皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

土佐清水・大津小学校

2019-07-11 23:49:10 | 土佐清水の学校

土佐清水・大津小学校

2016/10/15(土) 午後 9:00




「津々浦々」とはこの事である。

貝ノ川、大津、お隣の大月町の小才角と、それぞれの入り江に漁村があり、そこに多くの人々が住んでいて、それそれの漁村に小学校があった。

それぞれの漁村を隔てる山があり、人々は海岸線を大回りして隣の集落に行ききしていた。

今は大きな道路が完成し、漁村同士を隔てていた山にはトンネルが作られ往来が簡単になってきた。


学校の歴史

明治 8年 創立

昭和24年 4月 学校給食始める

昭和26年 7月 台風のため校舎倒壊

昭和28年 3月 新校舎落成

昭和37年 8月 新校舎及び僻地集会所落成

昭和50年 2月 開校100周年記念式典挙行

平成 5年   休校

平成16年   廃校


またこの学校は昭和22年4月の学制改革の前、昭和21年12月に高等科の開校式を行っている。

戦後、日本の教育の体制が変わった、変えられたが、それは昭和22年の学制改革(改革と、もっともらしく聞こえるが、アメリカが勝手にやった事)からで、それまでは戦前の体制だった。

そして、何が大きく変わったかというと、それまで文部省が作成した「国定教科書」を使用していたのが、作成を民間の企業に依頼し文部省が内容を検定するという「検定教科書」に変わったという事。

そしてそれによって、その後訳の分からない教科書が児童、生徒の前に出現する事になるのである・・・・


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到着



誰もこれを積極的に壊そうとする人はいない。むしろ積極的に残されている。



その裏側


赤い屋根の校舎



昭和26年に台風で校舎が倒壊したそうだが、ここは風が強いのだろう

校舎をできるだけ傷めないようにしているのだろうか・・・



この小学校も神社の隣に建てられている


夏祭りはこの小学校の校庭が大賑わいだった事だろう!!!




道路が大きく改良され、海岸沿いを大きく回る場所にはトンネルが作られ、当時と比較にならないスピード、時間でこの土佐清水市内を移動出来るようになったが、当時を比較し、随分と寂しくなったものだ!!!!

土佐清水・有永分校(出合小学校)

2019-07-11 23:46:05 | 土佐清水の学校

土佐清水・有永分校(出合小学校)


2016/10/16(日) 午後 2:55






学校の歴史




明治9年 有永に小学校開設

明治43年 2月23日 宗呂尋常小学校に吸収され、分教場となる。

明治44年11月29日 分教場校舎落成

昭和23年10月18日 現校舎新築移転

昭和26年4月1日 出合小学校創立により下川口町出合小学校有永分校となる

昭和29年8月1日 土佐清水市立となる

昭和30年4月1日 3学年まで1学級編成の分校となる

昭和36年3月1日 創立50周年記念式典挙行

昭和37年6月29日 教員住宅落成

昭和63年 廃校


これはつまり昭和30年から小学3年生までがこの有永分校に通い、4年生以上は本校(出合小学校)に通学していたという事だろう。


そして出合小学校が廃校になった後は、まさか小学生高学年といえど有永から宗呂小学校まで歩いていくには遠すぎるし、児童数も減り、1年から6年まで単級で授業をしていたという事になる。

それにしても昭和36年に創立50周年式典を挙行とあるが、これは明治43年の宗呂尋常小学校の分校になったのを起点にしているが、学校の開設は明治9年なのに一体どんな理由があったんだろうか??

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去年の夏、突然昭和26年に、この有永分校の本校になった出合小学校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34236805.html


を訪問した時は、市町村史で学校の歴史を調べるというい手段を知らなったので出合小学校の開設については曖昧なままでいたが、昭和26年に宗呂小学校より校舎もないまま分離・独立した小学校という事らしい。

つまり校舎は無いけど、ある理由で、その後の出合小学校になる校区の児童数が劇的に増え、一つの学校が出来る程の人数になり、また宗呂小学校の校舎ではその数の児童は受け入れが不可能だから、とりあえず宗呂小学校には登校せず、すぐに校舎を作る計画で、そっちはそっちでやってくれ!!!!という非常事態だったに違いない。

そして有永・珠々玉・坂井で分散授業が行われ、昭和27年4月に校舎建築に着手、9月に完成。

同時に下川口中学校出合分校を併設する。


周りの状況、環境、太平洋に向かってなだらかに流れる宗呂川とその川沿いの地形、戦後の時代背景を考えると、そうなった理由は、やはり「林業」の影響だろう。

きっとそこでいきなり「林業」が大忙しとなり、多くの家庭が子供連れで集まってきて、短期間で小学校が必要な程の地区になってしまったと推測できる。

そして宗呂小学校と、その分校がある有永の中間に位置し、宗呂小学校から独立した形をとった出合小学校が、有永の分校を吸収する程の規模になったという事だろう。

そして出合小学校が、①林業の需要と共に開校され、林業に衰退と共に廃校になった、②その地域の短期間の一つの産業と運命を共にした学校であった、という事と、以前から人々が住んでいた場所に開設された学校ではなく、前記の理由で開設された学校で、もともとそこを地元としない人々が通っていた学校だったという事は、廃校後の出合小学校と、他の廃校後の小学校と比べて「なんとなく寂しい状態」を見れば納得できる話だ。

しかしそれは林業という仕事で移転してきて、この出合小学校で学んだ人々の愛校心が低いという話ではなく、自分が生れ住んだ町で通っていた小学校と、仕事の関係で住んでいた町で通っていた小学校では、その想い入れが違う!!というだけの話である。

そしてまたこの出合小学校の周辺は、宗呂川の4つの支流が集まる場所である。

林業に必要な貯木場を作るとすれば、理想的な場所である。

しかしその前に民家の点在する場所であればそれは不可能な訳で。

その事からも、この出合小学校が戦後の林業の需要と共に無人だった地域に開設され、林業の衰退と共に廃校になった小学校という事がわかる。


そしてなにより、小学校が開設される程の地域でありながら「神社」が無いとい事で、出合小学校付近は戦前は民家の無い地域だったと推測できる。




そしてこの「推測」は実際に半世紀前に廃線になった「林用軌道」跡を歩き当時の遺構を見て回り、無人になった周辺集落を訪ねた経験に基づくものである。

http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34458813.html

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と、長々と有永分校の本校である宗呂小学校に代わって、途中から有永分校の本校になった戦後の林業の需要に伴い突然出現した出合分校の話をしてしまったが、その出合小学校自体が有永分校より先に廃校になって、有永分校が元の本校である宗呂小学校の分校に戻り・・・・という経緯のある学校の歴史は全国的にも珍しのではないかと思う!!!


そして、小学校が開設された理由も廃校になった理由も、戦後の「林業」にあったと、そんな時代があったという話である。


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下川口小学校前を通り、下川口中学校、宗呂小学校前を過ぎ、出合橋を渡り、出合小中学校前を通る。




有永への分岐に到着


当然、分校は有永の集落にあると思い、気合を入れるが、あっという間に到着。

分校は有永の手前にあった!!



民家ではなく小学校の「木造校舎」である事は瞬時に分かった。

なにせこの日は木造校舎に辿り着く事3件目!!!


有永分校



土佐清水市立宗呂小学校


以前はここが「出合小学校」だった訳だ。


裏手に回る。

廃校から29年。

構造体に致命的な損傷はまだ無い!!




奥が昭和37年に建てられた教員住宅。

校舎は昭和23年に建てられた。




廃校後の有永分校


給食室に入れた



給食の目標

当時の児童達は、調理の手伝い、献立すらやっていたらしい。



南側は当然校庭になっているが、植林になっていて、その中に当時の面影が残っている!!


卒業生の作品・・だと思う



ブランコ


当時の校庭の様子



学校を後にする!

その先の有永の集落を抜け、少し奥に入ると、長い間人々が作り上げていた田園風景が、自然の風景の溶け込もうとしている。



分岐に戻り北に進み、三原村にから帰ろう。




で、三原村に入ると左手にに道も無いのにトンネル出現

三原村を横断するバイパスの計画があるのだろうか??







宗呂小学校出合分校 出合中学校(土佐清水市)

2019-07-11 23:45:03 | 土佐清水の学校

宗呂小学校出合分校 出合中学校(土佐清水市)


2015/9/21(月) 午後 8:21


http://maps.gsi.go.jp/#17/32.827808/132.796855
場所はここ。

私は基本、高知市内から125ccのスクーターで出かけてます。今回はちょっと遠出して土佐清水市まで行ってきました。高速が出来たせいか下道の車はかなり少なく旧中村市まで約2時間で着いたのは驚いた。でもまあそこから土佐清水まで約1時間半、往復7時間でした。次回は泊まりで本格的に行動してみたい気が!!!


1980年(昭和55年)下川口中学校に統合→そしてその下川口中学校も2013年(平成25年)清水中学校に統合(下ノ加江中学校、足摺岬中学校も同じく)

1984年宗呂小学校出合い分校、宗呂小学校に統合

林業で賑わっていた場所だとは思うのですが、既に周りに家、集落らしきものは殆どなく、時代の流れを感じさせられる場所でした。


ここが校門のあった場所だろう。表札すら無くなっているのが寂しい!









校庭の石碑。休校、廃校に関する石碑は見つける事が出来なかった。



給食室、大きな釜が二つ見える!




給食室横から。手前が給室で奥が校舎、そしてその奥にもかなり崩壊の進んだ校舎がある。どちらが小学校でどちらが中学校かは解らない。


メイン校舎、東側のトイレ通路らしき場所から中に入る。





前の川が増水して中まで泥が入り込んできたのだろう。



屋根が部分的に崩壊し、床も部分的に傷みが激しく進んでいる箇所がある。



ここまで泥が、もしかして現役時代もこんなことがあったのだろうか?





教室の様子。





印象的だったドアの取っ手。


保健室!



プレートがあった場所とは少し離れていたがここだったのだろうか?


あまり備品らしきものは無かった。増水で流れていったのか、訪した誰かが持って帰ったのか。この場所で自然に風化していくのがいいのか、誰かに持ちかえってもらい、長生きするのがいいのか、でどちらがいいのかわからない。



黒板の落書き



年間行事予定表


音符も雨に濡れて消えていったのだろう!




時間割表



正面玄関付近





教室の格子窓からの景は絵になる!!



この校舎の北面とその軒下





そして東側の校舎へ。奥に見えるのが体育館



こちらはかなり崩壊はが進んでいる。



北側と、その上から。





体育館、金属屋根で、まだ地域の人が利用しているのか、手入れもしてるのか、保存状態が良い。


上の写真は西側。南に回って窓から写真を撮ってみる。



うーん、よく撮れない。まだ、利用されてる雰囲気がある。



この学校の北側の道路。この道をしばらく進んでみたが、民家、集落は無い。


しかし所々に石垣があり、昔人が住んでいて小学生、中学生が元気に
登校していた事が想像出来ない訳でもない。



引き返して、学校の対岸の道路に。この学校にはプールは必要なかっただろう。いや水泳の授業すら不要だったかも。



対岸の道路を奥へ


さらに奥へ。こんな場所に昔、人が住んでいて、子供達が学校に通っていたとは。でも、よく見るとあちこちに石垣があり、そう遠くない過去に、林業がメインだったのだろうが、この界隈が賑わい子供達が元気に登校していた事を証明する痕跡が残っている。



そしてよく見るとやはりまだ住人がいるようだ。ここの学校の卒業生だろうか。少なくとも二件は民家があった。この車は本当に古い。



戻ってきて、道路から撮影。奥が小学校。
この道路を右に曲がると、というか土佐清水方面に戻ると、1980年にこの出合中学校を統合した下川口中学校と、1984年にこの宗呂小学校出合分校を統合した宗呂小学校に着く。


上の写真の右が出合橋






昭和31年完成、当時にすればかなり大きい橋になると思うのだが。


帰りに旧中村市でラーメンを食べて帰る。
繁華街にアーケードがあるのは知らなかった。


はたしてこの学校はいつ設立されたのだろう。

林業を中心にした産業で地域が賑わい、そして時代の流と共に衰退し、現在の状態になっているのだろうが、出合小学校で検索してもそれに関する記事が殆ど無い。







土佐清水・藤ノ川分校(貝ノ川小学校)

2019-07-11 23:43:38 | 土佐清水の学校

土佐清水・藤ノ川分校(貝ノ川小学校)


2016/10/15(土) 午後 8:17






学校の歴史

・本校である貝ノ川小学校の歴史の中には、藤ノ川分校は昭和2年の設置となっているが、土佐清水市史によるとその歴史は明治初期にまで遡る。


明治 9年 藤ノ川小学校創立

明治20年 藤ノ川巡回教場となる

明治25年 巡回教場廃止

大正 5年 本校に通学

大正 6年 藤ノ川家庭教育場できる。

昭和 2年8月 藤ノ川分教場となる。

昭和22年 下川口村立

昭和25年 下川口町立

昭和29年 土佐清水市立

昭和41年 教員住宅・校舎改築

昭和45年 完全給食実施

昭和57年 休校 (藤ノ川小学校の石碑によると、その14年後に廃校という事だろうか・・・)

貝ノ川小学校・中学校から藤ノ川分校へ向かう。

途中地元の方に学校の事を聞くと、まだまだ先だけど橋を渡った向こう側にあるからわかる!!との事。


到着。その通りの表現だ!!




橋は校舎が新しくなってから。それまでは「吊り橋」だったかも??




ふじのかわはし



実はこの日、木造校舎の学校跡地3件訪問する事に。



廃校後の写真・当時と佇まいは全く変わっていない。




割れたガラスの割れた窓から校舎をのぞいてみると、校舎の東側は講堂になっていた。 珍しい造りだ!!



ステージ



生徒の作品が飾ってある


そして廊下を通り玄関、教室へ




教室



美しく、そして貴重な木造校舎・奥は教員住宅っぽい!!




老朽化を理由に解体するのは勿体無い。むしろ保存する方向でお願いしたい。



この校舎の図面を簡単に書いてみた!!





教室は3つしかないが、3階建ての鉄筋コンクリートの小学校の校舎を卒業した私には、ちょっとドキドキする間取りである!!!