正




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西日

2024-10-06 13:10:00 | Short Short

「今日の天気は忙しいわねえ」
まるでなにもなかったかのように姉が言う。

午前中静かに曇りを通していたのが、午後になると痛いほどの日射し、かと思えばいきなりの雷鳴。時を置かず、激しく雨が降り出し、大雨警報発令。小一時間も経たぬうち雨は小降りになり、今は晴れやかな夕刻を街に届けている。にもかかわらずまた雷が遠くでゴロゴロと鳴りだした。

「天の神様も一発ドカンとぶちまけてすっきりしたいことがあったのかもね」
姉は窓に近づきブラインドを上げ、眩しい西日を六畳の畳に迎え入れた。まだ青く濡れた桜の葉先が窓に垂れていた。
「まぁだゴロゴロ言って発散しきれてないみたいだけど」
姉は空に向かって嘘のように晴れやかな顔を向けると、窓辺を離れ、キッチンでお気に入りのチョコを冷蔵庫から取り出し、愛おしそうに摘み上げ、口元へと運ぶ。

さっきまで一発ドカンと暴れていたのはどこの誰だ、と私は呆れずにいられない。
失恋の痛みをチョコで癒せるくらいなら、八つ当たりの一発は勘弁して欲しいのだけれど。


病床のベッドから板天井を見つめながら、いつかの姉を思い出していた。
このところ視界がどんどん狭くなっていく。
怖くはなかった。
むしろこの不自由な檻から解放される日がくることに、日増しに安堵の気持ちが強くなっていた。

もう少しで私もそちらに行くようだから、そのときは、あの日チョコを見つめた眼差しで私を迎えに来てよね、姉さん。
それでね、きっと庭では桜の葉が赤く色づいている頃だろうから、それをまたふたり並んで見るのはどう? 姉さんが八つ当たりのお詫びにチョコをわけてくれたあの頃に戻ったみたいで、なんだかいいと思わない?

緩く穏やかな西日が、褪せた畳にやさしく命を吹き込むように、あたたかく射す。
はずし忘れた風鈴が、風に吹かれてリーンと鳴った。



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手紙

2024-09-26 01:15:00 | Short Short

もらった手紙は、後にも先にも、あの一通だけだった。
私はあのとき、体がちぎれる思いで声を殺して泣いたけれど、本当は何に対して泣いているのか、分かっていなかった。

その手紙はしばらく持っていたが、月日を重ねたのち、結局破って捨てた。未練になるのが嫌だったからだ。

そしてまた月日を重ね、あの時、私はたぶん未来を捨てようとしている自分に対して泣いていたんだと、今更ながらにやっと自分の心中を察した。おかしなものだと、つくづく思う。

部屋の明かりを消して、いくつもロウソクをつけ、お気に入りのぬいぐるみの写真を撮りながら、帰りを待っていた夜があった。
ずっと忘れていたけど、似たようなシーンをテレビドラマで見て、思い出した。

考えることはみんな同じ、みたいなことが散りばめられた世界で、今この瞬間にも、その同じようなことが夜の隅のどこかに出現しているのだろうか。
その人たちも、ロウソクの灯りをいつかまた忘れていくのだろうか。

あの手紙はもう世界のどこにも存在しないけれど、私の中にはまだ淡く残っていたことを知る。
それは『思い出』と呼ぶべきものなのだろうか。
わからない。

私はあのとき、自分の決断に泣いたけれど、一方で、初めて手紙を書いてくれたことが、とても嬉しかったんだと思う。



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君の露草

2024-09-20 01:30:00 | Short Short

月は申し分なく丸く輝いていた。
遠くでオカリナを吹くように風が歌った。はじめてのような懐かしいような、不思議な音階。秘密の約束。

この窪地にはさっきまで泉が湧いていたけれど、今は水が引き底一面に水草が見える。その真ん中に君は立ち、風が渦巻く時を待ち、あの遠く輝く故郷に帰ろうとしている。

「見送りはいらない。私のためにひとつだけ咲かせたあの露草が、見送ってくれる」
君は気丈にそう言って背中を向けたけど、その肩がとても小さく見えたものだから、僕はつい、目を逸らしてしまった。
刹那、黒い突風が僕を通り抜けた。

顔を上げると君はもう、其処にはいなかった。
君の匂いを残したまま影は消え、渦巻いた風もやんだ。急に静かになった夜の黒を、月明かりが溶かしていく。

僕は君が咲かせた露草を探したけれど、窪地のあちらこちらから水が湧いて出て、すぐにそこは元の泉になってしまった。
揺れる水面に月が浮かんだ。

オカリナを鳴らしていたのは君だったんだね。風がやんで気づくなんて。

「月がとっても綺麗だよ」
いまさらそんなことを言っても、君には届かない。君の露草はどこにあるの。

月がとっても綺麗なんだよ。



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白い花くるくる

2024-09-18 02:08:21 | Short Short

木の根元に雀。まるく座る。
めいっぱい小さな体をまるく膨らましているみたいで誇らしげに見える。
雀にすれば、ただちょいとそこに座っただけなのだろうけど。
座ると胸がむにゅっと膨らんだように見える。それだけのこと。
それだけのこと、かなり可愛い。

白い並木道を少し歩く。
目の前に、花びら、ではなく、一輪の花のまま、くるくると回りながら落ちてきた。
風はない。
また、くるくると一輪。なんだろう。

見上げると雀がちゅぴちゅぴ花をついばんでいる。
パタパタっと枝を変えてまたちゅぴちゅぴ、白い花くるくる。

風誘う木漏れ日にチラチラと雀の影。
光の雨を私にもキラキラと。



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2024-09-17 01:17:07 | Short Short

咳が止まらなくなった。
はじめは風邪でもひいたのかと放置していたが、治まらないので市販の風邪薬を使った。それでも咳は一向にやまず、逆にひどくなっていくようだ。二週間、市販の薬で粘って、それからやっと病院に行った。

総合病院というのは、数をこなして自分の評価を上げる仕組みになっているのかと思うほどの、浅い問診と浅い診察だった。
何種類かの飲み薬と張り薬を処方され、薬局で待っていると、薬剤師らしき女性があたしの名を呼び、言った。
「この薬、すごく、なんて言うか、きついというか、あまり同時に処方通り飲むのはちょっと」
薬局には、ほかに薬を待つ患者はなかった。
「先生はどう言ってました? どんな検査をしました?」
明らかにその言葉と態度には、出された処方が『行き過ぎている』という表れがあった。

でもあたしはその言葉にどう反応すればいいのか、わからなくなっていた。
やまぬ咳によって食も細く眠りも浅くなり、体力が奪われ、疲れ切っていて、だからその場を一刻も早く立ち去りたいと願った。薬の専門家が一石を投じていることに、気づいてはいたが、それに対応する力がもうなかった。

「レントゲン撮って、肺に異常もなくて、熱もそんなにないから、咳を止める処方と言ってました。咳がずっと止まらなくて、寝れなくて、だから、」
早く家に帰して、と頭の中で訴えた。
「熱が、そんなにない? 少しあったんですか?」
よほど気になるのか、彼女はあたしのひと言にピコンと反応した。
「あ、あの、急いで行ったので、体温が上がってたんだと思います。とにかく、問題ないと思います。咳が、咳だけが、苦しいんです」
ここから逃げたい。

どうしてだろう。この人は流れ作業のように診察したあの医者よりも、ずっとあたしのことを心配してくれている。なのにどうしてこの人の話を聞けないのだろう。

だって、もう、限界なの。もう、全部、限界なの。だから、早く。

薬剤師の女性は一瞬、黙ってあたしの様子を見、やがて、「そうですか、わかりました。でも念のために」と言って、どれとどれが組み合わさると『行き過ぎた』ことになるのかを教えてくれた。
「もし、服用しておかしいと感じたら、減らしてください。もし、早くに治まったら、続けて飲まなくて大丈夫ですよ」
念を押すようにそう言うと、彼女は素早く薬を白いそれぞれの紙袋に入れて会計をしてくれた。

薬局を出ると辺りはもうすっかり暗くなっていた。初秋の静かな冷気が薬局の壁面ガラスから漏れる明るい光を呑み込む冷たさだった。舗装を重ねてデコボコになった道を、自転車でガクンガクンと落ちて上がってを繰り返し行く道は、果てしなく暗かった。

二週間後、咳は酷くなっていた。
一度咳が出始めると、いつまでも咳込み、呼吸が出来なかった。苦しくて苦しくて、咳の合間に少しでも息を吸い込む。窒息してしまいそうで、怖かった。

ある時、キッチンで洗い物をしていたらまた、喉が閉まるような感覚がきて、来る、と思った次の瞬間には激しく咳込んだ。
あたしは立っていられなくて、体を丸め、その場にゆっくりと跪き、床に手をついた。喉がひゅうひゅう鳴いた。息ができない、苦しい。辛い。怖い。
するとその時、体の奥から搾り出て来たように、涙が、ひとすじ流れた。

泣きたかった。
思いのままに吐き出してしまいたかった。でも、咳が出てちゃんと泣けない。涙で鼻が詰まる。苦しい。苦しい。

ああ、だけど、と瞬間思った。
思い切り泣いて息が出来なくなって苦しんで、結果どうなっても、もう、『ここ』に居たくない。もういい。もうなんにもどうでもいい。
そう思った時、なにかが「コトン」と音を立て、あたしの中の『底』に当たった。
頭にも胸にも、ちゃんと「コトン」という響きの厚みがあった。

コトン。

今まで生きてきた人生の中で、あたしは一番深く、『底』に行き当たった。

ねえ、あたしは一度もあんたのこと「母さん」なんて呼んだりしなかった。だってあたしたち、とても親子とは思えない有様だったじゃない。だからあたしは家を出たんだ。一緒にはいられない。
それなのに、あんたがこの世からいなくなって、あたしは初めてあんたを「母さん」って呼んでる。

だって、知らなかったんだ。あんたを憎んでると思っていたから。
あたし、知らなかったんだ。
こんなにもあなたを愛していただなんて、全然、知らなかった。

ちゃんと話したかった。それだけだったんだ。
ねえ、母さん。



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ある夜のこと

2024-09-16 05:50:00 | Short Short

眩しい。
光が目に突き刺さる。まだ夜中のはずだ。
寝ぼけ眼でその眩しさの訳をつきとめようとするが、目が開かない。ちゃんと開けられないほどの眩しさなのだ。
それは一方向からこちらに向かって来ている光なのか、それとももう自分はその光の中に取り込まれてしまっているのか、それさえも確かめられない。
何という鋭さだろう。

そして今度は閉じようとする瞼の隙間に射しこみ、あらゆる隙間を逃さず隅々までその光で私の体を射抜いている。細胞と細胞の間にある僅かな隙間にまでそれらは入り込み、ひと通り細胞の形を滑らかになぞったあとに突き抜けて行く。

痛くもないし悪意も感じない。かと言って心地よくもなければ愛情や慈悲のようなものも感じない。ただそれは光として存在し、光としての可能性を試しているかのようだ。

しかし私には明日仕事がある。こんな眩しさで今起こされては困る。
ぐるんと寝返りを打ち、光に背を向けてみる。無論、光がこちらに向かって来ているという前提のもとでだが。
そうすると今度は背中から光は侵入し、前面に抜けて行く。後頭部から瞼に向かって光が溢れてくる。
どうしようが眩しいことに変わりはないらしい。

「まったく」
ため息をひとつ。そして微笑む自分。
受け入れるしかないというのは、それが自分にとって厄介なことであっても、何故か笑ってしまうことがある。

夜が明ければまたいつもの日常がやって来て、この光は朝が増すごとにそれらと同化し、日暮れには太陽と一緒にきっと「向こう」へ行くのだろう。
楽観的な推測をしたら少し眠気がやってきた。何でもいいから眠っておこう。

際限のない光の海にたよりない筏で漕ぎ出す。ゆらゆらゆらゆら。何をとっかかりにして漕げば良いのかも分からないが、とにかくゆらゆらゆらゆら。
どんどん深くなる光の中で揺らめきながら闇の隙間に落ちてゆく。もうどこにも辿りつかないのかも知れない。

ゆらゆらゆらゆら。ゆらゆらゆらゆら。
光の中に暗闇を求める不確かな夜。



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水に住む

2024-09-15 01:02:00 | Short Short

鮮やかな魚たちが泳ぐ街。
煉瓦造りの建物はところどころ苔が生え、花々が彩を添える。木々は風の代わりに波に揺れ、僕らが見上げる空に本当の太陽はない。

静かに呼吸をするように人々は日々をやり過ごし、地上のことなど関心のない顔で毎日同じ息を吐く。その泡が虚しいと嘆いて昇っていく。

確かにここは静かで淀みなく、淡々と今だけを眺めていればいい。
でもなにも起こらない。
もう長い年月を僕らは屍のようにこの揺らぎの中に身を潜め、笑うことすらなくなった。

魚たちが行き交うのを、木々が揺れるのを、花々が流れゆくのを、一体どれくらい、ただの傍観者としてやり過ごして来たのだろう。
この街はいつから時を止めたのか。どうして僕たちがここに住むのか。その歴史さえ探しようのない街が、ただ黙りこくって頑なにこの場所に座り込んでいる。

それなら僕らは、そろそろいいんじゃないかと思うんだ。抑揚のない世界に留まり続けるのは、もういいんじゃないかって。

僕は光の方へ泳いで行って地上に上がり、本物の太陽を見てみたい。
風に吹かれ、花が地表に散るのを見てみたい。

僕が歩くその道に、歓喜の足跡を残したい。



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やわらかい靄(もや)

2024-09-14 02:45:00 | Short Short

なにが足りないんだろう。
助けてあげればいいのかな、見知らぬ誰かを。助けてって叫べばいいのかな、見知らぬ誰かに。

ベッドの中で見る夢も道端に蹲って見る夢も、僕にとっては同じことなんだ。
だってその夢は必ず覚めてしまうから。
目覚めた僕の前には、誰もいないから。

夜明け前、泣いている人を見たんだ。
「淋しいの、悲しいの、それが辛いの」
その人は誰かの影に寄り縋って泣いていた。寄り縋る人がいることの意味も知らずに、まるで綿菓子が溶けていくのを憂いているみたいだ。そう思った僕は、やっぱり何か足りないのかな。

ねえ、僕は泣いている君を見ていたんだ。
でも君は僕がそこに居たことを、この先もずっと知らずにいるんだよ。
あのとき、この世界にいたのは君の方なのに、泣くのはちょっとずるいんじゃないかな。

僕にはなにが足りないんだろう。


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2024-09-12 01:02:34 | Short Short

遠くから見ると小さな鏡のようだった。
奥深い森、ひと気のない湖。
失ったものは全部ここにある。虚構なのか現実なのかはどうでもよかった。

夕陽を隠す雲の端に星がひとつ煌めいて、獣の気配も、鳥の囀りさえもなく、ただ静かに湖面を雲が流れて行く。

つん、と指先で突いたみたいに、サファイアの雫が湖面を打った。
静かの極みにその音が響き渡り、波紋が澄み切った静黙を走る。
その波紋が僕の内側で大きく鳴って、やがて元の静寂に消えた。

僕は確かに受け取った。
「僕の在処」を。


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