佐賀・鈴小学校
2017/8/2(水) 午後 10:30
荷稲から山越えで鈴に到着
鈴小学校
到着寸前まで学校で遊ぶ子供達の姿があった
玄関前の石碑
やさしく たくましく
(真ん中は、強く、それとも、清く??)
おもいやり
学校の授業以前の、日本人の心の事である
人影はまばらだが、やたらと車の台数が多い
学校前の公衆電話と自販機
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酒屋さんは営業中
ここでも学校前の通りがメインストリート
昭和40年代の地理院地地図「伊与喜」
荷稲と道路で繋がったのは「最近」の話
昭和28年度の地理院地地図
当然、この頃は山道のみ
かと思えば、鈴から西の峠に向けて1~2mの幅の道路がある。
もしかして、この道は昔からあった広い道だったのかもしれない
また、だからと言って、この「鈴」が陸の孤島であったかというと、それは自動車で移動するという習慣ち車で行けない場所は「不便な場所」という自己中心的な価値観を持つ現在の日本人が勝手に個人的な狭い視野で判断する思い込み以外の何物でもなく、そもそも日本は周りを海に囲まれた海洋国家であり、当時は海上交通が盛んだった訳で、それは日本全国津々浦々という言葉からも判るように、現在の日本人が高速道路を飛ばして隣町に移動するのと同じように、当時は海上を全開でノリノリでカッ飛んでいたのだ!!
昭和37年の鈴小学校
この頃は鈴には500人程の住人がいて、学校は30~40人の児童で賑わっていた。
学校の歴史
明治12年 拳ノ川小学校の分教場として巡回授業が行われていた
(明治6年・佐賀小、伊与喜小 明治8年拳ノ川小開設)
大正13年 鈴小学校が設置される
昭和45年 新校舎完成
平成17年 休校
黒潮町の小学校の児童数の推移
明治時代、日本の人口た4~5千万程だった頃、小学校の数は3万校を突破していた時期もあった。
現代の日本の人口はその倍以上の1億2千7百万人
小学校の数は2万校程である