窪川・若井川小学校
2017/10/4(水) 午後 2:43
四万十町通信 平成22年12月号
四万十町通信 平成23年4月号
明治5年開校、139年の歴史、2153名の卒業生
確かにその長い歴史をもつ小学校が廃校になる事は寂しい事ではあるが
それは大きな歴史の流れの中で、その役割を充分に果たした結果であり
学校が開設され、多くの児童達でこの学校が賑わっていた頃と比べて
時代の流れが激変しているという事であり
国家が国家基盤を築き上げる為に投入した義務教育へのエネルギーが
この若井川小学校では139年間地域の子供達に投入され
そしてそれが現在の日本を形成してる状態を、作り上げた要因の一部であり
日本の現在の形、歴史というものは、この若井川小学校の139年間の歴史を完全に織り込んだ形で形成されているという事である
とはいえ、集落があり学校があり、そこが既に廃校となって学校というのはやはり寂しいものである
若井川小学校
鉄筋コンクリートの校舎が建設されたのは
昭和54年の事だ
卒業生の作品
校舎
校庭
学校の石碑
学校の改革
プールが完成したのは平成元年の話だ
開校 明治五年
そしてその明治五年、当時の世界情勢はどうだったかというと
その前年に明治四年、日本はお隣の清朝と「対等条約」である「日清修好条規」を結ぶ
その五年後、次に日本は李氏朝鮮と完全な「不平等条約」である「日朝修好条規」を結ぶ。
そしてその「不平等条約」を悪い事だと騒ぐ風潮が現在にあるのだが、それは「当たり前」の話なのである。
国家、国力、国民が違うから国際的な立場に違いがあって当然なのである。
でもまあ、日本としては別にそれでも「平等な条約」にしてあげても良かったのだが、「李氏朝鮮」自身に問題があり、仕方なく「不平等条約」にするしかなかったのである。
何故なら、朝鮮は有史以来、支那の属国であり、支那の清朝と対等な条約を結んでいる日本が、清朝の属国である朝鮮と対等な条約を結ぶ訳にはいかなかったからである。
日本が朝鮮と平等条約を結べば、清朝と、その清朝の属国である朝鮮が「対等」の立場になってしまうので、そんな申し訳ない、国際的にも非常識な事をする訳にはいかなかっただけの話である。
日清戦争が朝鮮半島を戦場として日本と清が戦い、その結果の下関条約で朝鮮が晴れて支那の属国から解放された事が全てを物語っている。
そしてまたハワイはアメリカ領ではなく、フィリピンはアメリカが植民地にする前のスペイン領だった時代。
そしてハワイ、フィリピンがアメリカ領となったのはその日清戦争後の1898年の話。
そしてそれは、アメリカがまだその当時は「世界の一等国ではなかった」頃の話である。
隣接して保育所がある
現在ここを利用する目的としては一体どのようなものがあるだろうか
道路越しに見える学校のプール
手前は敷地内にある保育所のプール
田園風景の中にある学校のプール
明治五年に開校した若井川小学校は一三九年の歴史を持って閉じる事になった。
しかしそれ以前、有史以来存在していたであろうこの田園風景は相変わらずなのである。
まあ強いて言えば、電柱が建ち、平成という時代に入ってから、現在は廃校となってしまった地元の小学校であった若井川小学校のプールが造られたという事ぐらいだろうか!!!