皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

大月町・小才角小学校

2019-07-11 23:27:32 | 大月町の学校

大月町・小才角小学校



2016/10/25(火) 午前 0:07



明治 6年 「小才角学舎」私立小学校として開校

平成 2年  現校舎落成

平成13年  姫ノ井小学校に統合


入り江があり、漁港があり、集落があり、神社があり、小学校があり、そんな歴史が100年以上続き、いやそれ以前からずーと、ずーと続いてきていた訳だったのが平成に入って遂にその形が完全に崩れてしまった・・・・


学校は集落の北側にある。



石碑  開校100周年記念



その裏側



校舎は平成2年に建てられたもの









校庭








大月町・月灘小学校

2019-07-11 23:26:42 | 大月町の学校

大月町・月灘小学校



2016/10/25(火) 午前 0:21



学校の歴史

明治 8年 才角小学校設立

昭和 4年 校舎全焼 神社等を仮校舎として授業

昭和11年 新校舎新築落成

昭和32年 町村合併 月灘村立から大月町立へ

昭和49年 現校舎完成

昭和60年 屋内運動場完成

平成20年 大月小学校に統合


この321号線沿いには沢山の小学校がある



そのほとんどの校庭にはこのような石碑がある。



石碑の裏側には学校の歴史が刻まれている!




これは開校80周年を記念したもの。







学校前のバス停は、現在の稼働している「月灘」郵便局前になっているが・・・




その裏側は、




川を渡って、小学校に行く児童専用の橋には









大月町・月灘中学校

2019-07-11 23:25:51 | 大月町の学校

大月町・月灘中学校


2016/10/25(火) 午前 0:32



学校の歴史



平成13年  大月中学校に統合


大月側から月灘方面に向かうと全く分からなかったが、反対側に戻るとトンネルの手前の巨大な校舎が見えてくる。



月灘中学校



まさか大月町でこれだけの規模の校舎を見るとは思ってもいなかった・・・




自分達が「体育館」と呼ぶ建物は、この界隈では「屋内運動場」と呼ぶらしい!!



今となっては児童、生徒の影さえ見当たらないこの界隈だが、

そう遠くない「昭和」の時代、この場所から「月灘中学校御一行様」と書かれた数台の大きな観光バスが出発し、日本各地に修学旅行に行っていたようだ!!!



大月町・樫西小学校

2019-07-11 23:25:04 | 大月町の学校

大月町・樫西小学校


2016/10/25(火) 午後 0:27





321号線から樫西海岸に向かう!!




学校だ!!!





樫西小学校だ!!!



校門



校舎


閉校の碑



その裏には学校の歴史が刻まれている



石碑には明治8年公立小学校開設とあるが、

「大月町史」には、明治6年「樫浦学舎」という私立学校から始まったという記載がある。

そしてそれはここだけではなく、お隣の姫ノ井では「姫ノ井学舎」、小才角では「小才角学舎」と、同じく明治6年に私立学校が開設され、後の公立学校に繋がっている。

当時から既にこの地域に教育の基盤がしっかりと成り立っていて、その土壌の上に公立小学校が創立されたという事だろう。

そしてその教育の基盤というものは、江戸、もしくはそれ以前の時代にまで遡れそうだ!!



渡り廊下



全景




道路を挟んで保育所がある



樫ノ浦の集落



と、樫ノ浦の漁港



と、美しい海岸線沿い



と、、、これ以降は現地で・・・・(笑)




大月町・姫ノ井小学校

2019-07-11 23:24:14 | 大月町の学校

大月町・姫ノ井小学校




2016/10/25(火) 午後 1:43


姫ノ井小学校は月灘中学校のトンネルを北に抜けるとすぐ見えてくる。



姫ノ井小学校


イメージ 3






校門



開校100年の記念碑




裏には学校の歴史が刻まれている


が、「大月町史」によると、この姫ノ井小学校の歴史は明治6年の私立学校「姫ノ井学舎」の開設にまで遡れる。

そしてそれは日本という国家が、組織的に国民に教育を施す「校舎」のある「学校」という概念の範囲においてでの話で、「教育」という概念においては、もっともっと、ずっとずっと昔に遡れる事になる。







屋内運動場には照明がついている



校庭



平成21年に大月町の11校あった小学校は、大月小学校の1校に統合された。




いやでも、柏島方面、月灘方面にそれぞれ1校ずつ存続させておいても良かったのではないか??なんて思ったりもするのだが・・・

だって、小学校がない地域に、これからの子育て世代の若い夫婦は積極的に住もうとしないだろうし。

過疎化が進み学校が休校、廃校になるのは分かるが、休校、廃校がさらなる過疎化、そして最終的に廃村への道を決定的なものにするという事も考えなくてはいけないと思う。

勿論それを十分に承知の上での統合だったはずなのだが!!!




明治23年、日本には約2万6千校の小学校があり、6万2千人程の教員がいたそうだ。

現在、平成28年。日本には約2万校の小学校があり、約40万人の教員がいるそうだ。




時代背景が全く違うから一概には言えないが、考えさせられる数字である。