吾川村・宗津分校 遅越小学校
2016/9/23(金) 午前 0:01
と言っても、明治24年9月21日に大崎尋常小学校が始まる以前に存在した学校。
大崎小学校の歴史は、明治9年の大藪小学校、遅越小学校、葛原小学校、本村小学校の開設にまで遡る。
当時の学校と校区。
大崎尋常小学校創立までの流れ。
そして吾川村史に記されている、それぞれの小学校の番地をもとに周辺付近を調査してみた。
まずは葛原小学校の葛原467番地。
この番地は既に住宅地図では確認できない。まあ、法務局に行って公図と謄本をとれば分かる事もあるだろうが、やはり現地に行ってみるのが一番だ。
・葛原付近
もはや民家の跡さえ無いがお茶の畑と水田で昔ながらの田園風景は当時のままだろうか。
大崎の集落を見下ろすその奥に遅越の集落が見える。
もう学校の場所は分からないが、一つだけはっきり言える事がある。
それは当時、葛原小学校から遅越小学校が、遅越小学校からも葛原小学校が見えていたという事だ。
そして大崎に方面に少し下ると、神社があり、ヘリポートがあった。
もしかして、民家の無くなったこの葛原の集会所がヘリポートになったのかも!と推測できる。そしてそれ以前の集落の人々のための場所で土地であったとしたら、明治初期に、ここに葛原小学校があったとしてもおかしくない話だ。
あらららら、、、これでは遅越小学校が見えないではないか・・・・
・川井小学校
大崎簡易小学校が火災で焼失した後の移転先、川井59-2番地。
これも住宅地図では確認できない。
もしかして現在川井集会所があるこの場所が道路が拡張されアスファルトが敷かれる以前に大崎簡易小学校のあった場所かもしれない。
・大藪小学校
大藪1005番地も住宅地図では確認できない。(1003番地はあったけど)
でもこの当時この風景の中に大藪小学校があったと推測できる。
ポストはあるが、地元の方が見当たらない・・・
そして今度こそ、確実に言える。
当時、大藪小学校から本村小学校、田村簡易小学校を見下ろせ、川を挟んだ山の上に宗津分校が見え、宗津分校からも、本村小学校からも、田村簡易小学校からも、大藪小学校が見えていたという事を!!!
・長屋簡易小学校・(大崎尋常小学校 長屋分校)
長屋237-1番地、これも住宅地図では確認できない。
今までの例でいけば、この長屋集会所が学校跡地の第一候補地に挙がってくる。
・本村小学校(本村108番地)、田村簡易小学校(田村643番地)
本村109番地は川沿いの施設の隣だが、
本村の集会場はそこより標高の高い場所にある。
↑↑川沿いの本村 ↑↑↑その上も本村 →→田村
当時は山間部にも多くの民家が存在していた訳で、現在の公の場所であるこの集会所が以前に地域の小学校があった場所と考える事も出来る。
で、田村647番地の田村簡易小学校跡は全く分からず・・・
・宗津分校
が、しかし、吾川村史に記されている宗津分校の宗津396番地は確認できた。
もう少し拡大
ここだ
この石柱のある民家が宗津396番地になる
が、しかし
その隣に宗津集会場が・・・
もしかして、こちらが宗津分校跡かもしれない。
きっとそういに違いない。
地元の方に話を聞きたかったが、その地元の方がいない・・・
・引地小学校
吾川村史に記されている引地小学校の引地192番地も住宅地図では確認出来ない。
もしかしてあの国道沿いの休憩所が学校跡かも、なんて思っていたのだが・・・・
しかし190番地は住宅地図で確認出来る。
そしてここで地元の方に話を聞く事が出来た。
100年以上昔の小学校の話。日露戦争以前の話。お隣の中華人民共和国が満州人が漢民族、チベット、モンゴル、ウイグルを支配していた清朝だった時代、ちょうどハワイがアメリカに侵略されアメリカになってしまった頃の話。
自分の父親より年上の地元の方に「あんた今頃何言ってんの・・・???」
と言われると思っていたが、一気に5名程の地元の方が集まってくれた。
結局、お父様が明治32年生まれだと言われていた地元の方でさえ、その話は知らないとの事でしたが、おかげで遅越の話、そして遅越山の上に「関所跡」があるという貴重な話を頂いてきた。
そしてこの引地小学校も神社の隣の、この集会所が跡地かもしれない。
すぐ隣が190番地だし。
・遅越小学校
そして、吾川村史に記されている遅越小学校の遅越130番地は住宅地図で確認出来た。
この日は名野川方面からアプローチ!
全くどこを走っているか目印もないまま峠の大平神社に到着し、場所の確認が出来た。
そしてこの神社のある峠が、昔の大崎村と名野川村の境界だとの事。
そして遅越130番地が見えてきた。
この石垣の上の民家が遅越130番地。なるほど小学校があったのも頷ける!!!
そして敷地には石碑があるではないか!!!!
もしかして明治時代の遅越小学校時代の石碑、、かと思えば
遅越の庄屋跡との事
家の方がおられたので話を聞く事に。
で、ここは確かに遅越130番地で、遅越の庄屋跡であり小学校跡ではないとの事。
そして小学校跡は、すぐ下の防火水槽の奥の遅越の集会場だと教えて頂いた。
庄屋跡から下り
集会場だ!
この集会場は学校以前はお寺で、この集会場の中に当時のお寺だった頃の資料も残されているとの事。
つまり明治以前、江戸の時代の話だ!
遅越の関所の事もあるし、再訪すべき地区である。
そしてまた、ここから葛原がどのように見えるかも確認してみたい!!!