皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

野根山街道② 「具同寺方面」

2020-06-18 16:30:46 | 野根山街道
再び野根山街道に向かう。

目的は前回引き返した四郎ヶ野峠の手前2.7キロ地点まで歩く事。

そして途中にあった「具同寺」の分岐に向かって進むことであった。

結果としてその分岐から「具同寺」方面に進む事は出来た。

分岐からのその方面に向かう杣道、いやいやもはや獣道とも言えるその地形を少しだけ進むと、本来の「道」に復帰し、その先は続いていた。

分岐付近から周辺で行わわれている「林業」の現場からの機械音が聞こえ、決してそこが現在決して誰も足を踏み入れる事のない地域ではない事!!は分かった。

しかしだからと言って、それが人間の行動範囲と同調する訳もなく、、、

そしてそもそも「具同寺」とは「寺」なのか、「地名」の事なのか、、、


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改めて野根側から街道にむかう!(5月25日)


四郎ケ野峠は野根から少し北川村に入った場所にある





具同寺の分岐に向かう


花折峠



五代の崩(ずっと杖と思っていた件)



四郎ケ野峠から2.7キロ地点に約1時間で到着
ほぼ上り坂という事もあって歩行速度は時速2.7キロ

前回はここで米ヶ丘方面に引き返した



一里は約3.93キロ



そして目的地点に到着



ここまで2時間程だったので峠からの歩行速度は6.4キロ


また、段ノ谷から1.5キロの場所。


どうやらここは佐喜浜小学校段分校跡から登ってきた場所のようである。



四国森林管理局の資料




https://www.rinya.maff.go.jp/shikoku/policy/business/route_map/0906dannotani.html



看板の指す方向に向かう。

やがて、それが杣道と認識すべし跡は林業のワイヤーのある場所に繋がり



その先は完全に「道」

これが地図にある「破線」の「道」だろう。



ラベルの風化したオロナミンⅭが落ちていたり



リポビタンⅮが落ちていたり



また道は植林の間隔からそこを「道」と判断し進むべき区間もあったりするが




野根山街道と同格の「道」が存在



昭和の時代、ここは地元の多くの人々の知る場所だったのかもしれない



ネットが張られているが、それはほんのこの辺りだけ


軽く迂回すると道はその先に繋がっている



しかし正確な情報がない状況下では深入りは危険な、そんな場所である

具同寺は「場所」なのか「地域」なのか・・・・・

段ノ谷から具同寺分岐に進む次期作戦の発動を満たす条件が揃うまでは、まだ少々時間が掛かりそうだ。



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峠に戻り、次の目的地に向かう

それは別役にある「池」だ


しかしそれは


実は「池」ではなく、またこの農業に利用する水源施設でもなく、地元の業社が砕石を掘削した跡との事だった。

しかもそれは明治大正昭和の時代の話ではなく「平成」の時代に入っての話だそうで、

武漢肺炎全盛の5月末期に初対面同士の地元の方とのノーマスクの会話が成立してしまった。

そしてまた、この掘削跡は雨が降れば半分ほど水が溜まるが決して満水になる事はなく、すぐに水が引くそうで、そのある地域の業者の作業跡が地形としてネットの地図に反映されているという事は、現在のネットの地理院地図のベースが平成初期に作られたという事、そして当時の地図の作成過程の一面を物語っている。


また道として記載されている線も、このような川底にコンクリを敷いた場所であったりして


ネットの地理院地図をそのまま鵜呑みにして行動すると予想外の展開になってしまう事も多いが、

だからこそお宝に辿り着く重要な記載であったりもする訳である。





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また明治昭和の時代の地理院地図によると街道は四郎ケ野峠ではなく、この別役を通っているが、





それがその後の昭和の時代から四郎ケ野峠を通る事になっている。

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「野根山街道」、そこは定期的に「お殿様御一行」がお通りになられた道。

それ故、そこには多くの必需品が揃えられ、そろを支える物流が存在し、当然そこにはそれに携わる人々がいて、「仕事」があり「給料」が発生し、人々の「安定した」、そして「豊かな生活」があった。

野根山街道①米ヶ丘から進む

2020-05-11 03:03:56 | 野根山街道
いつかは歩いてみたいと思っていた「野根山街道」。
しかし一泊二日で誰かと予定を合わせてキャンプとなると、なかなか予定を立てれそうな見通しすら無い。

そこで街道の途中にある米ヶ丘の分校跡から時間を決めて往復してみる事にした。
【奈半利小学校米ヶ丘分校】
http://shgogo65006854.livedoor.blog/archives/2809678.html


6時に出発出来ればもしかして12時に四郎ケ野峠に着けると思っていたが


結局、スタートは7時20分になってしまった。


しかし逆にそれで良かった・・・・・

もしに6時に出発してしまっていれば、本当に6時間後に四郎ケ野峠に到着してしまっていて、そのテンション高めの達成感と共に復路につくものの、実は想像以上に体力を消費してしまっていて、とても同じ時間で帰りつけるものではなかったから。


ここから岩佐の関所までは10キロ


道の状態は良い!!

しかしそれは平坦な部分のみで坂道は損傷が進み石がゴロゴロ状態。

「街道」と言えどジョギングシューズは厳しいというか危険かもしれない。


30分もしないうちに林道と交差


二里塚(一里は約3.93キロ)



あのでっかい杉のとこまで3.6キロ


500mが体感より長く感じる山道


その歴史1300年以上



実はこの宿屋杉の話を聞いて、かれこれ20年。

いつかは絶対に行きたいと思っていた。

そして、それが日時を決め練り上げた計画ではなく、突然それを思い立った日に実現できるとは思ってもいなかった。

しかし今までそれを妨げていたものは街道に行くための時間や仕事の都合ではなく、ただ単に「テントを持って一泊二日で行く場所」という先入観であった。

疑いもなく受け入れていた大前提は決して真実という訳ではない!!



遂に到着


でも、先は長い




どうやら林道と並走しているようだ




そして再び林道に交差。ここから少し米ヶ丘よりに宿屋杉はある。
早い話が、ここまで車で来れば誰でも行ける場所になってしまった。



当時は田野を出て、その日に野根に到着していた



実は復路に登ろうと思っていたが、その時はもう体力も気力も残っていなかった。




加奈木の崩


当時は見晴らしもよかった事だろう・・・



10時28分


歩いた街道内に現存する唯一の橋を渡り

米ヶ丘分校から3時間10分程で到着


岩佐関所


ここまで10キロ



アジアの明治維新とヨーロッパのフランス革命は全く別物である。


フランス革命の「国民主権」の思想は「専制君主」に対する「革命思想」で、結果として多くの血が流れた。
「無血」と言われる明治維新ではあるが、それは今は名もなき「国士」達の「情熱の記憶」でもある。



当時はここに関所があり街道を利用する多くの人々で賑わっていた


集落跡と全く同じ構図であるが、当時の集落がそうであったように、ここもそのような場所であった。

参勤交代は大変な事だった、とか、地方の大名が幕府に反逆してくるのを防ぐために参勤交代で疲弊、浪費させた、、なんて教科書で教えているが、全くの嘘である。

参勤交代があったから街道沿いの街が栄え、経済が潤い、産業が発展した。

この街道の開発整備に携わる人々がいて、それを支える仕事をする人々がいて、そしてそこを定期的にお殿様御一行様が歩き、休憩したり、食事をして、お泊りになる訳だから、言わばそれに直接携わる人々には安定した仕事と収入があった訳である。
当然それは間接的に携わる人々にも波及し地域の活力が漲っていくのであった。

そして各地方の話、江戸を始めとする中央の話、世界情勢を含む最新情報が参勤交代によって街道から日本各地に伝達される。しかも日本の識字率は世界屈指のものであった。

そして我が国は明治維新以降の世界の舞台でその中心的な役割を果たすのである。



先に進む。12時20分までに四郎ケ野峠に着けるだろうか・・・・


もしかして田野小学校の児童が遠足で!!


そうだとすると、この先の路の状態は、良かったりして、、


なんて期待するが、状況は変わらない


段ノ谷への道、これは興味がある。



五里塚









そして米ヶ丘分校出発から5時間後の12時20分。
16.1キロ歩き、四郎ケ野峠にあと2.7キロの地点。


あと1時間もせずにアスファルト道との接続点に着けるだろうが、ここで「反転」、「帰路」につく。

そしてこの判断は「正しかった」!!


何故なら想像以上に体力を消耗していて、もしここから調子に乗って峠に到着していたとしても、復路は決して6時間では帰れなかったからだ。



600㎜のペットボトルはあとほんの少し。
今回はちょっと無計画な部分が多すぎた。


関所まで2.5キロ
かなりペースが落ちている
それでも、もう一本買っておけば全然違っていた。

帰り道、視界に入る「具同寺」の文字が気になる!!
この先にお寺があるそうだ!!!
もうその「道」すら認識できない状態であるが、ここに「具同寺に至る」と記した方の思いや気持ちは、私が受け継いだ!!
道があれば行ってみたいが、道が無ければ、尚更行ってみたいぜ!!!

が、もうこの時はその気力も体力もなく・・・・・



見晴らしと日当たりの良い場所に着く!!


熊笹峠で休憩

思えば往復の時間を意識しすぎて、関所で5分程簡単な食事をしただけで全く休んでいない。
集落跡、軌道跡では各所に綺麗な水の流れる沢があったがここには無い。

それでもベンチに横になって少し寝ると回復!!

なんとか6時に米ヶ丘に到着!!

あのまま調子に乗って四郎ケ野峠に行っていれば大変な事になっていた。

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白石神社から関所に向かう道は一部昔の石垣が残された道であったと思っていたが


実は導水路跡



昔はここを山からの水が流れ耕作地を潤し、米ヶ丘を米ヶ丘たる姿にしていた。


現在は、当時の石と赤土と漆喰で作られていた水路は、経路を少し変え、ちょっと東によっている



その下にあるこの池の水もこの導水路からの水である



そしてこの米ヶ丘は江戸時代に開拓された場所


現在の10m単位の等高線が表記された地図を持つ我々には、この場所が耕作地に適した場所であるという事を、「事後」に理解し把握し納得している。

しかし当然 ここは最初からこの様な風景の広がる場所ではなく、当時はその地図もなくただ人里離れた場所。

しかもどんなに土地が確保できても「水脈」が無ければその場所に描く耕作地は機能しない。

この付近の所謂「山頂」は、ここから北北東に1キロ程の場所で、高低差は80m程。
地形的には、耕作地にする平地を確保出来たとしても、そこに供給する水源は決して容易に確保できる場所ではないと思われる。

そこを開拓、開発し、現在の米ヶ丘、「お米」の丘に至る訳である。

そしてその大胆な発想は、ただの思い付きや偶然ではなく、自らの体験や経験、歴史的な根拠を持つ揺るぎのない自信を伴ったものだったはずだ!!



この美しい水田がそれを物語っている。



当時の構造であるが、現在もその役目を十分に果たしている!!

絶対的な性能としては、現在のそれを凌ぐものかもしれない。

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あと僅かで「米ヶ丘」-「四郎ケ野峠」往復は達成できなかったものの、その価値は十二分にあった。

それは一言で表現できるものではないが、ただ一つ言える事がある。

それは、過去、現在を含め、この野根山街道を歩いた人々には共有できる価値観であるという事。

そしてそれは、現在における価値観ではなく、時代を超えて日本人が共有できる価値観であるという事。



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昭和40年代生まれの私には懐かしい高校での「練歩会」

どうやら最近それが反対意見によって中止になりつつあるらしい。

いやもしかして既に、という状況かもしれない。

でもこの「野根山街道」が遠足の行き場所になったら面白い事になると思う。

何故ならここは戦後の自虐史観を洗浄出来る場所であるから。

朝、奈半利を出発し、関所でお昼、四郎ケ野峠を越え夕方前には野根に到着、が十分に可能である。

そしてそこは我々の長い歴史の中では、特に問題の無く、普通に一日で歩いていた道なのである。