土佐清水・有永分校(出合小学校)
2016/10/16(日) 午後 2:55
学校の歴史
明治9年 有永に小学校開設
明治43年 2月23日 宗呂尋常小学校に吸収され、分教場となる。
明治44年11月29日 分教場校舎落成
昭和23年10月18日 現校舎新築移転
昭和26年4月1日 出合小学校創立により下川口町出合小学校有永分校となる
昭和29年8月1日 土佐清水市立となる
昭和30年4月1日 3学年まで1学級編成の分校となる
昭和36年3月1日 創立50周年記念式典挙行
昭和37年6月29日 教員住宅落成
昭和63年 廃校
これはつまり昭和30年から小学3年生までがこの有永分校に通い、4年生以上は本校(出合小学校)に通学していたという事だろう。
そして出合小学校が廃校になった後は、まさか小学生高学年といえど有永から宗呂小学校まで歩いていくには遠すぎるし、児童数も減り、1年から6年まで単級で授業をしていたという事になる。
それにしても昭和36年に創立50周年式典を挙行とあるが、これは明治43年の宗呂尋常小学校の分校になったのを起点にしているが、学校の開設は明治9年なのに一体どんな理由があったんだろうか??
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去年の夏、突然昭和26年に、この有永分校の本校になった出合小学校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34236805.html
を訪問した時は、市町村史で学校の歴史を調べるというい手段を知らなったので出合小学校の開設については曖昧なままでいたが、昭和26年に宗呂小学校より校舎もないまま分離・独立した小学校という事らしい。
つまり校舎は無いけど、ある理由で、その後の出合小学校になる校区の児童数が劇的に増え、一つの学校が出来る程の人数になり、また宗呂小学校の校舎ではその数の児童は受け入れが不可能だから、とりあえず宗呂小学校には登校せず、すぐに校舎を作る計画で、そっちはそっちでやってくれ!!!!という非常事態だったに違いない。
そして有永・珠々玉・坂井で分散授業が行われ、昭和27年4月に校舎建築に着手、9月に完成。
同時に下川口中学校出合分校を併設する。
周りの状況、環境、太平洋に向かってなだらかに流れる宗呂川とその川沿いの地形、戦後の時代背景を考えると、そうなった理由は、やはり「林業」の影響だろう。
きっとそこでいきなり「林業」が大忙しとなり、多くの家庭が子供連れで集まってきて、短期間で小学校が必要な程の地区になってしまったと推測できる。
そして宗呂小学校と、その分校がある有永の中間に位置し、宗呂小学校から独立した形をとった出合小学校が、有永の分校を吸収する程の規模になったという事だろう。
そして出合小学校が、①林業の需要と共に開校され、林業に衰退と共に廃校になった、②その地域の短期間の一つの産業と運命を共にした学校であった、という事と、以前から人々が住んでいた場所に開設された学校ではなく、前記の理由で開設された学校で、もともとそこを地元としない人々が通っていた学校だったという事は、廃校後の出合小学校と、他の廃校後の小学校と比べて「なんとなく寂しい状態」を見れば納得できる話だ。
しかしそれは林業という仕事で移転してきて、この出合小学校で学んだ人々の愛校心が低いという話ではなく、自分が生れ住んだ町で通っていた小学校と、仕事の関係で住んでいた町で通っていた小学校では、その想い入れが違う!!というだけの話である。
そしてまたこの出合小学校の周辺は、宗呂川の4つの支流が集まる場所である。
林業に必要な貯木場を作るとすれば、理想的な場所である。
しかしその前に民家の点在する場所であればそれは不可能な訳で。
その事からも、この出合小学校が戦後の林業の需要と共に無人だった地域に開設され、林業の衰退と共に廃校になった小学校という事がわかる。
そしてなにより、小学校が開設される程の地域でありながら「神社」が無いとい事で、出合小学校付近は戦前は民家の無い地域だったと推測できる。
そしてこの「推測」は実際に半世紀前に廃線になった「林用軌道」跡を歩き当時の遺構を見て回り、無人になった周辺集落を訪ねた経験に基づくものである。
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34458813.html
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と、長々と有永分校の本校である宗呂小学校に代わって、途中から有永分校の本校になった戦後の林業の需要に伴い突然出現した出合分校の話をしてしまったが、その出合小学校自体が有永分校より先に廃校になって、有永分校が元の本校である宗呂小学校の分校に戻り・・・・という経緯のある学校の歴史は全国的にも珍しのではないかと思う!!!
そして、小学校が開設された理由も廃校になった理由も、戦後の「林業」にあったと、そんな時代があったという話である。
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下川口小学校前を通り、下川口中学校、宗呂小学校前を過ぎ、出合橋を渡り、出合小中学校前を通る。
有永への分岐に到着
当然、分校は有永の集落にあると思い、気合を入れるが、あっという間に到着。
分校は有永の手前にあった!!
民家ではなく小学校の「木造校舎」である事は瞬時に分かった。
なにせこの日は木造校舎に辿り着く事3件目!!!
有永分校
土佐清水市立宗呂小学校
以前はここが「出合小学校」だった訳だ。
裏手に回る。
廃校から29年。
構造体に致命的な損傷はまだ無い!!
奥が昭和37年に建てられた教員住宅。
校舎は昭和23年に建てられた。
廃校後の有永分校
給食室に入れた
給食の目標
当時の児童達は、調理の手伝い、献立すらやっていたらしい。
南側は当然校庭になっているが、植林になっていて、その中に当時の面影が残っている!!
卒業生の作品・・だと思う
ブランコ
当時の校庭の様子
学校を後にする!
その先の有永の集落を抜け、少し奥に入ると、長い間人々が作り上げていた田園風景が、自然の風景の溶け込もうとしている。
分岐に戻り北に進み、三原村にから帰ろう。
で、三原村に入ると左手にに道も無いのにトンネル出現
三原村を横断するバイパスの計画があるのだろうか??