皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

吾川村 仁淀高等学校・中学校

2019-07-11 14:37:05 | 吾川村の学校

吾川村 仁淀高等学校・中学校

2016/8/25(木) 午前 11:36


33号線からも見える学校跡。


校庭には建設業者のプレハブがある。


この風景は毎年変わっていく事だろう。


学校の石碑


昭和23年から平成23年までの63年間の歴史。卒業生2106名。






小道を挟んで中学校跡がある。






昭和24年から、昭和51年までの歴史



前が高校!!


坂を上り国道33号線沿。バス停と、学校とその運命を共にした地元の店がある。




こう見ると、小学校の歴史というものは「深い」。

明治5年の学制以前の、その地域の教育基盤にまで遡る事が出来る。

吾川村 長淵小学校

2019-07-11 14:36:04 | 吾川村の学校

吾川村 長淵小学校


2016/8/25(木) 午後 0:38



廃校になり寂れているらしいとの事だったが・・・・

(廃校、その後の長淵小学校)


なんと車が集まっている


建物には電気がついている。


地元の方に話を聞くと、マッシュルームの栽培をしているとの事。




学校の歴史


明治 初年  森山小学校開校

明治15年頃 森山小学校より分かれ鷲ノ巣小学校

明治42年  鷲ノ巣、森山、両尋常小学校を統合し、名野川第二尋常小学校

昭和30年  町村合併により吾川村立長淵小学校

昭和31年  ミルク給食を開始

昭和32年  父兄の給食用材料拠出、交替調理による全国的にも

       ユニークな完全給食を開始した。

昭和49年  大渡ダム建設に伴う水没のため移転。

       冷暖房付き鉄筋2階建て、503㎡、工費3340万円。

       プール完成

昭和55年  児童減により休校。


・長淵小学校の児童数の推移

昭和55年 5人  昭和50年 9人   昭和45年 50人

昭和40年 81人 昭和35年 101人 昭和30年 104人

昭和25年 139人 昭和20年 160人


【そして森山地区に】

なんと、プールがある。


グラウンドにしては新し過ぎる気もするが学校跡地の雰囲気に近いものがある。



森山の公民館



学校跡地の条件は揃っているので、地元の方に確認してみたが、これは学校跡地ではなく、地元の公民館で、プールも地域が地元の子供達のために作ったものだとの事。




でもこれは明治15年頃開校し、明治42年に名野川第二尋常小学校に統合された、森山尋常小学校跡に違いない!!!

小学校が建つ場所は、その地域の中でも特に安全で条件の良い場所。

そして廃校になったのが明治42年だとしても、その後その場所に運動場が出来たり、公民館が出来たり、昭和の時代に入ると子供達のためにプールが作られるのも自然な話だ。




さすがに地元の方も明治42年(1909年)の話は100年以上昔の話なので知らなかったのでは、と思う。




【橘地区】


長淵小学校の校区で、国道からは見えないし、気になるので行ってみた。


急な山道を登り、寂しい一本道の奥には、地図の表記通りの集落があった。


車の往来もあり、地元の方の生活の息吹も伝わってくるのだが、子供達の声が全く聞こえない・・・・・。

吾川村・上名野川小学校

2019-07-11 14:34:16 | 吾川村の学校

吾川村・上名野川小学校


2016/10/9(日) 午後 0:39



学校の歴史

明治18年以降の開設

明治20年6月30日 下名野川簡易小学校

明治24年8月30日 下名野川尋常小学校

明治42年 奥名野川、下名野川、両尋常小学校を統合し名野川第一尋常小学校

昭和13年 第一尋常小学校の移転の位置に伴う反対があり、奥名野川字スヤザキ617番地に郷立小学校を開設

平成 5年 下名野川小学校に統合


現在h明神ランドとなっているが・・・・


学校前の橋



中津嶺望橋


昭和38年。それ以前は「吊り橋」だったかも!!


校舎完成の石碑


卒業生の作品




児童数


児童数が昭和26年からの記載になっているのは、明治42年に奥名野川、下名野川、が統合され名野川第一尋常小学校となり、昭和13年に学校の移転の場所に反対があり、郷小学校が設立された関係からだと思う。

そして、その郷小学校が上名野川小学校になったのではと思う・・!!






吾川村・下名野川小学校

2019-07-11 14:33:13 | 吾川村の学校

吾川村・下名野川小学校


2016/10/9(日) 午後 1:00



学校の歴史

明治初期 下名野川タシロ141番地に第三大学区第45中学区31番下名野川小学校

明治20年6月30日 下名野川簡易小学校

明治24年8月30日 下名野川尋常小学校

平成 5年 上名野川小学校を統合

平成14年 名野川小学校に統合

全景


バス停はまだ「学校前」のまま。



現在は「山村自然楽校しもなの郷」として稼働中!!



児童数





昭和10年から終戦頃まで、児童数が激変している。




上名野川の郷学校との関連があるのだろうか??




もうちょっと深い事情があったのだろう。


吾川村・名野川小学校

2019-07-11 14:32:17 | 吾川村の学校

吾川村・名野川小学校

2016/10/9(日) 午後 2:07


学校の歴史

明治18年 下名野川小学校の名野川分校として開設

      同時期に下北川小学校、峠ノ越小学校が開設

明治20年 独立し名野川簡易小学校

明治24年 名野川尋常小学校

平成14年 下名野川小学校を統合

平成24年 閉校、生徒は旧仁淀村の別府小学校に転校

この名野川小学校は中津渓谷の集落の風景に溶け込んでいる。


私が国道から見えるこの建物が小学校という事を意識し始めたのは最近の話!!



道路は高度を上げ、すぐに学校の裏手のこの高さまでになる。




学校の石碑



卒業生2,553名




この100年を超す歴史を持つ学校の敷地を支え続けてきた岩盤が、遂に閉校後に、一部崩壊し始めたのか??と思ったが・・



どうやら道路を拡張しているらしい!

この奥でも拡張工事が始められていた。


児童数の推移






名野川小学校が平成24年に閉校になり、一時は500名を超す児童の在籍していた大崎小学校も平成26年に閉校になり、遂にこの旧吾川村地域には小学校がなくなってしまった。


昭和22年 国民学校から小学校に名前が変わったとき、この旧吾川村地域には8つの小学校があり、1,391名の児童がいた。

昭和40年、今から約半世紀前、小学校の数はそのままで、752人の児童がいた。

現在この地域(旧吾川村)の小学生は(名野川は別役小学校)池川小学校に通っているが、はたしてこの人数の中に、旧吾川村の児童は一体何人なのだろうか??