皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

中村・名鹿分校(八束小学校)

2019-08-11 12:03:17 | 中村の学校

中村・名鹿分校(八束小学校)
カテゴリ高知県

2017/7/29(土) 午前 0:05


八束小学校名鹿分校

開設 昭和24年9月

統合 昭和46年3月

「中村市史」昭和44年には
児童数 男子16 女子20
学級数 2 教員数 2
とある。 )

統合先である八束小学校の歴史は

明治8年 間崎小学校、実崎小学校、山路小学校(それぞれ旧民家を使用)に始まる。

昭和12年 三校統合により八束尋常高等小学校が誕生する。

(旧)中村市というより、ほぼ土佐清水市みたいな場所にある名鹿に向かう。




素晴らしい海岸線


地元の方に場所を教えて頂き到着


教員住宅がまだ残っているとの事


ガスボンベもある


分校があったのは22年間

ここをリアルに「懐かし!!」と思う人は一体どれだけいるだろうか。


校庭は畑に


地元の神社もあり地域の歴史の長さは感じ取れるが

もしかしてここは「戦後の開拓団」の入植した地区かもしれない。




と、高知に帰ってきてから思った。




また機会があれば確認してみたい。


在りし日の名鹿分校


教員住宅跡は今でも現存している




昼ごはんは中村で「うどん」


某チェーン店より若干価格設定が高いが、内容、量はこちらが上手!!


こっちに来たら、うどんはここに決まりだ!!!






中村・田野川小学校

2019-08-11 12:02:21 | 中村の学校

中村・田野川小学校

カテゴリ高知県

2017/7/31(月) 午後 2:42


平成25年より休校


とは言っても全くの現役の小学校にしか見えない



人の出入りも多いようだ


ただ、校舎の前には新しい石碑が建てられてるように見えた




中村市・四万十市の他の休校中の小学校と同じように、休校の記念碑が建てられているのかもしれない。

あまりにも現役の小学校にしか見えず、実なにかの間違いだと思って、写真だけ撮ってきたが、やはりこの田野川小学校は休校との事だ・・・・


児童のいない休日の学校の風景にしか見ないのだが、、





焼却炉




現在、学校で排出さえる可燃ごみは全てゴミ収集車が持って行くが

昔は学校の敷地にある焼却炉で、児童、生徒が交代で焼いていた。


そうやって自然な形で「火を燃やす」という事に触れていたが、

現在の学校ではもそれが無くなってしまった。

それは授業の内容とは直接関係ないが、学校で学ぶ大きな経験の一つであった。




結果として、学校で「焼却炉で可燃ごみを燃やす」という経験を受けなくなった現在の児童、生徒達。

プールに飛び込んではいけません!!

ゴミは袋に入れて出しましょう!!

(ゴミに火をつけて燃やすのは止めましょう!!)






学校教育というものは、本来こういうものではなかったはずだ!!




これが既成事実化してしまう前に、本来の姿を取り戻さないといけない。



焼却炉でゴミを燃やしても全く問題なしやん。







しかも地元の子供達が学校の焼却炉で「ゴミを燃やす」という人生経験を受けている訳だし。

中村・明星中学校

2019-08-11 12:00:56 | 中村の学校

中村・明星中学校

カテゴリ高知県

2017/7/26(水) 午後 2:10


明星中学校の名前は南に明星ヶ森があるからだろうと思う。


郵便局の横が大川筋中学校

北の神社の横が明星中学校のあった場所

正確には明星中学校の一階は川登小学校で2階が明星中学校

そして昭和41年に中学校が新築移転して大川筋中学校となったで、

地図の北の学校は移転前の川登小学校という事になる。



・明星中学校の歴史(昭和41年~大川筋中学校)

昭和22年4月1日 大川筋村立明星中学校 青年学校併設

昭和23年2月24日 校舎落成、イウシ山3588番地 階下小学校 階上中学校

     3月31日  学制改革により青年学校閉校

昭和39年10月1日 明星中学校、勝間中学校、名目統合

昭和41年4月1日  実質統合 大川筋中学校と呼称

    4月20日  新校舎落成

昭和47年 川登小学校も、川登1030番地に新築移転

(大川筋中学校と川登小学校の学校の歴史より)

また川登小学校は明治41年、神のウシロ、現在の診療所の北隣に新築移転していた歴史があるので、また学校が元の場所付近に帰ってきたという事になるかもしれない。




明星中学校跡の隣の諏訪神社


まずは神社に参拝


石段



もう地元の方が訪れる事自体が稀な事になっているようだ。


それでも春にはいつもの桜吹雪の舞い散る季節がやってくる


境内の水道は利用可能


皇紀2602年=昭和17年>>越えられない高い壁>> 西暦1942年




もう一つは明治42年


学校跡





国旗掲揚台かな


違うみたい




隣に相方が倒れている



大きな校門の門柱だった


校庭




昭和50年頃の航空写真

もうこの時には明星中学校の場所から大川筋中学校も川登小学校も移転済みである


そして現在はバイパスが作られている


勝間までの道も、当時はこんなにクネクネ道だったのが




大型バスもスイスイと進んでいける道になった


明星中学校の巨大な校門跡





明星中学校の児童数は昭和36年度に114人で、当時一階が川登小学校(昭和29年までは大川筋村立第一小学校)だった訳だから、ここに児童生徒300名を超す大きな学校があった訳だ。


周辺の雰囲気からしてとても想像も付かないような事実ではあるのだが、

それは現在のように高知市内からスクーターで2時間少々で来れる時代の話ではなく、道も狭く、クネクネと曲がっていて、ここに来るのに半日は掛かり、パソコンも携帯電話もなく、やっと洗濯機が普及始めた頃の話である。

中村・勝間小学校

2019-08-11 11:59:52 | 中村の学校

中村・勝間小学校

カテゴリ高知県

2017/7/26(水) 午後 0:50

勝間橋


そしてそれ以前は「橋」は無かった。

昭和40年に橋が完成するまで「渡し舟」だったそうだ。

こちら側の「鵜ノ江」地区の一部が、昔はこの勝間小学校ではなく山を越えた東側の鴨川小学校の校区だった時期があったが、そういう事なのでろう。


学校に到着


プールは無い。

水泳の授業が大川筋中学校にプールが完成すると、バスで移動して「水泳」の授業を受けていたそうだ。
(大川筋中学校にプールが出来たのは昭和62年)

当然それ以前は前の四万十川で泳いでいた。


現代の夏場の水難事故は、日本人が危険な場所に行って泳ぐようになったからではない。

プールでしか泳いだ事のない者が、川や海に行って泳ぐからである。

そして、それでも昔は、その場所の危険も安全も知り尽くした地元の人間がいたのだが、現在はもう殆どいない。

何故ならこれだけの学校が廃校になっているからだ!!


奥の集落からの登校は、わざわざ車道を通って大回りするのではなく、当然山越え。


勝間尋常小学校



中村市立勝間小学校


勝間実業公民学校


開校100年の石碑


昭和38年まで勝間川に営林署があり多くの人で賑わっていたそうだ。

当然その時は勝間橋はなく、その場所から木材を流していた。




学校の歴史

明治14年 開校

平成14年 川登小学校に統合





また「中村市史」には

明治 8年 久保小学校(廃寺利用・廃校時期は不明)

明治14年 鵜ノ江小学校開校

明治21年 勝間に移転、とある



校庭


ブランコ


鉄棒


電子基準点


安芸の畑山小学校の校庭にも同じものがあった



朝礼台


それでも年に一度、当時と同じように桜吹雪の舞い散る煌びやかな季節は訪れる。


勝間のメインストリート




現在もこの地区からは小学生が3人、高校生もいるそうだ。



そして平成17年、高知市内は大浸水したのだが、ここ勝間も四万十川の増水がここでできていて、学校も床下浸水したそうだ。




ダムが作れない程の勾配の緩やかな四万十川であるが、その高低差に対して距離が長く、合流してくる支流も多いため大雨が降ると増水の量も半端ないという事か。






昭和50年頃の航空写真




平成29年度


どちらかというと、この地域は他の地域より時間の流れ方が比較的穏やかなようだ。




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(平成30年3月21日追加)




そしてまた




平成の時代に入っても


この様な風景のあった場所である





そして平成14年 川登小学校に統合となる。

中村・竹屋敷小中学校

2019-08-11 11:58:38 | 中村の学校

中村・竹屋敷小中学校


カテゴリ高知県

2017/7/27(木) 午前 0:44



地理院地図「大用」1/25000・昭和41年発行


到着

そしてここは竹屋敷小中学校というだけではなく、昭和27年に建てられた富山村立富山西武中学校跡という事にもなる。

現在の竹屋敷小中学校の校舎が建てられたの昭和48年。


平成15年に休校となる


学校の歴史は明治8年、各に簡易小学校が開設された事から始まる。


「本舗初公開、投稿者の指」(笑)







体育館は「屋内運動場」とも呼ぶ



昭和48年に建設された竹屋敷小中学校の校舎




校庭


卒業生にとっては非常に懐かしい「角度」


教室の中




右上には児童がこの学校の歴史をまとめている








もう一つの「文」の場所が気になり探すが道路もなく場所が分からない


地元の方に尋ねると、そこは小学校があった場所で、そこの小道を少し登ると、はっきりとした道が現れ、小学校跡地に行けると教えて頂いた。




草ボーボーの道を登り、校門が見えてきた


感動的な光景だった



校庭には植林ではなく、桜の木が植えられ、毎年、春にはこの小学校跡地は桜吹雪の舞い散る煌びやかな場所となる!!


校舎は石垣の上にあったようだ。


先程訪問した鴨川小中学校と同じで、またこの地域で多く見かける造りだ。


石段の中央には階段がある。



この場所には木製の階段が掛けられていた事だろう。


校庭には卒業記念に造られたものがまだ残っている。


国旗掲揚台



今はこれが無い学校が多くなってしまったが、一体何処の国の教育機関だと思っているのだ。


国家の存在の上に教育が成り立っているという事を今の教育関係者が一体どれだけ理解しているのか・・・


「國光」の文字がある



わざわざ製作者の国光さんが造った自分の名前をここに刻むはずもない。


これは「國」の「光」




日本という「國」が「光」輝くという意味で、国旗掲揚台としてのあるべき姿なのだ。




石段の横には教員住宅かな



校舎の建っていた石段に上がる



校舎の基礎と教室に上がる階段

廊下で繋がっている現代の校舎ではなく、それぞれの教室に出入りする建物だ。

・・・いや、室戸の長者野小中学校はそれでも廊下で繋がっていたから、今でいう玄関があって靴箱に靴を入れて教室に入る校舎とは少しその部分が違っていたという事だろう。



格子窓のガラスの破片が沢山落ちている


また粘土瓦も大量に落ちている


もしかして地元の方々は、自分の通った小学校の旧校舎が崩れていく音を聞き、そしてその姿を目の当たりにしていたのかもしれない。



校庭に降りる


学校の裏にはお宮がある




校庭からの校門


竹屋敷のメインストリート


左手が郵便局で右手奥には酒屋さん


とは言っても・・・


レアな自販機


旧小学校から現地に新校舎が建てられた頃の航空写真



現在も旧小学校跡は


校庭に桜の木が植えられている事もあり


その姿をまだしばらく長い間保ち続ける事だろう


この地域について詳しく調べた訳ではないが一つだけ言える事。


それは昭和48年に現在の竹屋敷小中学校の新校舎が建てられる以前は、小学校と中学校がそれぞれ別々の離れた場所の敷地に建てられていたという事。




つまりそれぞれの単独の敷地では小中学校として収容しきれない程の児童生徒がこの地域にいたという事で、昭和48年の段階は、既に過疎化が進み、一つの敷地に小中学校を建設したほうが合理的な状況になっていたという事。







ここも現在では高知市内からスクーターで3時間掛からずに来れる場所ではあるが、それが半日以上掛かり、とても日帰り等無理な時代には、ここには小学校と中学校が別々に建てられていて、多くの児童、生徒、子供達の歓声が響き渡っていたという事。