皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

窪川・東又中学校

2019-07-16 12:41:04 | 窪川の学校

窪川・東又中学校


2017/10/4(水) 午前 1:19




昭和45年 東又中学校、仁井田中学校、松葉川中学校、川口中学校、志和中学校

窪川中学校に統合


学校があった頃の面影







在りし日の東又中学校


現在は海洋センターになっている


光の加減の関係もあるが、

現在の航空写真より、学校があった頃の航空写真のほうが

眩しく見えるのは気のせいだろうか!!

窪川・仁井田中学校

2019-07-16 12:40:14 | 窪川の学校

窪川・仁井田中学校


2017/10/4(水) 午前 1:05



国道沿いにある学校の石碑



国道沿いで駅前でもあるここに中学校があった時代が過去にあった


地図に記載されている学校のあった場所



昭和45年 仁井田中学校、東又中学校、松葉川中学校、川口中学校、志和中学校は

窪川中学校に統合


当時とは随分と様子が変わったようだ




在りし日の仁井田中学校


国道56線沿いにあるJR六反地駅が、国鉄六反地駅と呼ばれていた頃




この付近は多くの生徒で賑わっていた。




そしてその「生徒」というのが、現在いいオッサン、おばはんになった、私より一回り以上年上の方々の世代がそうであった時代の話なのである!!!

窪川 志和小学校

2019-07-16 12:39:20 | 窪川の学校

窪川 志和小学校

2016/7/21(木) 午後 11:05




薬師寺境内に開校し、明治11年8月 志和小学校となる。

この時代の仮校舎は、藩政時代に貢米を一時置いておく貢物蔵だったそうだ。

志和の集落が見えてきた。


実は中土佐町の矢井賀小学校に向かう途中で、窪川の事は頭になかったが、どう見ても学校跡地にしか見えない場所があり、行ってみると志和小学校跡だった。




まあ、行ってみたと言っても、道を一本入っただけですが!!






小学校の屋内運動場



校舎があった頃の風景


平成23年に東又小学校に統合になり、スクールバス(志和線)の運行が始まった。



校歌


二宮 尊徳さんも、もういない!!


この道が完成するのは一体いつの事やら。








窪川・若井川小学校

2019-07-16 12:38:26 | 窪川の学校

窪川・若井川小学校


2017/10/4(水) 午後 2:43


四万十町通信 平成22年12月号



四万十町通信 平成23年4月号




明治5年開校、139年の歴史、2153名の卒業生

確かにその長い歴史をもつ小学校が廃校になる事は寂しい事ではあるが

それは大きな歴史の流れの中で、その役割を充分に果たした結果であり

学校が開設され、多くの児童達でこの学校が賑わっていた頃と比べて

時代の流れが激変しているという事であり

国家が国家基盤を築き上げる為に投入した義務教育へのエネルギーが

この若井川小学校では139年間地域の子供達に投入され


そしてそれが現在の日本を形成してる状態を、作り上げた要因の一部であり




日本の現在の形、歴史というものは、この若井川小学校の139年間の歴史を完全に織り込んだ形で形成されているという事である


とはいえ、集落があり学校があり、そこが既に廃校となって学校というのはやはり寂しいものである



若井川小学校


鉄筋コンクリートの校舎が建設されたのは



昭和54年の事だ

卒業生の作品



校舎


校庭



学校の石碑



学校の改革

プールが完成したのは平成元年の話だ



開校 明治五年



そしてその明治五年、当時の世界情勢はどうだったかというと


その前年に明治四年、日本はお隣の清朝と「対等条約」である「日清修好条規」を結ぶ

その五年後、次に日本は李氏朝鮮と完全な「不平等条約」である「日朝修好条規」を結ぶ。


そしてその「不平等条約」を悪い事だと騒ぐ風潮が現在にあるのだが、それは「当たり前」の話なのである。

国家、国力、国民が違うから国際的な立場に違いがあって当然なのである。


でもまあ、日本としては別にそれでも「平等な条約」にしてあげても良かったのだが、「李氏朝鮮」自身に問題があり、仕方なく「不平等条約」にするしかなかったのである。

何故なら、朝鮮は有史以来、支那の属国であり、支那の清朝と対等な条約を結んでいる日本が、清朝の属国である朝鮮と対等な条約を結ぶ訳にはいかなかったからである。


日本が朝鮮と平等条約を結べば、清朝と、その清朝の属国である朝鮮が「対等」の立場になってしまうので、そんな申し訳ない、国際的にも非常識な事をする訳にはいかなかっただけの話である。

日清戦争が朝鮮半島を戦場として日本と清が戦い、その結果の下関条約で朝鮮が晴れて支那の属国から解放された事が全てを物語っている。


そしてまたハワイはアメリカ領ではなく、フィリピンはアメリカが植民地にする前のスペイン領だった時代。

そしてハワイ、フィリピンがアメリカ領となったのはその日清戦争後の1898年の話。


そしてそれは、アメリカがまだその当時は「世界の一等国ではなかった」頃の話である。









隣接して保育所がある



現在ここを利用する目的としては一体どのようなものがあるだろうか




道路越しに見える学校のプール


手前は敷地内にある保育所のプール




田園風景の中にある学校のプール


明治五年に開校した若井川小学校は一三九年の歴史を持って閉じる事になった。




しかしそれ以前、有史以来存在していたであろうこの田園風景は相変わらずなのである。




まあ強いて言えば、電柱が建ち、平成という時代に入ってから、現在は廃校となってしまった地元の小学校であった若井川小学校のプールが造られたという事ぐらいだろうか!!!

窪川・家地川小学校

2019-07-16 12:37:24 | 窪川の学校

窪川・家地川小学校


2017/10/4(水) 午後 3:48


学校があった頃の地図を頼りに家地川小学校に向かう




当時とは随分と道路事情が変わっている事が良く解る



学校前の商店



学校前は集落の繁華街でもあった


ここで恒例のブラックコーヒーを


そして学校前には家地川ダムがある



学校に供給する電気は出来立てほやほやの新鮮な電気で地産地消という訳だったのである。



この橋の上という場所は、当時の児童達にとっては行動範囲内の重要なポイントの一つであった事は間違いない。



となると、昭和33年にこの橋が完成する前は一体どのような橋が架かっていたのか気になる




「四国電力」の文字がある


当然、ダムは戦前に造られたもので、これは昭和12年の工事の様子



家地川小学校の校庭には大きな「けやき」の木がある



河童と鮎




校門


183m地点


校舎



閉校になり、その後訪れる人が殆どいない雰囲気


そして「けやき」はこの学校のシンボルでもある



開校 明治二四年


四万十町通信 平成23年4月


児童は卒業生3名を含め14名となり、川口小学校へ統合となる




閉校時のこの「けやき」の姿が一段と大きくなり、この姿とは異なって見えるようになった頃、この地域は一体どの様な姿になっているだろうか!



新校舎建設は


昭和58年



開校105年と体育館落成記念



校歌



はたしてその後、この場所が新たな目的で使用される事になった場合




この「けやき」を切り倒す「勇気」「度胸」「資格」「節度」「大義」を持った者はいるだろうか!!!


学校前のある、河童と鮎




目前にダム湖のあるこの場所に、河童や鮎とは整合性の取れない組み合わせであるが





学校が開設された明治24年にはまだダムはなく、その後ダムが建設されただけで、開校から120年後に学校は廃校になったものの、長い歴史の中で見れば、もともとはこの河童と鮎が、この地域を象徴するもなのである。