皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

香我美町 舞川小学校

2019-05-25 12:23:16 | 香我美町の学校跡地

香我美町 舞川小学校

2015/10/7(水) 午後 10:58

廃校後の舞川小学校(北部小中学校、年代は不明)

歴史

昭和38年 撫川小学校と統合し、北部小中学校になる!

統合時の児童数は43人、三学級複式授業、職員は校長以下四名

中学校は生徒数26人、職員は校長以下四名

また運動場の拡張工事があり、校下民全員出動し、山を崩し、谷を埋める難作業だったそうだ。

そして中学校は昭和56年、小学校は昭和57年、それぞれ一名の卒業生を出し休校。


在りし日の舞川小中学校




場所はここ。夜須からの道があるとしても、大栃から明改小学校跡地前を通ったほうが分かりやすいし、近いような気がする。(撫川小学校跡地も同じ)

http://maps.gsi.go.jp/#18/33.642911/133.861156



大栃から県道29号をひたすら進むと、まず前記の明改小学校跡地の前を通り、香南市に入る、そしてその道をひたすら進むと舞川キャンプ場に着きます。(休業中とのこと)そこが舞川小学校(北部小中学校)跡地です。



上がっていく!



前回の撫川小学校と同じく、ほぼ無人の集落にある学校跡ですが、綺麗な場所です。キャンプ場は現在休業中との事ですが、こちらは毎年イベント等に利用されてるそうです。前には公園のような場所があり、もみじが沢山あり、また別の機会に行ってみたい、そんな場所です。

2015年9月下旬の風景!!!





校舎の様子。廃校後にあった前の建物は取り壊されている。


映画の撮影にも使えそうな、そんな素晴らしい校舎です!!


教室の様子!!!!








校庭のオブジェ!!!



そして学校出身の軍人の方の名前を刻んだ石碑だと思うが、こういうものが廃校と一緒に忘れ去られるのは良くない。そして戦前の学校には、こういう石碑があったという事。つまり当時はそういう時代だったという事を忘れてはいけない!!






懐かし学校の椅子!!!


校庭先に建てられているバンガロー!!




キャンプ施設!!



そして道に戻り進むとすぐに、ミニインターチェンジのような場所に!!!
直進すると前回投稿の撫川小学校跡地(現在落石のため通行止め)

左折すると、弓木隧道を抜け、先のT字路左折で未舗装の道を通り明改小学校中津尾分校跡地、右折すると、安芸の畑中小学校跡地方面へ抜ける。

右折すると、前記の奈良小学校跡地(左折、左折で撫川小学校跡地)に抜ける!

・この道直進が奈良小学校跡地方面。左折撫川の右折舞川!!


これを直進で弓木隧道!!


上は舞川公民館で舞川キャンプ場の受付(現在休業中)


電話があり、(使えるかどうかは確認していないが、多分携帯は圏外だろう)トイレも使える。



水は出る!!


そしてこの道を登れば舞川キャンプ場!!


前記しましたが、毎年地元の人が戻ってきてイベントなんかも開催されるとの話を聞いた。(見逃してしまったが、凄い木があるそうです。)


目と鼻の先にある撫川小学校跡地とは対照的な場所だった!!





香我美町 撫川小学校

2019-05-25 12:22:14 | 香我美町の学校跡地

香我美町 撫川小学校

2015/10/6(火) 午前 1:24


場所はここ!!!

http://maps.gsi.go.jp/#18/33.627627/133.852326

歴史

明治 8年 撫川小学校として設立
旧民家を利用。教員 男1人 児童 男10人 女 二人で発足

明治27年 東川村立憮川尋常小学校
昭和12年 東川小学校憮川分校
昭和16年 東川国民学校憮川分校
香我美町立東川小学校憮川分校


昭和38年 撫川・舞川小学校が統合され、北部小・中学校となる。

      (撫川小学校の校舎はその時に解体され、舞川小学校の敷地に増築)


奈良小学校跡地から、撫川小学校へ向かう!!!!!!!

既に、俺の知っている、そして一般的な高知県民の想像する香我美町ではない!!!


なんと、潮見台が見える!!!!!!!!


これを左に、大栃方面へ!!!


舞川側からは、すぐに通行止めだったので、こっちからなら近くまで行け、その後に通行止めになっていると思っていたが、ここからとは!!!!!

仕方がないので、ワープ機能を使用し、一気に周辺まで移動する事にする!!


石垣が沢山見えてくる!!


でもまだまだ先のようだ!!!


ポストはあるが家がない!!!


神社の鳥居さえ崩落している!!!!


そろそろだ!この集落かも!!


対岸にも石垣があり、今までより比較的大きな集落だ!!!


公民館がある、この横に跡地があるそうだ!!!


バイクを止め!!!


道路から石垣の上の学校跡地を!!


石碑があり、階段がある!!この上だ!!!






階段、ここが校門だろう!!


門柱!!!!


「愛国」の石碑!!!!!







校舎は昭和38年に解体されたが、基礎はまだ残っていた!!

当時の校舎は分解して、舞川小学校に運んで新しい校舎になったそうな。


配管も!!!!



この瓦は旧校舎のものだろう!!!


この跡地の奥にも石垣が沢山ある!!!





裏の一段上からの学校跡地


跡地の道路反対側にあるこの家の表札!!


平成18年!!
また、右側の文字は明治14年だったらしい!うっすらと(治)が見える!



対岸に渡る橋が架けられていて!



2000年7月「撫川公民館下ノ橋協力者」とある。





河原に降りてみる!!観光ガイドにある、観光地の自然の比ではない!!!





そこからバイクに乗り舞川側に向かうと、こんな場所が!!!






そしてバイクに乗り、舞川に向かうが土砂崩れ!!!(ほとんど舞川側)


帰る事に!夜須方面に向かう!!!

この撫川だけでも2回鹿に出会った!!
この植林伐採のあとは例によって自然の森風に戻す計画だろう!!


おお、今度は高知市内が見渡せるぜ!!!!!!!!



その後、この撫川小学校跡地に関する一次資料を求めて、地域の歴史民俗資料館へ向かうが、そこがまた香我美町の小学校跡地になる訳で!

そしてそこの職員の方と話をするが、その方もじつはこの跡地の存在を知らなかったようで、とりあえず写真で状況を話し、鳥居が崩落している事も報告した。そして、なにやらかにやら情報交換で1時間程立ち話をしてしまった。




その方の話によると、人々が平地に降りてきたのはごくごく最近の事だとの事。

昔は、平地に住んでる人より、山に住んでいて、山や土地を持っている人のほうが偉かったらしい。

「宝の山」とは言うが、それは宝が山のようにある、という意味ではなく、文字通り、山そのものが「宝」という意味らしい!!

香我美町 奈良小学校

2019-05-25 12:20:56 | 香我美町の学校跡地

香我美町 奈良小学校


2015/10/5(月) 午後 11:58


場所はこの奈良地区に!!この橋を目指していけばあります!

http://maps.gsi.go.jp/#17/33.614932/133.822371

歴史

明治19年二月 奥西川小学校奈良分教場として、創立
明治25年 校舎改築
明治30年4月 奈良尋常小学校
明治34年 校舎修理
大正 14年 校舎増築

昭和32年  校舎を増築 学級を2学級を3学級とする。辺地教員住宅の新築。

昭和41年  東川小学校に統合

(香我美町史より) 多いときは60人ほどの生徒がいたそうです)



付近に到着し、地元の人に話を聞くために、地元の人を探す!!!

山仕事をしているおばあちゃんを見かけたので、そこまで行って声を掛ける。

すると、その下が学校跡地で、もともとは自分の家地だったので、廃校ご建物を買い取り、現在ゆずの倉庫にしているとのこと。昔は稲作、その後生姜、現在ゆずの栽培をしているそうだ。


ハウスのあるとこが運動場で、フェンスの跡が見える。昔はこのフェンスをドッジボールのボールがよく飛び越えていたそうだ。

また、運動会も、直線で50mもとれないこの運動場で、かけっこも、リレーも盛り上がっていたそうだ。


多いときは60人程の生徒がいて、先生は4人、教員住宅に住み、校長先生は隣の町から通勤していたとのこと。この家の裏にある、黒の波板の場所が給食室で、給食は先生が作ってくれていたらしい。遠足は隣の撫川小学校。修学旅行は、うーん、そんなものは無かったかも・・・・と。


裏の建物が教員住宅。その奥にもまだあったらしい。




そして当時はこの周辺にも家が沢山あり、この裏にも家があり、綺麗な水が沸く場所があるとの事で、少し坂を登る。


あった、飲んでみた!「美味い」!!!!!!


その後もいろいろと話を聞かせてもらった。

あそにも、あそこにも家があったと。

その後、撫川小学校跡地へ向かう事を伝えると、「もうあそこには誰も住んでないよ!」と言ってくれた。

遠景




平安時代、武士が台頭し始め。

室町末期には武士として「文武両道」の併進を理想とし。

また、中世の学問はなんと言っても、その中心は僧侶の間にあり、寺院でも、次世代を背負う僧侶の育成の為に寺子屋を始め学問の道を開き。




家康は心ある武士の理想として文武二道の併進を奨励し。

吉宗は、社会風習の基礎は一般大衆の教育であると大いに奨励し。




天保から慶応に至る約35年間は寺子屋の黄金時代であり、津々浦々に増え続け、その数は、江戸に1千、全国に5万と伝えられているそうだ。




そういった昔の地域の教育施設の前身があり、そういう時代背景があったからこそ、明治5年以降、日本各地に小学校が、次々に開設されていったのだろう!!




・・・・・明治5年8月2日 文部省布告第214号・・・・




「身を修め智を開き才芸に長じ世に立つには、学問をしなければならない。今般文部省では、学制を定め教則を改正し布告する。今後一般の人民は必ず村に不学の家なく、また家に不学の人のないように、父兄は必ず子弟を入学させなけらばならない。」