皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

香北・大久保

2019-05-21 22:35:45 | 集落跡訪問


地図ではまるでそこに集落が存在しているかのように記載されているが、実際は半世紀程前に無人になった集落である。



梅久保から林道で在所山の鳥居に向かう

大久保の集落跡はその鳥居の少し手前にある


最初は気付かずに通り過ぎてしまっていたが、道路脇には


また少し西には鳥居が見える


右の灯篭は帰りに直しておいた



灯篭の日付は明治42年


この道を進んでいっても御在所山山頂にある韮生山祇神社に着く



また林道の脇に石垣跡が見える


集落跡


そして民家跡が一軒


ここの方が大久保最後の住人に方で昭和40年代中盤まで住まれていて、清爪にも住居があり、そこに移っていったそうだ。


電気も来ていた



洗濯機


ナショナル


洗濯機がありお風呂があり、当時の配置のまま建物が崩壊している


この民家跡の近くにこの大束では御馴染みのこの石灯篭がある


日付は昭和6年



その横にお墓がある


お墓の灯篭の日付は明治23年


お墓の日付は明治15年


更にその奥には嘉永の日付のお墓がある


お墓のある場所の石垣は周りの石垣より頑丈に造られている


下の段の民家跡


コーラ





当然今の林道すら無い時代にここまで民家一軒分の瓦を運んでいた

美良布周辺にも当時は瓦製造会社が数多くあったそうだが、交通の便が発達すると次第に数を減らしていったそうだ



テレビ


バイク


自転車


林道を挟んだ南側にも集落跡が続く


林道建設で大久保の集落跡が平坦な道路になってしまったのは残念だ




ここも大久保の住居区域


ガスボンベ


風呂釜



手動の洗濯機 これは昭和38年前後のものだ



こちらもナショナル


そしてここにも石灯篭がある


ここだけお賽銭がある



山祇神社の鳥居の場所にも同じ文字がある


ここにも民家跡がある

「在所村史」によると大束(大久保、大屋敷、権束)は30戸位の小さなで文化に恵まれない不便な生活をしていたと記されているが、大屋敷、そしてこの大久保をみた限りではそうは感じない。

また昭和23年、農地増加、農家の分戸対策で大束に5町歩の開拓が出来たそうで、それはこの場所からもう少し東の場所で現在は消滅してしまっているそうだ。

またこの大久保の西にも東にもマンガンの採掘場があり、地元の方は開拓団とはそのマンガンの採掘に来ていた人の事ではないかとも言われていた。

いずれにせよ大屋敷は「王屋敷」、大久保(大公方)で平家ゆかりの地名があり、先の時代から明治、大正、昭和と引き継がれていった石灯篭をみると質の高い伝統的な暮らしをしていたのではと想像してしまう。


そして索道がある



最初は林業関係の設備でそれに合わせて生活物資を運ぶ事にも利用されていたのでは、と思っていたが、林業は全く関係なく、この大久保の生活物資を運ぶ為の専用の索道との事だった。


だとするとこの索道で、テレビ、冷蔵庫、洗濯機等が運ばれてきた、という事になるだろう

そして先程の民家の瓦はこの索道の一代前の索道で運ばれてきたという事になるのだろうか


動力室


という事はこのエンジンも先代の索道を使って運ばれてきたものになるのだろうか

この索道の先代の索道があったという確たる証拠はないが、大久保の集落では昔から索道を利用していたと考えるほうがいろいろと辻褄が合う


子供用の靴が落ちている




ここの児童達は当然ここから清爪小学校に通っていた


行きはいいとして、帰りは結構時間が掛かった事だろう


私が大屋敷から御在所山山頂まで1時間掛からずに登れたから清爪から大久保までは2時間程は掛かっていたかもしれない

でも今のゆとり世代と比べ昔の子供はタフだったから平成の時代の感覚で考える程大変だった訳でななかっただろう


だって当時は綺麗な山道で、四季折々の楽しみがあり、道には地元の人々の往来があり、通学路の先々で畑で仕事をしているお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんがいたから。


集落跡にある大きな岩の上にある石灯篭

この集落の時代の長さ、歴史の深さを感じてしまう


もしかして1千年近く人々が住み続けてきた場所で、その歴史の長さから比べると人が住まなくなってからはまだちょっとしか経ってない状態かもしれない。

香北・御在所山

2019-05-21 22:13:37 | 集落跡訪問
そして登山モードで「木馬茶屋」に到着


奥の建物の屋根には今日もエンジンが載っている


登り口

往復3時間とはあるが1時間程で登る事が出来た


登り口には給水ポイントがある


平坦な道を少し進む

右手に石灯篭がある

この灯篭はこの先各地で目にする事になる



日付は明治24年

また明治時代の旧11月とは一体どういう事なのだろうか


大屋敷の文字がある

明治時代には既に「王屋敷」から「大屋敷」になっていたという事か


平坦な山道はすぐに終わり勾配のきつい山道が始まる

大正時代の道案内


16丁30間

一丁は60間で約109m  約1.8キロの山道

給水ポイント

茶屋からは3カ所目だ


そして林道に交差する


ここに韮生山祇神社の鳥居がある


日付は大正13年


ここにもこの石灯篭


こちらの日付は昭和9年


これも別の場所でも見る事になる


少し登ると


時代は慶應のものとなってくる












山祇神社






四カ所目の給水ポイントは



植林になる前は水量も豊だったそうだ


時代は文政のもの


奥には石仏が置かれている


尻見坂


入山安全祈願


もうすぐだ




日付は文久3年





梅久保村




当時から存在していた村だ






着いたようだ






ここで地元の方に合う事ができ、いろいろと話を聞かせていただいた




在所村史によると韮生山祇神社の建立は宝暦2年10月とある

また歴史年表では寛延1年(1748年)となっている

帰り道




梅久保の集落




ここでにも同じ石灯篭がある



登る前に御在所山に登った人のブログを見たが、登山の道中で一人歩きの綺麗な女性とすれ違ったそうな。


そういえば私も登り口付近で、行き、帰りの二回、凛として美しい女性とすれ違っていた。


偶然にしてはあまりにも出来過ぎた話である。

香北・大屋敷

2019-05-21 21:53:06 | 集落跡訪問
美良布から物部川を渡り大屋敷に向かう


梅久保の周辺案内図

もう「大屋敷」の地名はない

そのかわりに「木馬茶屋」の文字がある


集落手前の橋


橋の左の橋の名前が書かれていたであろう部分は欠落している


住宅地図では「大束橋」となっている

そういえば電柱の表記は「オーツカ」だった


昭和38年に架設されたもの



そしてすぐに「大屋敷」に到着


「木馬茶屋」


平家の郷 

またこの「大屋敷」も平家ゆかりの地名で「王屋敷」から変化したものらしい


そしてまた戦前、戦後にかけて林業が盛んだった頃も歴史の1ページである


在所山の水


トイレも完備


ここは在所山の登り口でもある


集落を登ってみる

鳥居がある


降りる


神社の名前は分からないが「王屋敷」を訪ねて高知市から来た事を伝えてきた


奥には民家跡


倒壊したのは最近の事だろう



更に上に登る



綺麗に手入れされた集落の小道



集落としては既に無人で「大屋敷」という当時の呼称すら消えてはいるが、まだまだ地元の方々が頻繁に足を運ぶ場所ではある


ブルーの屋根の民家


更にその上にの登ると





「平家観音像ノ碑」





奥には民家跡があり



茅葺き屋根にトタンを乗せて保護している貴重な建築物でもある



そしてここから「在所山登山道」が始まる



まあ、御在所山に登らずして、「大屋敷」「大久保」の事は語れまい!!!

春野・芳原の竹林道

2019-05-20 21:39:51 | 集落跡訪問
ここはかつての春野東小学校の児童達の通学路


現在はもう地元の方にさえ忘れ去られようとさえしている道



当時はさぞかし美しい光景だった事だろう。

そしてそれがごく普通の当たり前の事だった事だろう。

でもこれは廃村になった山奥の集落の話ではなく、国体、インターハイ、プロ野球、サッカーチーム等のキャンプさえある春野運動公園のすぐ近くで、南ニュータウンの横で、地理的に言っても春野東小学校の児童達の通学路としても十分あり得る道であるのだ。

そこへは、この辺りから


知ってる人にはすぐわかる場所

そしてこの脇から


道路の下にトンネルが造られている



マジで殆ど利用されてないようだ



何故このような道があるかというと、道路を作ったついでにトンネルを作ってもらったという事ではなく、道路造成でかつての往来の道が潰れるから支障の無いように行き来が出来るように造成してもらっている訳ではあるのだが、その新しく作られた通路がこの様な状態であるのは寂しい事だ。

グラⅢかアフターバーナーの世界だぜ!!


その先にもミニトンネルがある


トンネルから振り返る

ここは格好の遊び場になりそうなのに、更にこの先にある場所は公園や運動場には絶対無い世界なのに、もしかして地元の子供達はこの存在に気付いていないのか??

余計なお世話かもしれないが、自分が小学生だったら毎日のように遊びに来てしまう区間である。


そして、ここから先は昭和50年代以前の光景


植林もある原生林、竹林に囲まれた昭和はおろか、大正、明治、江戸さえも偲ばせる状態




と言いつつ、すぐに昭和が顔を出す


かつての耕作地が自然の姿に戻ろうとして、まだ半世紀は経っていない状態


その先に民家が一軒だけある


車道の接続は無い

周辺は綺麗に整備されている


その先にあるアスファルトの歩道を東に進む


かつての人々総出で造った切り通しを超えると


南ニュータウンが見える

そしてすぐそこは学校への通学路


引き返し民家の前を西に進む


舗装はすぐに終わり



昔ながらの道


昔ながらの風景



昔ながらの光景


かつてはこの道を歩いて春野東小学校に児童達が通学していた

また春野東小学校が出来る前の芳原小学校の児童達が往来していた道でもある


ここから南に行けばすぐに県道がありコンビニまであるのだが


この反対側のの人達が、もうこの道は利用する人もいないという事で整備、掃除をしなくなったのだ。

別のルートで引き返そう

当時の山越えの道がそのままの状態で残っている


竹林の中を道が通っている


この道が普通に利用され、整備、掃除をされていればこれがどれだけ素晴らしい光景になる事か!!


そしてその素晴らしい光景が、当時は普通で当たり前だった


ミニトンネルが見えてきた


ここを抜ければまた一気に平成の時代に逆戻り


地元の方が、やっぱり整備、掃除する事にした!!ってなる事を願う。


また子供達がこの場所を見つけ、お気に入りの場所になれば自然に大人たちが動き整備される事にもなるだろう



南ニュータウンのグラウンドで遊んでいる子供達よ

すぐ近くにこんな場所があるんだぜ。


余計なお世話かもしれないが・・・











また



芳原の集落を歩いてみると





芳原の長寿桜





10月に来てみよう

芸西・白髪「民家跡と宇留志への道」

2019-05-20 10:50:02 | 集落跡訪問
白髪小学校を再訪したのは、当時の道で宇留志まで行ってみたかったから




「地理院地図・手結・昭和33年」


当時のこの周辺の集落はこの様な山道で繋がっていた。

また昭和初期に赤野川沿いの道が開発されるまでは、白髪ー宇留志ー大屋敷ー久重、は2m幅以上の道で繋がっていた。

昔は安芸から久重へ、久重から安芸へ向かう、馬や牛、荷台の姿がこの白髪にあったはずだ。

早速行ってみたいが、まずはその道から探さないといけない

しかも再訪では前回見えていなかったものが見えてくるもので・・・

お風呂跡


五右衛門風呂


平家の落人とは言うが


源平合戦とは「桓武平氏」と「清和源氏」の末裔の戦いだった


また、この民家跡は我々の次の世代、未来の日本人にも、ここにかつて人々の生活があった事を伝える事だろう


それは、単に「昔はこんな場所にも住んでる人がいた」という単純な話ではなく、800年以上昔の「桓武平氏」と「清和源氏」の戦いに根拠がある事を理解すると、またこの国の歴史の捉え方も変わってくると思う。

また、現在の日本の国旗「日の丸」は白地に赤だが、それは白地に赤の旗を持つ源氏と、赤地に白の旗を持つ平家の戦いでもあって、もし平家が勝っていれば、現在の日本の国旗は「赤字に白」の国旗になっていたかもしれないのだ。

そして、支那との貿易を優先するグローバリストの「平家」と、外国からの悪しき風習を排除しようとするナショナリストの「源氏」の戦いでもあったのだから、勝敗の行方次第で日本のその後の姿を大きく変える戦いでもあった。


廃村から半世紀、まだ現存する民家跡があるとは思っていなかった


お風呂跡


イメージ 8


漆喰壁



そしてまた特記すべきは、宇留志、板渕、白髪がほぼ同時期に廃村になった集落でありながら、白髪の集落の建築物のレベルが宇留志、板渕より一歩近代的な事

特にお風呂は、宇留志、板渕が昔ながらの五右衛門風呂でありながら、白髪は五右衛門風呂でありながら、現在のユニットバスの前身となる近代的なタイル張りのお風呂のスタイルにほぼ近いという事

でありながら囲炉裏があったりして


移転先での石油ストーブでの生活は予想外に寒いものだったのかもしれない

ガスコンロ

ちょっと新し過ぎる気もするが


これも


でも、今となっては当時を反映する貴重なもの


この更に奥にも赤い車が放置されているが


今となっては、それは場所を特定するための重要な目印の役割を担っていたりもする


ダイハツ・ハイゼット

水路跡


道に埋められた上水管らしきものあり



蛇口をひねれば飲み水の出てくる時代も到来していた


決して水に恵まれていた訳ではなかったようだが



この設備が完成して、環境はかなり改善されたはず。



でもそこから20年も経たない内に集団移転となる

更に集落の道を北上すると


白髪神社跡


もう石垣があるのみ


神様も一緒に移転したらしい。

ここから先は細い道が続いていて石垣等で整備された部分もあるが、どうやら三辻森にも宇留志にも行く道ではないらしい。

かつては2m幅で白髪ー久重を繋いでいた道が、まだ姿を留めている事を期待して南西に下る

やはり道はまだ存在していた

道は水路のある道を横切り、耕作地を抜け

大きな切り通しを進む


集落を結ぶ幹線道として整備された道だ


幅のあった道だけあって崩落部分は殆ど無い


耕作地を横切り



西向きの陽当たりの良い場所には耕作地跡が広がっている


途中にある耕作地の中で、道は若干不鮮明になってくるが、幹線道として出来る限り広く真っ直ぐに設計されているようだ


赤野川の水の音が大きくなり、宇留志はもうすぐそこだと思うが、進路の確認、修正で時間が掛かり過ぎて作戦撤退ラインとなってしまった。

(後日、再訪予定)


10月目前のこの時期のこの様な場所にでの夕暮れは、ほんの少し前に「花火大会」があったとは思えない程に早い。


引き返すと、斜面を掘削して作ったと思っていた道は、石垣を気付いて造り上げられた道だと判明


若干、勾配もあり、この様に大きく方向を変える場所もあるが、当時の人々にとってはなかなか広く、快適で、そして特に現代人にとっては素晴らしい景色の幹線道だった事だと思う。



芸西に帰る道(崩落個所)からの芸西(平成30年9月下旬6時半頃)


白髪の集落は、海沿いに住む人々が、山奥にまでその生活範囲を広げていったという場所ではない。

源平合戦の結果として瀬戸内海から四国山地を越えて、この場所に桓武平家の人々が住み始める事となった。



そしてその800年後、山を降りて海岸線沿いの人々と一緒に暮らすようになった。