皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

南国・黒滝小学校・4

2019-07-09 00:16:16 | 南国の学校

南国・黒滝小学校・4

2017/1/15(日) 午前 0:32


上倉第三小学校が昭和30年、黒滝に移転し黒滝小学校となるまで大改野、中ノ川、桑ノ川、黒滝方面から、逆に移転してからは、井ノ沢の児童がどのような通学路を通って通学していたのか。その道を歩いてみよう!!



井ノ沢の中心部

ここを左に行けば上倉、蟹越方面、右に行けば桑ノ川、大改野方面である。

そしてこの井ノ沢のど真ん中を「県道」が走っている事になる



県道を桑ノ川方面に進む


民家の前を通り


川に向かって道は進む




そして川を渡る手前にこの石造がある


上倉村時代に橋を架けた人の記念碑だろうか



このタイプに石造は初めて見た。

そして感動してしまった。


そしてこの橋にも感動してしまった。




明治24年から120年以上経っている訳だから改修、修復を経て現在の姿になっているのだろうが、ここは当時の子供達が元気に通学していた橋、そして夏場は水遊びで賑わっていた場所に違いない。




下に降りて横から

石垣は明治24年制だろう!!


少し進むと小さな沢が。

ここにも当時は木製の橋が造られ定期的に改修、修復がされていた事だろう。


おっと、忘れはいけないのが、これが県道であるという事。


この岩場も県道



そしてその先に分岐がある。

県道は右下に進み、桑ノ川方面に

左に進めば大改野方面だ。



まずは大改野方面に行ってみよう




昔ながらの山道を進む。

その先では林業の作業道に合流。



植林に囲まれる前はもっと気持ちの良い素敵な山道だったに違いない。


昔の道が林業で拡張され当時の雰囲気が全くなくなっているが、所々に当時の石垣が顔を出している。



途中で引き返し、その後、大改野方面から井ノ沢方面への道を歩いてみたが、大改野方面は林業の作業道が沢山作られていて、道が分断され、植林の枝、倒木、で道が覆われ、保水力が低下した事による雨での崩壊もかなり進んでいた。




ただ歩いてみて分かった事は、この井ノ沢ー大改野の道も

例えば安芸の杉ヶ峯の山道のような


夜須の仲木屋のような



そこから下の学校跡地へ続く、このような気持ちのいい快適な山道だったという事が十分に推測できる。



また大改野からは、家を出て学校に向かうと、自分の両親が働いている南側の山の上にある広い耕作地を抜け



みんなの前を通って、井ノ沢に向かって通学していた事になる


通学は大体30分ぐらいだったのかな!!




まあ明治40年の地理院地図に井ノ沢ー大改野の道は主要道路として記入されていたぐらいだし。

もう少し当時の山道を歩いてみたかったと、今の時代に言う事はちょっと「贅沢」な事かもしれない。


分岐に戻る


右下の県道を進む



やがて石垣跡が現れ


その先に橋がある


この橋も県道


石垣は、こちらも明治24年制かな


そしてこの橋を渡り右手に進むと


鳥居があり



瀬戸神社


西原さんは、井ノ沢の石造の西原さんの家の方だろうか!!


神社は大きな岩の隣にある


そこを下に降りると


瀬戸の滝



御利益のありそうな滝壺だ!!


県道に戻り桑ノ川方面に




そこには「鳥居杉」がある





昭和7年


時期的に言えば、黒沢地区が石原満俺軌道、中ノ川林用軌道で賑わい始めた頃だ!!




県道を歩いて井ノ沢に戻る



この石積は現在のその機能を果たしている


井ノ沢の繁華街に置いたマシンにのって県道を走り上倉・蟹越方面に向かう


すぐにスクーターには厳しい道になる。

でも最近のタイヤ跡に励まされながら進む


やっと蟹越に到着。

距離的には近いが、時間的には大回りしてきたほうがマシだ・・・

OFF二輪なら話は別だが・・


土佐山方面に向かい高知市内に帰る事にする。




途中の白山神社のある土居の商店。

街中にはコンビニが氾濫する中、こんな田舎の商店は嬉しい。


ただ驚いた事に土居地区から高知市への道案内はここから南進する事になっていた。




古い看板だったから仕方が無いかもしれないが、現在ここは高知市である。




当時と今では道路事情が全く変わっているし、当時は車で高知市内に行く事が現在で考えるより、ある程度特別な事だったろうし。

だからその後整備され広くなった道路ではなく、昔のクネクネ道を走って帰ってきた。

ぶっちゃけ時間的にはもしかしてこっちのほうが早いかもしれない。




ただ多くの人々が広くて便利な整備された新しい道路を選んだ結果、もしかして距離的にも時間的にも高知市に近い旧道が寂れてきて枯れ木や落ち葉で埋もれてしまっていたのが寂しかった。




またその事を理解する事が、現在の山間部の過疎化、学校の休校、廃校を理解する事にも繋がる。


南国・黒滝小学校・3

2019-07-09 00:14:12 | 南国の学校

南国・黒滝小学校・3


2017/1/14(土) 午前 0:50

井ノ沢の上倉第三小学校は昭和30年、黒滝に移転し「黒滝小学校」と改称した。

じゃあ、第一と第二は?第四とかは?と気になり、南国市史で調べてみた。

こういう流れのようだ。


そうなると当然、黒滝に移転する前、上倉村立第三小学校が井ノ沢の何処に存在していたか?という事が気になってくる訳でして。

井ノ沢は既に無人の集落跡で誰かに話を聞ける訳でもなかったが、状況から判断すると、大体こういう事だと思う。


昭和50年前後の井ノ沢周辺の航空写真


学校移転から約20年

平坦な学校の敷地をわざわざ段々畑にする必要がある訳でもなく


それから約40年後の井ノ沢


井ノ沢に向かう

もう既に「井ノ沢」への道案内すらない・・・


薄暗い植林の道を抜けると、その先に等高線から想像出来るとうりの平坦な土地が広がっている。


当時ここで生活を営んでいた人々の遺構


南国市の市街地からは想像もつかない南国市の風景が広がっている



到着

目の前を県道が横切っている


どうやらここの辺りが井ノ沢の繁華街だったようだ!!


広がる耕作地跡


最後の住人の方の車だろうか・・


ここが「井ノ沢」であるという事は、もう電信柱でしか確認出来ない



民家跡



その付近からの風景


近くにあった子供の遊具

「ℤ」とう事は、もしかして平成の時代に入っても、この井ノ沢から奈路小学校に児童が通っていた可能性もある。

だとしたら、その児童は昭和30年まで井ノ沢に、それもすぐ目の前に小学校があった事を知っていたのだろうか??



この民家はかなり古い



繁華街から黒滝方向には


天然の門扉の敷地


そこからの風景


無人で土地が荒れ放題である事が逆に不思議でならない

上倉第三小学校があったと推測できる場所は

この倉庫の前を右に入ると


学校があったとしたらここかな!!!!


いかにも学校跡地らしき雰囲気

ここが校門だったかもしれない・・


そして、校庭と思われる場所の風景


この井ノ沢にはここ以外には小学校が建てれそうな土地がない

さらに電柱に奥の道を進むと


電柱


お、、鳥居が見えてきた!!

地図にはここに神社の表記はないのだが・・・


神社があるという事は、そこの土地は歴史の長い土地であるという事


またそれは明治40年の地理院地図で、この井ノ沢に民家が多く記載されていた事、また主要な道が交差する場所であったという事からも分かる事

そしてそんな場所のこのような場所に子供達の通う小学校が建設されていたという事は、自然な事だと思う。


山祇神社



この神社を定期的に訪れる方がいらっしゃるようだ。



まあ山祇神社だから当然かと!!


榊も定期的に交換されているようだ!!


更にその西の民家跡、耕作地跡にも行ってみた。

航空写真に見える途中の山肌は林業の作業場


ここも昭和50年の航空写真からは想像もつかない状態


アンテナ




耕作地跡



民家跡

犬小屋付き


私は妄想家でなければロマンチストでもなく、その正反対のリアリストだと思っている。






だからこそ、この井ノ沢に上倉第三小学校があった頃、この場所に子供達の歓声が響き渡っていた頃の情景がリアルに浮かび上がってくる!!



↑  ↑  ↑


というセリフを書き込もうと思って撮った写真



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平成29年1月27日追加


在りし日の上倉第三小学校


高知・南国の100年より



地理院地図1・25000「土佐山」昭和43年発行



それにしても昭和30年まで学校があった井ノ沢




一体何があったのか??

わずか10数年で学校があった場所がこんなに寂しくなるものだろうか??


これはあくまでも個人的な推測に過ぎないかもしれないが、

マンガンの採掘、林用軌道の稼働で、地域の活力の中心地がこの井ノ沢から黒滝に移動し、その事で小学校も黒滝に移転する事になる。




しかし実際に移転したのは昭和30年。




マンガンの採掘も林用軌道も既にピークを越え衰退期に入り、さらに穴内川ダムの建設の話で集落の水没、過疎化への道のりが始まった時期。




それを考えると、この地域はかなり「極端に!!」時代の大きな流れに飲み込まれた地域とも言えそうだ。




あくまでも個人的な推測に過ぎないが、しかしかなり自信のある個人的な推測である。

南国・黒滝小中学校・2

2019-07-09 00:12:50 | 南国の学校

南国・黒滝小中学校・2



黒滝地区は明治から大正初期にかけては、ヒエ、アワ、ミツマタの栽培、木炭の生産等で生計を立てていたが、林業、マンガンの採掘等が始まり、戦後から活気付いてきた地域。

昭和27、28年頃から穴内川ダム建設の話が始まり、当時は公共事業の名のもとに区民も協力を惜しまなかったそうだ。

そして昭和39年5月、水没、13戸(30世帯)、公共建物・4、農地8町歩、山林24町歩、を犠牲にしダムが完成したが、結局その事が原因で過疎化が進み現在の状況に至っている


これは明治40年発行の地理院地図1・50000「高知」の井ノ澤・黒滝周辺。

この頃は学校はまだ井ノ澤に存在し周辺に民家も多数存在している。

一方、黒滝、桑ノ川周辺には民家も殆ど存在していない。


それが昭和8年発行版では、黒滝周辺に民家も増え、マンガン、石原満俺軌道の表記が書き込まれている。

黒滝小中学校の歴史にもあるように最初は井ノ澤にあった小学校(上倉第三小学校)が昭和30年に黒滝に移転してきたのは、大正初期まで、ヒエ、アワ、ミツマタの栽培、木炭の生産等で生計を立てていた黒滝、桑ノ川地区が、それ以降、林業、マンガンの採掘で活気づいてきた事が大きな要因になっていたのでは、と感じる。



黒滝地区に架かる「まるいわはし」周辺のダム湖からその石原満俺軌道跡が出現し始める。



まるいわはし




この橋の下に石原満俺軌道跡がある




しかしそれは、そこに軌道跡があるという確実な先入観がなければ、ある程度半世紀以上昔の軌道跡を経験した事がなければ、その状況がいつまでも続く訳ではなく終点を目視出来ている状況でなければ、そして崩壊した山肌を歩いて行くほどの価値がある場所という確信がなければ、軌道跡さえよく分からずわずか数メートル程で引き返したくなる、そんな状態にまでなってしまっている場所。

(かもしれない・・・笑)

(^.^)/~~~


【軌道跡の調査を完了させている友軍機に感謝!!!】



という訳で、この「まるいわはし」の繁藤側のここから少し下に降ります。



既に軌道跡と呼べるものは消滅していて、軌道跡らしきもの!!があります。




そこをすこしだけ頑張って進むと、崩壊した山肌の先に局地的に崩壊を回避できている安定した場所があります。




そこに


これがあります。



巨大な岩盤の真ん中に軌道を通していたとは・・・


黒滝の小学校が廃校になり、集落も無人になり、もはや黒滝が賑わっていた事自体が忘れ去られようとしているとしても、この巨大な切り通しは50年後だろうが100年後だろうがその事をこれを見た者に思い出さす事でしょう!!!


その先には、沢を渡る橋を掛けていた石の橋台があり。


軌道跡という先入観を捨てずに高度を保ちながら進むと、黒滝の南の広い土地に渡っていた橋の台に着きます。




繁藤側から黒滝側



繁藤側の橋台



黒滝側から見る繁藤側



そしてここが黒滝の一時代を築いた石原満俺軌道の終点であり、中ノ川林用軌道の始点でもある場所なのだ。


そして中ノ川林用軌道はここから県道に向かい


黒滝小学校に向かう橋を渡らず直進する


その後車道に転用された中ノ川林用軌道跡を通って大改野に行ってみよう!!


大改野へ


この道を進む


黒滝は既に無人

そして植林に光を遮られた耕作地の先には、既に無人になった大改野の集落跡が出現すると思っていたのだが・・・・

まだまだ住人の方がいらっしゃるようだ!!




そして大改野の神社に行ってみる

地図に示された神社への曲線は極めて正確なものだ








昭和17年





川内神社


榊は交換されていたが枯れていた




中ノ川に向かう

ここからは車道の全てが軌道跡という訳ではない・・


大改野に住人の方がいらっしゃても、さらにその奥はもう既にと思いながら・・


橋の跡



なんだか明るい雰囲気


地元の方もいる



花壇も綺麗に手入れされていたりする


そしてその奥の橋を渡り、神社に向かう


少しだけ坂を登った場所に神社への案内板がある


そして落ち葉と枯れ木にに埋もれた階段があり


というより確実に崩壊が進んでいる・・


落ち葉と枯れ木にに埋もれた石段の先に



新田神社がある


こちらはもはや訪れる人もいないようだ・・




そしてだからこそ俺が行ったのだ、という気概が湧いてきた!!




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話は少し戻り

こちらは、その後の昭和40年発行の地理院地図1・50000「高知」の井ノ澤・黒滝周辺


井ノ澤の学校は昭和30年に黒滝に移転したから「文」の記載が無いのは当然だが、もはや民家の記載すら消えている。それどころか「井ノ澤」の地名すら消えている。






南国・黒滝小中学校・1

2019-07-09 00:11:12 | 南国の学校

南国・黒滝小中学校①


2017/1/11(水) 午前 0:27



学校の歴史

明治25年 中谷字長畝に設置(井の沢小学校)

明治27年 中谷15番地に移転

大正5年 井ノ沢に移転、上倉第三小学校と改称する

昭和16年 上倉国民学校と称する


昭和22年 5月 上倉第三小学校と改称、上倉中学校井ノ沢分校設置

昭和23年 上倉村立上倉中学校として独立、小学校長兼務となる

昭和30年 黒滝に移転

昭和31年 町村合併により御免町立

昭和34年 町村合併により南国市立

昭和36年 へき地集会所新設・教員住宅3棟新築

昭和37年 プール建設

昭和39年 台風により中学校半壊




昭和41年 中学校は北稜中学校に統合

昭和53年 奈路小学校に統合




在りし日の黒滝小中学校



南国、奈路から桑ノ川に到着


山間部の昔ながらの風景だが、住人はほぼ皆無に近い

が、しかし、何故だか人通りが無い訳ではない


「せいらん」に向かう


懐かしく、美しい日本の田舎の風景

久しぶりに自分の生れ故郷に帰ってきた錯覚に陥る


そして懐かしい顔ぶれに出会えそうな期待までしてしまうのだが・・


しかし、そこは自分の由来とは全く関係の無い初めて訪れる、しかも既に無人になった南国市のとある集落

でもほんの一瞬だが、寂しさではなく、懐かしさが込み上げてきて、他では味わえないスケールの大きな素敵な気分になれたのは間違いない!!!


そう、、去年48歳になり、今年49歳になる予定のオッサンが、この風景に遭遇し、自分が子供の頃、周辺の自然の中で無邪気に遊んでいた頃の感覚に陥ってしまったのだ。

そして、もうこの風景の中に人物が登場するという事が、かなり特殊な状況であるという事が個人的には非常に悲しく、寂しく感じたのであるが、それはここに到着した瞬間に感じた一瞬の感覚で、それ以降は、この黒滝小中学校跡に到着した事が、なんだか時代の大きな変遷の場面にリアルに遭遇した気持ちになり、確かに小学校の廃校という話自体は喜べない話ではあるが、それだけを見てネガティブに捉えるのは極めて愚かな事であると、改めて再認識するのであった。


廃校後の学校は地域の施設として活用されてはいたが

実際にこの地に訪れるのは一体どれだけなのだろうか・・




黒滝自然館せいらん



学校があった頃の面影



学校の門柱が残されている


中学校




子供達の合宿なんかにはいいかも!!


名のある観光地を利用するより、こういう場所を積極的に活用するほうに賛成だ!!



すぐ下には昭和37年に建設されたプールがある

そんなプールで飛び込んで遊ぶのもいい経験になるかも






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学校の東にある神社に行ってみよう!!


新田神社



昭和34年






過去には、この新田神社



初詣、夏祭り、秋祭り等、今では想像もつかない程の多くの人々で

相当な賑わいを見せていた場所だと思う。


今は無人と化したこの黒滝の集落と学校跡地

がしかし、それは大きな歴史の流れの中の現時点での姿であるだけなのである。


集落道路沿いにあるこの看板


そしてその南側に広がる土地



ここは耕作地ではなく

繁藤駅に繋がる石原満俺(マンガン)軌道の終点であり、ここからさらに中ノ川に向かう中ノ川林用軌道の始点でもあったのだ。






南国・稲生中学校 高知農業高校南海分校(昭和50年統合) 岡豊中学校 久礼田中学校 瓶岩小学校

2019-07-08 00:04:52 | 南国の学校
●在りし日の稲生中学校


●高知農業高校南海分校(昭和50年統合)


地理院地地図「御免」昭和47年






●岡豊中学校は小学校の隣にあった







●久礼田中学校は小学校の南の部分



在りし日の久礼田中学校



●瓶岩小学校跡




在りし日の瓶岩小学校