皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

室戸・中峯分校再訪門

2019-05-23 21:40:52 | 学校跡地訪問
●訪問は平成30年3月末


室戸羽根小学校中峯分校跡は当時の事を知っている地元の方二人と話が出来た事、そしてなにより丁度その近くで地籍調査が行われていて専門の人と話が出来たという偶然が重なって確定する事が出来た。


とは言え、具体的に明確に中峯分校の位置を裏付ける公的な資料が存在しない中、本当にあの場所で正しいのか??という一抹の不安もあり、その正確性をより確立させるために、そしてあえてその場所を否定する材料の存在の有無を確認する意味も込めて再訪した。

結論としては、あの場所で間違いなかったのではあるが。

《根拠としては、まず学校建設にあたって当時の羽根小学校の児童が瓦二枚を背負って現場まで運搬の協力をしている。現在その瓦葺きの建物を学校跡としているが、もしその他に瓦葺きの建物跡があれば、そこも学校跡の可能性を持つ事になる。しかし結果としては、その他に瓦葺きの建物の跡は存在しなかった》

「羽根村史」より


僅かに記載されている中峯分校の貴重な資料だ


昭和24年 開設

昭和25年 男子8名 女子6名 合計14名 出席率85.08%

昭和28年 男子6名 女子1名 合計 7名 出席率96.56%

昭和29年 男子8名 女子1名 合計 9名 出席率96.29%

昭和38年 休校

昭和40年 廃校

あの時代に本校の羽根小学校より出席率の高い分校であったとも言える。
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前回は地籍調査のために林道を整備した直後ではあったが草木の生い茂った季節でもあったため、この季節に行きたいと思っていた。

林道が整備された事もあり、その後この道を通る車があるようだ。

前回より少しだけ踏み固められ、少しだけ走り易い。

そして学校跡直前の稜線上の道から中川内の集落が見える。

場所的にも地元の方の言われていた「運動場から中川内小学校が見えていた」という場所で間違いないようだ。

一段下の「あまちゃずる」の倉庫のある耕作地跡を過ぎ、分校跡に到着


目的の一つとして、この場所以外に瓦を使った建物跡を探す事。

当時の羽根小学校の児童が分校建設の為に中峯まで二枚の瓦を背負って建設に協力した話を教えて貰い、その瓦がここにある事が、ここが分校跡であるという根拠の一つになっている。

もし、この場所以外の場所に瓦を使った建物跡があれば、「もしかして・・」という事にもなる。

が、結果としては瓦葺きの建物はここだけだった。

(中峯分校跡地)


石垣跡がある。

しかし石垣の石は小さく、今まで見たきた集落跡の石垣跡と比べると規模も小さく、また構造も簡易である。


ピンボケであるが水道栓。

導水管を引き込んだ先の水栓。

離村後のものだろう。


送電部品

電化製品の痕跡はない。

しかしそれはこの集落の性格性から言って、無かったのではなく、離村、下山するにあたって、次の生活場所に使える物、利用できるものは全て持って行った、という事になるのだろう。

学校の開設から16年後に廃校を迎えた中峯分校。

住み慣れた場所に、その土地の者が隠居生活をする時間もなかった、そんな短い時間の歴史だけがこの場所に残っている。
でもここは「戦後の仮ぐらしの場所」!!!

確かに大東亜戦争で軍事的には敗北を喫した日本は、当時の世界からは「もう戦前のような世界の一等国としては、二度と立ち上がる事は出来ないだろう」と言われていた。

そしてこの「中峯」は、その敗北後の日本人が食べていくために新たな耕作地を求めて開拓された場所 ・・・・・のはずだった。

が、日本は不死鳥のように蘇り、昭和39年にはアジア発のオリンピックを開催するにまでに発展する。

結果的にこの「中峯」は、源氏爆弾を二発喰らった焼け野原のどん底から20年足らずでまた一気に世界の一等国の仲間入りを達成するまでの期間に派生した一時的な耕作地兼居住地に過ぎない場所だったのである。

そして中峯で生れ、中峯分校で学んだ中峯の子供達が成長し大人になった頃には、この「中峯」という場所はその役割を終え、中峯の人々は復活成長した日本の新たな活躍の場所に旅立って行ったのである。

そして今はその20年足らずの出来事の面影を残すのみ。

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また学校跡に隣接する形で民家跡があるが、そこには三軒家の民家跡のような石積みの間仕切りが残っている。


もしかして中峯開拓団の中に奥栗・三軒家出身の引き揚げ者がいたのかもしれない。

そしてまた、何故、戦後の海外からの引き揚げ組が自分の故郷に帰り住み着く事なく、新たな土地を求めて開拓団となったかというと、それは、限られた耕作地面積に対する収穫量でその場所で生活出来る人数が限定されていたから。

故郷に帰ってきたからと言って、そのまま受け入れて住む家を建てるとなると、それは耕作地を潰し耕作地面積が減少し収穫量が減るという事なので、新たな生活の場所を求めて未開の場所に行くしかなかったのである。

そしてそれから十数年の歳月が経ち、戦後の焼け野原から不死鳥の如く経済発展を遂げた日本。

世界屈指の経済大国となり、いつの間にか「戦後の開拓団」のそのものが時代の流れに逆行する形となり、この中峯からも人の姿が消えていった。

まだ新しい轍


耕作地跡


その形がはっきりと残っている


三椏の花も咲いている


耕作地跡の空は明るい。

学校の歴史は僅か16年間だったが、それはここに住んだ人々にとっては戦後の急激な経済発展(連合国にとっては、まさかの経済発展)の中の仮り暮らしのような場所だったのかもしれない。


だから「想い出」は勿論あるだろうが、「思い入れ」までは無い場所なのかもしれない。


生活の痕跡は耕作地跡と僅かな石垣跡と、羽根小学校にはかつて中峯に分校が存在していたという歴史のみ。


集落上部の民家跡

この石垣跡も写真に撮りたいぐらい生活の痕跡が少ないのである。


しかしそれは、次の生活の場所に使える物は全て持っていったというポジティブな理由からで、この中峯の生活の後には更なる発展した生活があったのだろうと思う。

そんな中、数少ない人工物の一つ

これは台所の「流し」に違いない




そして台所の排水もお風呂の排水もこの肥溜めに流し込み「肥料」として使っていた。


鍋??


道跡



石積み

しかしこれは20年程度の歴史の中ではこの程度の石積みしか出来ないという証明で、巨大な石積みはやはり数百年という長い歴史の中で完成されていくという根拠にもなるだろう。


肥溜め跡は10カ所程確認出来た


肥溜めの隣の石積みはお風呂か台所のもの


完全リサイクルのシステムだったのだ。

集落中央の道

分岐はいくつかある


集落の中でも比較的大き目の石積み


完全に離村後のビール


集落の性格性から言って、中峯での生活は次の生活に向けての駆け足で過ぎ去った十数年間だったのかもしれない。

そしてその中に派手さや裕福さは感じられはないが、それでもこの土地の歴史の中にこの道がかつて通学路であった時代があり、児童が遊びながら登下校していた時間があったと考えると、部外者ながらなんだか嬉しく感じてしまうのである。


集落跡の歴史的な背景、経緯を考えると、この耕作地跡の空の色も鮮やかな色に見えてしまうのである。


結局、瓦葺きの家跡は無かった


時代の大きな流れの中で考えれば


かつてこの場所に学校の分校があり、子供達の歓声が響き渡っていた16年間という時期は、奇跡のような時間だったのである。

●昭和50年の航空写真

中峯と中川内


中峯


小学校付近



まだ羽根には分校の卒業生がいらしゃるらしい!!!!!

室戸・中峯分校

2019-05-23 21:13:48 | 学校跡地訪問

●訪問は平成27年10月


場所はここ!!

現地下に表記されている建築物の影はその後崩壊した、現地の作業小屋と思われる。





歴史

戦後開拓団が入植し、24年に分教場設立。集落は30戸あまり。

昭和28年、中川内小学校が昇格し、羽根小の分校から、中川内小学校の分校となる。

開拓団も次第に下山し、38年休校、40年廃校。

この中峯分校の関しては、その場所、存在を示す一次資料がほとんど無い。学校が存在していた時期の昭和32発行の「羽根村史」にさえ、その記述が無い。


という訳で、早速現地に向かい、地元の方に話を聞く事に。

そして、小学校高学年の時に分校建設のお手伝いで、瓦を二枚背負って現場まで歩いていった事のある方と、分校の事、その道の事を知っている方に話を聞く事が出来た。

当時、分校周辺から東側下の中川内小中学校を見下ろせたそうで、アスファルトの道を途中で左に逸れ、もうあるかどうかも分からないガタゴト道をしばらく登っていかなくてはいけないとの事。ただ幸いな事に、最近吉良川の森林組合が中峯周辺の地籍調査をやっているので、問い合わせてみればいいと、話をしてくれた。


曜日は土曜日、問い合わせをするとなると、連休挟んだ3日後、都合がつきそうにもないので、日が暮れるまでの約3時間行動してみる事に。



しばらくアスファルトの道をどんどん登っていく。そうすると、右のヘアピンカーブ手前に左に入る昔の道がある。


いきなり始まる「悪路」!!


地籍調査に入るために通れるようにはしてくれているが、さすがにスクーターにはきつい。5~15キロの低速徐行運転が続く。


しばらく進むと少しだけ道が良くなり、タイヤの跡を進む。
でも、地元の方がトラックで体を上下に揺らしながら登ったという話がよく分かる。


20分程登っただろうか?周りが開けとても明るくなっている場所に出る。


そして少し進むと、なにやら測量機と人影が・・・・。なんと土曜日だけど、地籍調査をやっている。

こんな、人里離れた山の中で、

「すいません、この辺りに学校跡地ありませんか?」

「ありますよ。少し先に行った右手二本目を登ったとこにあります」

という会話が成立してしまった!!

さらに、現在の場所と跡地の場所を記入までしてもらった!!!!!!(喜)

ペンでの手書きだが、実際にこの場所を測量し、地図を作っている人が書いたものだから、これ以上正確無比なものはないだろう。


跡地はすぐそこ!!右手に車のおけるスペースがある。


地元の方が、この辺りに、水道があると言ってくれてたが見つける事は出来なかった。跡地手前の分かりやすい人工的な目印とすると、この標識だろうか!




一本目の右手に上がる道が見えてきた!!


この道をスクーターで登る。全然OK!!!!!!


地元の方も言っていた、「あまちゃづる」の乾燥機のある倉庫






屋根用塗料がある。きちんと手入れをしていのだろう。


そして、少し登ると土地が開けており、崩壊した作業小屋のようなものが。
多分、これが地図のこの付近にある建築物の影だろう。





作業用の機械!




トラックがあり




さらにその上の段があり


なかなか広い場所がある


本線に戻り、二本目の道に向かう。すぐにある。


建材が放置されていて


スタンドとドライヤーがあり


集落跡地がある。地元の方が言われてた竹藪もある。







そしてその中に崩壊した建物の跡が。

これが中峯分校跡地だろうか!!





積み上げられた建物の瓦。学校跡地ではよく見る光景だ。
この中に、あの地元の方が背負っていった瓦2枚があるだろうか?



肥溜めが二つあり




隣に広い竹藪があり


東側の一段上がった場所にも広い場所があり
どちらかが運動場だったらしい。

そしてこの先から中川内小学校が見渡せたらより確実なんだが。





ありし日の中峯分校


瓦は地元の方の話と一致するし、大きさ、跡地の建材もほぼ一致しそうだ。




まあ、ここが中峯分校跡地をみて間違いないだろう!!



そして、こちらは地図東側の中川内小学校

この学校の歴史はまだまだ続きそうだ!!!




耐震工事中!!!


この校庭から見上げるあの辺りに中峯分校があったと思われる。




芸西・白髪小学校 平成30年9月下旬

2019-05-19 21:38:34 | 学校跡地訪問
平成28年1月から二年半ぶりの再訪

https://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34493285.html

八流の開発は



昭和38年から



この看板を右に行けば白髪




赤野小学校の子供達が課外学習に来る場所もあるようだ



そして、そのすぐ先が少し崩落している



バイクは通れる


この先、この場所が修復される日は来るのだろうか??

白髪に到着


もしかしてこれが写真に収める事の出来る最後の姿なのかもしれない



●二年半前の「平成28年一月」


屋外に雨ざらしになっていたこの看板を校舎の中に入れきたが





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もう屋内もこんな状態






●釜戸周辺(平成28年1月)



現在



後ろの土壁が落ちて骨組みの竹が剥き出しになった


格子窓の風景


今日は平成30年9月30日


強烈な台風が日本に上陸している日

もしかして今日、この白髪小学校跡はまた大きくその姿を変えてしまったいるかもしれない

●平成28年1月(教員住宅跡)


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2年半前、ここにあった教員住宅跡が




現在はこの様な姿になってしまったと同じように