皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

吾川村・久喜小学校

2019-07-11 14:30:53 | 吾川村の学校

吾川村・久喜小学校

2016/9/20(火) 午後 5:16



学校の歴史

明治 7年 第三大学区第45中学区第126小学区・山腰学舎として設立

      男子教員1名 男子18名 女子1名

      授業料は月、1円45銭8厘(文部省 第二年報 明治7年)

明治 8年 久喜小学校と改称、旧民家(庄屋宅)を借用

      男子38名、女子1名 授業料有り

      初代教員は、日浦盤夫さん、(加枝小学校は日浦正明さん)

明治20年 7月、久喜簡易小学校と改称

明治22年 4月25日 校舎改築6月12日に落成

明治25年 4月久喜尋常小学校となる

明治41年 別府第二尋常小学校と改称(加枝小は別府第一)

明治43年 二学級編成となる

大正10年 二月、校舎改築、落成

昭和41年 大崎小学校に統合

半世紀前に廃校になった久喜小学校の校庭で子供たちが遊んでいる。


いいことだ!!


これは昭和62年の吾川村の住宅地図

ご丁寧に20年前に廃校になったこの久喜小学校跡地の記入がある。

(加枝小学校跡地に記入もありました!!!)


これは吾川村史の久喜小学校の写真

現地を通った事のある人にしかわからないが、この道は当時のまま!!


久喜小学校の児童数の推移


昭和20年には96人の児童の通う小学校だった!!


久喜には33号線の相能から、スターウォーズに出てきそうな風景の中にある沈下橋を渡って来るのが一番早い。




そして山道を駆け上がって到着した久喜の集落の風景に、初めて訪問する人は間違いなく「いいね!」をする事だろう。




・・・が、問題が一つある!!




なんなんだこの看板は

外国語を使用するのであれば英語だけでいい。


「パクリ」という言葉があるが、

あれは「朴さん」と「李さん」が常習犯であるがために出来てしまった言葉。

そんな「朴さん」「李さん」の祖国の言葉など、この日本に不要だ。




いやいや、あれは言葉ではなくただの「発音記号」ですから!!




そしていつの間にか「漢字」を使わなくなった、使えなくなった彼らは漢字を読む事が出来なくなり、漢字で書かれている正確な歴史を知る事が出来なくなり、さらに韓国政府が最近作った嘘の歴史を教えられ、もう国家レベルでも、個人レベルでも、ど~しようもない状態になってしまっているのだ。

吾川村・吾川中学校

2019-07-11 14:29:09 | 吾川村の学校

吾川村・吾川中学校

2016/9/14(水) 午後 11:32



国道33号線から橋を渡り加枝小学校に向かうと、対岸に川沿いに建つ観光ホテルのような建物がある。そこが吾川中学校跡。

開校時の昭和51年には7クラス、226名の生徒が在籍していた。


この校門は当時のまま。


今は森林組合になっている。




石碑



石碑



学校の歴史




昭和51年4月1日、村立大崎中学校と組合立仁淀中学校の吾川村の生徒をもって、吾川中学校として発足。

4月1日から7月31日(校舎が完成するまで)は旧大崎中学校の校舎を仮校舎として授業を行う。




平成25年 池川中学校に統合、廃校となる。




吾川中学校の生徒数の推移



開校時226名の生徒、昭和61年に174名の生徒が在籍していた中学校が30年後に廃校になるとは・・・

しかも、平成26年には大崎小学校も廃校になり、旧吾川村には学校が無い状態になってしまった。







そしてその前身の大崎中学校は、昭和22年、大崎青年学校、大崎小学校の一部を利用し発足。

昭和23年11月20日、大崎字椎木畝214番地で起工式。

現在新しい役所を建設しているこの場所だ。


奥に見えるのが大崎小学校






そして昭和25年10月29日落成!!

昭和31年11月28日 学校図書館開館

昭和43年4月15日 完全給食を開始


大崎中学校の生徒数の推移





一方、組合立仁淀中学校は、昭和22年名野川小学校の一部を利用して開校した名野川中学校と、仁淀村の(仁淀村は昭和29年、長者村と別府村が合併して発足)、森小学校の一部を利用して開校した森中学校が昭和24年12月26日に合併統合し、大渡452番地に開校。

仁淀中学校

http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34871542.html

森小学校

http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34871528.html




昭和25年4月 上名野川地区通学生のために名野川に民家を借り寄宿舎を設置。




昭和37年 寄宿舎男子寮設置 女子寮別棟に移転




昭和41年 寄宿舎を改築落成




昭和42年 1月10日完全給食を開始

     (寮があったためだろうか、周りの小学校より一足先に給食を開始している。因みに私の中学校時代は昭和50年代後半だが給食ではなく弁当だった・・)




昭和47年 吾川村村営バスを運行しバス通学が始まる。




仁淀中学校の生徒数の推移


イメージ 12





昭和51年3月21日 吾川、仁淀の両村は学校の通学、規模による整備された教育環境の必要性を痛感、それぞれの村内の中学校を一校に統合する目的をもって閉校することとなり閉校式を挙行。

(吾川村史より引用、抜粋)




でもまあ、大崎中学校は昭和30年に375人、閉校前の50年でも130人、組合立仁淀中学校も昭和25年で291人、閉校前の50年で98人在籍していた訳で、過疎化による生徒数減少が原因というより時代の流れというやつだろうか・・・




そして昭和51年、仁淀村では別枝中学校、泉川中学校、長者中学校、組合立仁淀中学校の仁淀村の生徒で、仁淀村の川渡小学校の場所に仁淀中学校が開設され、吾川村では、大崎中学校と組合立仁淀中学校の吾川村の生徒で、吾川中学校が開設される。




そしてその40年後、国道33号線沿いの大崎小学校、吾川中学校は廃校になり、旧吾川村の小中学校は存在しない状態になり、一方国道、酷道439号線の走る旧仁淀村の別府小学校、長者小学校、仁淀中学校が現在も存続しているのは、やはり鳥形山のおかげなのだろうか。




そしてさらに肩書が佐川ー長者線であるが、実際は繋がっていない県道302号線。

あれは小日浦の人々が当時農業が盛んだったために村のど真ん中に県道を通す事に大反対し、反対運動に勝利してしまったために、かえってその後の人の流れが悪くなり、その事で逆に過疎化に拍車を掛けてしまったという話。

もしかして、小日浦の人々が県道建設を受け入れていれば、またその後の状況も大きく変わっていた事だろう。



それにしても組合立仁淀中学校は、あの中津川温泉の名野川に寄宿舎があり、そこから通学していたとは。

名野川小学校も廃校になっとはいえ、あの中津川温泉の名野川は今でもその季節になれば多くに人で賑わう観光地。

引地橋も高速道路が完成するまでは高知ー松山の中間地点として賑わっていた場所。

それが、それ以前の昭和40年代、30年代、20年代となると、今では想像もつかない程賑やかな場所だった訳で。


そんな場所に寄宿舎、寮があり、そこから中学校に通っていたとは・・

なんだかとっても羨ましい気もするんだが!!!

吾川村・宗津分校 遅越小学校

2019-07-11 14:27:30 | 吾川村の学校

吾川村・宗津分校 遅越小学校


2016/9/23(金) 午前 0:01

と言っても、明治24年9月21日に大崎尋常小学校が始まる以前に存在した学校。


大崎小学校の歴史は、明治9年の大藪小学校、遅越小学校、葛原小学校、本村小学校の開設にまで遡る。

当時の学校と校区。




大崎尋常小学校創立までの流れ。





そして吾川村史に記されている、それぞれの小学校の番地をもとに周辺付近を調査してみた。


まずは葛原小学校の葛原467番地。

この番地は既に住宅地図では確認できない。まあ、法務局に行って公図と謄本をとれば分かる事もあるだろうが、やはり現地に行ってみるのが一番だ。

・葛原付近


もはや民家の跡さえ無いがお茶の畑と水田で昔ながらの田園風景は当時のままだろうか。


大崎の集落を見下ろすその奥に遅越の集落が見える。




もう学校の場所は分からないが、一つだけはっきり言える事がある。




それは当時、葛原小学校から遅越小学校が、遅越小学校からも葛原小学校が見えていたという事だ。




そして大崎に方面に少し下ると、神社があり、ヘリポートがあった。

もしかして、民家の無くなったこの葛原の集会所がヘリポートになったのかも!と推測できる。そしてそれ以前の集落の人々のための場所で土地であったとしたら、明治初期に、ここに葛原小学校があったとしてもおかしくない話だ。


あらららら、、、これでは遅越小学校が見えないではないか・・・・







・川井小学校

大崎簡易小学校が火災で焼失した後の移転先、川井59-2番地。

これも住宅地図では確認できない。

もしかして現在川井集会所があるこの場所が道路が拡張されアスファルトが敷かれる以前に大崎簡易小学校のあった場所かもしれない。



・大藪小学校

大藪1005番地も住宅地図では確認できない。(1003番地はあったけど)




でもこの当時この風景の中に大藪小学校があったと推測できる。


ポストはあるが、地元の方が見当たらない・・・


そして今度こそ、確実に言える。

当時、大藪小学校から本村小学校、田村簡易小学校を見下ろせ、川を挟んだ山の上に宗津分校が見え、宗津分校からも、本村小学校からも、田村簡易小学校からも、大藪小学校が見えていたという事を!!!


・長屋簡易小学校・(大崎尋常小学校 長屋分校)




長屋237-1番地、これも住宅地図では確認できない。


今までの例でいけば、この長屋集会所が学校跡地の第一候補地に挙がってくる。



・本村小学校(本村108番地)、田村簡易小学校(田村643番地)



本村109番地は川沿いの施設の隣だが、


本村の集会場はそこより標高の高い場所にある。


↑↑川沿いの本村   ↑↑↑その上も本村  →→田村
当時は山間部にも多くの民家が存在していた訳で、現在の公の場所であるこの集会所が以前に地域の小学校があった場所と考える事も出来る。



で、田村647番地の田村簡易小学校跡は全く分からず・・・



・宗津分校




が、しかし、吾川村史に記されている宗津分校の宗津396番地は確認できた。



もう少し拡大




ここだ




この石柱のある民家が宗津396番地になる


が、しかし

その隣に宗津集会場が・・・


もしかして、こちらが宗津分校跡かもしれない。


きっとそういに違いない。




地元の方に話を聞きたかったが、その地元の方がいない・・・





・引地小学校




吾川村史に記されている引地小学校の引地192番地も住宅地図では確認出来ない。

もしかしてあの国道沿いの休憩所が学校跡かも、なんて思っていたのだが・・・・

しかし190番地は住宅地図で確認出来る。



そしてここで地元の方に話を聞く事が出来た。




100年以上昔の小学校の話。日露戦争以前の話。お隣の中華人民共和国が満州人が漢民族、チベット、モンゴル、ウイグルを支配していた清朝だった時代、ちょうどハワイがアメリカに侵略されアメリカになってしまった頃の話。




自分の父親より年上の地元の方に「あんた今頃何言ってんの・・・???」




と言われると思っていたが、一気に5名程の地元の方が集まってくれた。

結局、お父様が明治32年生まれだと言われていた地元の方でさえ、その話は知らないとの事でしたが、おかげで遅越の話、そして遅越山の上に「関所跡」があるという貴重な話を頂いてきた。




そしてこの引地小学校も神社の隣の、この集会所が跡地かもしれない。

すぐ隣が190番地だし。







・遅越小学校




そして、吾川村史に記されている遅越小学校の遅越130番地は住宅地図で確認出来た。



この日は名野川方面からアプローチ!


全くどこを走っているか目印もないまま峠の大平神社に到着し、場所の確認が出来た。




そしてこの神社のある峠が、昔の大崎村と名野川村の境界だとの事。




そして遅越130番地が見えてきた。



この石垣の上の民家が遅越130番地。なるほど小学校があったのも頷ける!!!


そして敷地には石碑があるではないか!!!!

もしかして明治時代の遅越小学校時代の石碑、、かと思えば

遅越の庄屋跡との事


家の方がおられたので話を聞く事に。

で、ここは確かに遅越130番地で、遅越の庄屋跡であり小学校跡ではないとの事。

そして小学校跡は、すぐ下の防火水槽の奥の遅越の集会場だと教えて頂いた。

庄屋跡から下り


集会場だ!







この集会場は学校以前はお寺で、この集会場の中に当時のお寺だった頃の資料も残されているとの事。

つまり明治以前、江戸の時代の話だ!



遅越の関所の事もあるし、再訪すべき地区である。



そしてまた、ここから葛原がどのように見えるかも確認してみたい!!!





吾川村・大崎小学校

2019-07-11 14:26:19 | 吾川村の学校

吾川村・大崎小学校


2016/9/20(火) 午後 10:58



大崎小学校も平成26年度に池川小学校に統合され、旧吾川村には小学校が存在しな状態になってしまった。


そして、大崎小学校の隣には新しい役場が建設中である。


もしかしてこれが完成すると


この国道沿いの繁華街に活気が戻り


このふれあい広場にも活気が戻り、もしかして大崎小学校が復活するのでは、と期待したりもする!!!



大崎小学校の児童数の推移


昭和10年には500名を超す児童


昭和60年にも150名を超す児童の在籍していた小学校だ。



この小学校の歴史は明治9年の、大藪小学校、遅越小学校、葛原小学校、本村小学校の開設から始まる。


大体の場所と校区はこんな感じ



そして明治33年の大崎尋常小学校開設までの流れはこんな感じ




こうなってくると気になってくるのが、明治9年に開設された4つの小学校の場所と、それに伴い設立された簡易小学校、分校の位置!!


もう100年以上も昔の事になるので、現在当時の事を知っている人さえいない訳で、

大藪小学校(現在の桜)は1005番地に対して1003番地

本村小学校は108番地に対して109番地


葛原小学校と長屋簡易小学校は、それに近い番地が見当たらず



引地簡易小学校は、「引地192番地」付近がこんか感じで



川井は現在の大崎の事らしいから32番地は推測できる




そして遅越小学校と宗津分校の地番は確認出来た!!!




では遅越小学校と宗津分校のあった場所に行ってみよう!!

吾川村・加枝小学校

2019-07-11 14:25:10 | 吾川村の学校

吾川村・加枝小学校


2016/9/13(火) 午後 11:03


学校の歴史


明治 7年 第三大学区第45中学区127小学区の新学舎として創設。

      加枝字カミクボに間口四間・奥行二間半の校舎を建設。

      男子教員一名、男子児童9名、授業料・月・1円58銭

      初代教員は、日浦正明さん。

      (お隣の久喜小学校も明治7年に開校。初代教員は日浦盤夫さん

      授業料は・月・1円45銭8厘

      珍しく、校舎を新築して創設された学校になる。)


明治 8年 加枝小学校と改称・児童数18名

明治20年 加枝簡易小学校と改称

     (簡易小学校とは1日の授業が2~3時間の学校で小学校とは

      少し違っていたらしい。)

明治25年 加枝字井ノ谷880番地に間口7間、奥行4間の校舎を新築移転

明治41年 別府第一尋常小学校と改称・(お隣の久喜小学校は別府第二)

明治44年 加枝字竹ノ内1235番地に校舎を新築

      校地175坪・校舎36坪・教室22坪・運動場85坪・実習地20坪

昭和41年 大崎小学校に統合、廃校




どうやらこの校舎は明治44年に建てられた36坪の校舎のようだ。



加枝地区に到着。すぐに学校があったらしき場所が見える。



多分ここだろう!!


きっとここに違いない!!


どう見ても学校があった場所に見える!!


集落が見渡せるこの場所が加枝小学校の跡地だと思う。

が、地元の方がいない・・


もしや、これは小学校のプールだろうか!!

加枝小学校が廃校になったのは昭和41年。だとすると、昭和30年代、もしくは20年代に作られた極めて珍しい小学校のプールという事になる。



そして、地元の方に話を伺う事が出来た。

その場所はやはり加枝小学校の跡地だった。

そして、これはプールではなく防火水槽との事。

しかし実際はプールのように使っていたとの事。



昭和41年に小学校が廃校になったこの加枝地区

パジェロが自然と一体化しようとしている。


加枝小学校の児童数の推移




明治45年 児童数60名・学級数2・教員数2名

廃校前の昭和40年 児童数24人・学級数3・教員数5名




明治23年頃の日本全国の小学校の数は、2万6千校ぐらい

教員数は6万2千人ぐらい。




そして、現在、日本全国には2万校程の小学校があり

教員数は40万人程である。