皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

芸西・「板渕ー上尾川ー三辻森ー白髪ー宇留志ー板渕への道」

2019-05-19 21:06:10 | 集落跡訪問
「地理院地図・手結・昭和33年」



かつて、自動車道が完備するまで、各山々の集落はそれぞれの山道で密接に繋がっていた。

更に白髪ー宇留志ー久重の間には、赤野川沿いの道が昭和初期に開発されるまで、2m幅の道が主要道として存在していた。


板渕に到着


前回の訪問から6カ月、更に道の状態は悪化しているが、久重からの接続部分の工事は完了している。


●「芸西・板渕ー平成30年3月末訪問」

https://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/35629580.html





この下に「板渕地区生活橋」があり、対岸に渡り上尾川西の尾根の上に出られる




橋の認可の日付は平成13年10月




廃村になったのは昭和40年代だが、もしかして15年早く来ていれば、ここでお茶を一杯頂きながら「板渕」の話と、尾根に登る道の話を聞けたかもしれない。



なんて考えたりもしたが、しかし芸西村役場に問い合わせてみると、橋があるのは人が住んでいたからではなく、地籍調査やそれまで行われていた山仕事等の関係者には、今まで橋があった場所に橋が無くなると不便だから、というのが一番の大きな理由だそうだ。


集落を登ると!!



なんと、この板渕にも「宇留志」と同じ「石灯篭」がある!!



当時の美しい光景が浮かんでくる!!!



●芸西・宇留志②「石灯篭とモダンな民家跡ー平成30年4月訪問」

https://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/35630742.html


●芸西・集落跡「まとめ」

https://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/35665394.html


道は陽当たりの良い南側を耕作地に譲るかのように、尾根の北を走る



(下り方面の写真です)




そして一度、尾根に出会うが横切る事無く、尾根の北を進む





耕作地区域を抜け、二度目の尾根は横切り、進んでいく


が、途中の沢で道を喪失

道が消滅したのか、見失ったのか、上尾川で尾根に向かった時と同じ様に、上に登り、尾根に近づかば近づく程、道の消滅度は高い

また地形的な事を考えると板渕ー上尾川の道は尾根の北ではなく、南を抜けたほうが便利で早いとも思える。

結局、真面目に直進してしまい、かなり高度を上げて尾根に到達。

しかも道は尾根の東に存在していたので、「道」に合流するまで時間が掛かってしまった。



前回、上尾川から尾根に登りマーキングをした区間を抜け、三辻森を目指す



安芸の平野が見渡せる場所に到着



送電線の鉄塔のある場所だ


が、先を急ごう。

日没までにあの板渕に帰らなければいけない。

また、ここからは2時間程もあれば引き返せるが、この先、道に迷た場合の作戦撤退ラインも結構差し迫っている。


そしてこの鉄塔のすぐ先の分岐を右に行ったしまった・・・


三辻森中継所


そしてこの先、進めば進む程道が不明瞭になり、引き返し、先程の分岐を左に行く事にした



道はこっちだった。

尾根の道は、実は天然のものではなく、石垣で築かれた「人工的」な道だったりする


地籍調査のピンクのリボン、そして、白、私のではないブルーのリボンが復活し、充分な確信が発生し、作戦撤退ラインを却下して進む


道は尾根を掘り、切り通しになっている

白髪の集落が近い証拠でもあるだろう



まだ時間的には焦っているが、結構、贅沢な時間を満喫している!!


そして、かつては、ここまで「バイク」で来れた!!


また、白髪経由ではなく、宇留志に直接繋がりそうな分岐の存在も確認




また白髪から宇留志の道の間に、その接続らしき分岐も確認



まあ、肝心の板渕から尾根への道の接続が確認出来ていないのであるが・・・



尾根の切り通しの区間は距離の長く、白髪に近づかば近づく程多くなり、かつてはこの道が勾配を最小限に抑えた非常に歩きやすい道であった事が容易に想像できる。

そしてその工事、造成は、赤野川沿いの道の開発が昭和初期に始まる以前に既に完了していた事にもなる。

もしかして、いや、きっと多分、思い付きや、想像や、期待ではなく、大正、明治以前は、この道を馬や牛や荷台が通り、安芸から上尾川を抜け、羽尾、仲木屋までの流通経路ともなっていた筈だ。

また工事は、「田役」と呼ばれていた住人総出の地域のインフラ整備事業で行われ、地域の子供達とっても、「小学生」と呼ばれる以前の時代から「おにぎりが沢山食べれる」という、大変だけと楽しみのある内容で行われていた。

切り通しの工事で発生した大量の土は当然、耕作地の土となり、更に奥の、尾根の道を造成するための材料として使用された。

左右に耕作地跡が出現し、白髪はすぐそこだ。

ウエルカム to 白髪 という所だろうか!!!


道は、白髪小学校の道を奥に進んだ赤い車を置いている手前に繋がる


目印が沢山つけらている!!


右手が三辻森からの接続で、左が私がこれから進む宇留志への道の目印なのだけど・・・・



ただ、白髪ー宇留志への運搬経路としての正確な道は


そこから耕作地の道を抜け接続するこの掘割の先に進む道だと思う

(でないと牛や馬、荷台は通れない)



小さな耕作地の石垣を抜け

一つ目の耕作地跡を横切る


二つ目の耕作後を抜けるが、この耕作地は広いため、道が不明瞭となり、後で思いのほか高度を下げている事に気付く

耕作地跡を抜けて、前回同様、尾根を直下し、「道」に合流。

前回撤退したポイントを通過



その先の沢周辺が大きく崩落しているが、その沢の部分にまだ当時の石積みが残っている。

そしてまた、白髪からここまで歩いてきた区間には石積みで2m以上の幅を確保していた区間が多数存在する。

各集落が無人となって半世紀が経ち、利用する人がいなくなってもこの状態という事は、当時は一体どれだけ立派な道であった事か!!


そして赤野川に接続!!!

その地点からは対岸に接続するのは地形的に難しそうなので、少し進むと!!!

対岸に坂道の石垣発見!!!


ここに橋を架け、牛や馬、荷台を通していた事だろう!!

裸足で渡る!!


対岸には道が左右に繋がり、その先には石積みもあり、もうここは完全に宇留志の市街化区域だ。



上部に登る道を進むと



林道に繋がる



接続地点はここ


地理院地図に記載されている通りの


ウルシ谷川橋の場所



またこれは地図の正確性というより、集落と集落を繋ぐ道は必然的にこうなってしまうという事でもあると言える。




その先のカーブミラーの袂に宇留志から白髪に進む道がある



重機で昔の道を拡幅して造成された林道の側面には、宇留志の耕作地跡が見事に剥き出しになっているが、これは耕作地跡を出来るだけ壊さないように上手く工事したのだと思う!!



急いで歩けば、宇留志ー板渕の林道区間は30分程。




上に送電線が見えてくるから、その下が板渕と思って進む。


私はこの反対側から来た男です!!


尾根の鉄塔を過ぎて進路の信頼性を確保できるまで「不安」が一杯で、引き返す決断も必要だと思っていたが、なんとか迷子にならずに帰ってこれた。


所要時間は5時間半。

当時であれば4時間も掛からない道のりだったと思う。

そしてまた、現在の様に各集落が車道で繋がる以前の各山々の集落は、現在の我々が想像する以上に密接に繋がり、人々の交流が活発に行われていた事が、リアルに伝わってくるのである!!!

●高知の学校跡地「まとめ」・後編

https://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/35665559.html

安芸・杉ヶ峯

2019-05-18 22:15:40 | 集落跡訪問
前回の地図が少し間違っていた。

杉ヶ峯の途中の橋崩壊の箇所の訂正と、地図には載っていない道を登ってきたらしい事。また、天ノ郷への道は住宅地図ではスドウから登る道はすぐに切れ、その代わりにあの岩の切れ目の石積みの橋の先を上に登る道が記されていた。


スドウに登る横道から杉ヶ峯に向かう。すぐに道が崩壊していて道が無いように感じるが、少し進むとすぐに道が現れる。石積みもしっかりしていて、なかなかいい山道だ!



そしてすぐに橋がある。



渡るには傷み過ぎているので、降りて渡る!



そして同じ沢の中にもう一つ小さな橋があり、こちらも崩壊している。



そしてすぐ右手にかなり昔の民家跡が!!



そして、またすぐに右手に登る道がある。
そして、左に進む道が地図に記載されている道だろう。




地図には記載されていないが、明らかに人の手で作られ、そしてこの状況でも非常に分かりやすい山道だ!!



お、電線の部品か!



また、、、こういう場合、部品が落ちている事自体より、部品が落ちているという事はこの先に集落があったという事を裏付ける現象なので、そのほうが嬉しい!!



近づくにつれどんどん落ちてる!





前方が一気に明るくなり!!



到着!!!
地図を見たとき、どうしてこんなに回り道をしなくては・・・ここなへんから登ればいいじゃん!!!て思っていたところにしっかりと期待通りの山道があったおかげで、すぐに着いた。もしかして、あの吊り橋から15分ぐらいかもしれない。




電柱が倒れている。ここまで電気が来てたのか!!
でも、人が住んでいて道もしっかりしていた時は、多分ダッシュでいけばあの吊り橋まで5分もかかりそうにないので、そう驚く事でもないか。



広がる段々畑



そして鹿と3秒間見つめあい



上に登る



そしてその奥(西側)にも土地は広がっていて



こちらにも広がる段々畑



いろんな物が落ちている
これはテレビだ




ここに民家があった事は十分に推測出来るが、基礎の跡は無い。
ここはかなり昔に作られた民家があって、かなり昔に無人になり崩壊していったのだと思う。




構造躯体の木材発見!!



お風呂



反対側からの全景





アンテナが落ちていて




石垣を破壊するほど木が成長している



そして洗濯機





そして目の前に民家が!!!





1リットルのファンタの瓶が落ちていた



中を



階段は・・



登れても二階は



新聞があった
昭和49年と45年






なかなかいい土地だと思う!!



段々畑の石の階段!!



ここから林用軌道まで、下りだからダッシュで多分5分

そしてスドウの横道を進み高橋川のつり橋を渡って、別役小中学校までは30分ぐらいではないかと思う!!!

物部・沖ノ谷

2019-05-18 21:48:43 | 集落跡訪問
地図には記載されていないが



鴨ヶ峯の時に見つけた



沢沿いの道から入る


沖の谷橋




昭和46年3月




ただこれ以前には林用軌道の橋が架かっていたはずだ




でも、この道は直接「沖の谷」に繋がる道ではなかった



電力会社の施設管理用の道だった

川沿いを歩く快適な道



川を渡る




川沿い東に記載されている民家を目指すが、実は地図を確認せずに来たため少し見当違いの方向に進んでしまう


鹿の骨がある

もしかしてネットに角が絡んでしまった事が原因だったのか・・・



このまま通り過ぎる訳にもいかず、外してきた



少し見当違いの場所を歩いた訳だが、それはここに来て、この鹿の角をネットから外す為だったのかもしれない

少し引き返し電力会社の水力発電施設付近




地図を確認せずに来てしまったが、この付近に「沖ノ谷」がある事は分かっている

上部の集落跡から落ちてきたであろう「陶器の破片」「ガラス」の破片がほんの少しだが確認出来る、この付近から直上する事にしよう!!



全く道がない


それもそのはず、


もともと道の無かった斜面を登っていた


が、索道のワイヤーを発見

この尾根を登れば索道の終点に着けるはずだ



索道の終点に到着



民家、、



ではなく、索道の動力施設



索道の鉄塔



アンカーがそのまま引っこ抜かれてている


この規模のアンカーの土台は最低でもこれくらいの大きさという事が勉強になった

民家跡が見える


民家跡、、、、とはいえ、そこに人の姿があっても不思議ではない雰囲気は残っている



植林の奥には段々畑の石垣が見える



小屋






索道で上げれてきた「飲料水」




民家跡



ベッドの骨組み




勉強机の椅子



つまり別役小学校に通う児童の勉強机の椅子という事になる




杉熊、成山の民家跡が約10年程昔の姿



鴨ヶ峯よりも少し古い感じだ

ぶら下がっているのは「チリ紙」

「チリシ」と呼ぶ

平成生れの日本人には馴染みの無い言葉だと思うが・・



冷蔵庫




軒先



この家にも別役小学校の担任の先生が「家庭訪問」に来たはずだ


そしてその先生は、現在のこの写真からイメージしてしまうような「こんな山奥の田舎に・・」と思っただろうか・・

いやいや、実はその真逆で、ここの庭先に建てば眼下に195号線の赤い橋が見える。

つまり、その奥の土居の地域も遥か遠くに見渡せる「絶景」の場所だったのだ。


前はお風呂と便所



この民家の一段上にも民家跡がある




ここの家の方も山を降り、遂には先程の民家が最後の一軒になってしまった



洗濯機


この型は、昭和40年以前の型だ



昔は脱水時間も自分でセットしていた



ぼやけているが型番は「N-435]自動〇〇、(脱水、だったかな??)


炊事場周り


全景



この家には耕作地の間のなだらかな坂を上がり、この石の階段を上がる。



鴨ヶ峯に接続する道を探す


その道上にある建築物は




木材を切断する作業小屋だった



その先の鴨ヶ峯に向かう道を進むが、植林地帯が切れ藪化した地域に突入、断念し引き返す

集落跡には「最近」の「焚火」の跡があった。



「沖の谷」には「昭和」を越えて「平成」の時代まで人の生活があったのではと推測できる。


そしてそれでも今日もまだ、バスは「沖の谷」前を通る



沖の谷から見えていた「195号線」の赤い橋の上から「沖ノ谷」

(右上の真ん中付近、山の中腹が「沖ノ谷」)




ほんの半世紀程前まで、この付近には林用軌道が運用されていて、その後は道路の無かった地域に巨大な道と橋とトンネルが建設され、沖ノ谷の集落からは、眼下に走る195号線の自動車、そしてそのさらに奥の土居の集落まで、周囲が見渡せ、夜になると、道路を走る車のライト、周辺集落の民家の灯りに囲まれた、800年程前、平家の人々がこの地に訪れた時には想像もつかなかった近代的な風景が広がっていた。




そしてその新しい景色は、新しい時代の幕開けを意味するものであったのは確かな事ではあるが、この周辺集落にとっては800年に渡る長い歴史の最後を飾る、今まで想像した事もなかった幻想的な風景だったかもしれない。


源平合戦から800年、そしてその影響を受けて誕生した物部の集落の800年後の姿。


でも単に源平合戦と言っても、当時の日本の二大勢力の源氏と平家が決着を着けたという、ただそれだけの単純な話ではなく、源氏(ナショナリスト)と平家(グローバリスト)が戦って源氏が勝利し、ナショナリストの国家体制になった訳で、もし、あの戦いで平家が勝利していれば、日本がグローバリストの国となり、現在の日本とは全く違った国になっていたかもしれないという、重大な転換期でもあった。


それを考えると、現在の日本があの源平合戦から800年後の、あるべき国の姿として相応しいものであるかどうか真剣に考えなくていはいけないのである。

物部・成山

2019-05-17 18:26:48 | 集落跡訪問
195号線沿いにある「成山」停留所



一日上下4本、合計8本のバスが通っている。


ネット上にある地図だけを見れば、ここから車で進める道が繋がり、その先には昔ながらの風景が広がっていて、誰かの帰省する「ふるさと」の姿があると想像してしまうだろう。



地理院地図「大栃」+「北川」・昭和22年




確かに、そう遠くない「現代」の時代に物部には森林軌道が走り林業の全盛期を迎え、この成山周辺には別府小中学校、別役小中学校、岡ノ内小中学校、岡ノ内小学校桑ノ川分校、があり、195号線が完成した現在よりも、多くの人々と活気で溢れていた。

そして現在も数軒の民家の表記があるその「成山」に向かうが、その破線の道は、生活道ではなく、林業時代の木材運搬用の道であった。




「森の轍」にもこの道は「軌道跡」との記載がないし、実際、軌道跡にも見えなくもないこの道ではあるが、実際にレールや枕木等の当時の遺構の残る本当の軌道跡を歩いた事のある者にとっては、その「趣き」だけでこれが「軌道跡」ではない事が分かる。


林業関係者によって掛け直された橋も耐久性の限界に近づいている。



橋はあくまでも平成30年6月の状態



しばらく歩いたが道は川沿いをほぼ平坦に進むだけで、「成山」に向かう道がない。


もうさすがにこの辺りで高度を上げなくてはいけないと推測される場所でなんとか杣道を発見。

が、怪しい。

仮に道があるとすれば、仮に道があるとすれば、と判断できそうな線を進み、成山に向かう等高線を緩やかに登る横道に着き当たる事を期待しながら進むと。

        え・・・・・・????

もしかして「到着」!!!!!



耕作地が広がり、民家跡がある



ここが「成山」に違いない!!




オーバーハングさせた基礎の場所は




電柱がある



成山である。



よし、到着、確認!!

と納得すると同時に、成山に向かいながらも、実は「もう地図にも記載されていない存在である未知の集落跡に到着」というシュールな展開にならなかった事を少しだけ残念がったりもするのである。


オーバーハングさせた基礎の部分は台所のようだ。



おそらく10軒ほどの民家があっと推測できる



集落の祠




杉熊と同じ香りのする集落だ



塩ビの排水管が埋設されていて、どうやら集落末期は、生活排水を全て肥溜めに流し込み、「肥料」として使用するスタイルから離れていたようだ。


しかしそれはこの大自然の中の集落で設備の近代化を望んだ結果というよりかは、労働力の高齢化に対応した、させた結果、という事だろう。



この民家が成山に最後まで住まれたいた方の家だろう。




手洗いの水栓に対応できる程の水圧も確保出来ていたようだ。




軒先




トタン屋根には木材用のコールタールを塗り耐久性を高め、樋に使用している竹樋に、トタンに硬化、付着出来ずに流れ落ちたコールタールが固まっている。



昭和69年



5軒目の民家跡



軒先



洗濯機




渦潮



二層式洗濯機のコントロールパネル



このコントロールパネルにも、その洗濯をする者独特の「こだわり」というものがあった。




現在の「全自動洗濯機」の時代の日本人には分からないだろうが!!

薪があり



当然その隣は



お風呂



この中にある金属製の風呂釜が建物の風化により、この付近に剥き出しの散乱した状態になるまで、一体どれだけの年月がかかるのだろうか!


人々の姿があった頃の風景を知りたい



源平合戦の後、平家が物部に入り、杉熊にも人々が住むようになったのは江戸時代に入った頃らしい。


それを考えると、ここは杉熊より少し歴史の長い場所かもしれない


この道が本来の道のようだ



その先にも民家跡



成山の住居区域を離脱する




昔ながらの「道」



植林の中のかつての「道」は健在




電柱の数字は、先程の46番から1つづづ数を減らしながら設置されている




成山のバス停の先の成山入り口から46本の電柱で繋がっているようだ



道はこのままゆっくりと降下し、電柱の番号数を減らしながら成山の入り口に繋がっているようだが、その先は崩壊している個所も多く、使わられなくなった久しい道であるようだ。




自分は途中にある分岐を降下し、先程の道に合流した。

またこっちの道が成山の人々が最後まで使用していた道のようだ。




その成山への登り口は、この切り通しを抜けたすぐ先に進行方向に鋭角に接続されているので、見落としてしまった。




距離的には、成山への登り口の急な坂道を登り、平坦な場所を12~15分程歩いた場所になる。


また倒木もあり、橋の架けられている沢が3カ所あるので、この先、道の状態を悪くなる一方かもしれない。


で、このような「成山」への経路の事を語ったところで、それを頼りに成山に向かう人等皆無に等しいだろう。


でもそれでもかまわない。




あの「成山」のバス停から少し入った場所に昭和40年代に作られた「成山橋」があり、そこにある急な登り口から平坦な場所になったその場所から、30分程歩いた所に「成山」という集落があり、ほんのこの前まで人々の生活があった事を、その事を知らなかった誰かに伝える事さえ出来れば!!

物部・鴨ヶ峯

2019-05-17 17:28:08 | 集落跡訪問
鴨ヶ峯

線別府温泉手前の195号線沿いにある集落



山道がありその先に民家のある記載があり、現地には鴨ヶ峯、沖ノ谷の集落の人々のためのバス停があり、1日に上下4本ずつ、計8本のバスが運行されている。


【地理院地図「大栃」昭和22年】

鴨ヶ峯の西には別役小中学校がある。


当時は195号線の面影すら無く、人々は山々を歩いて集落が繋がっていた。

と言いつつ、実は物部川沿いにある「線」はその後の195号線の前身となる「大栃林用軌道」で、「大栃」を中心とするこの地域は林業の全盛期で、源平合戦以降、平家が築き上げてきた物部は、かつてない程の繁栄を見せていた。

そしてそこから70年、195号線が開発され、等高線に従順に走っていた道も「トンネル」の開発により更にに距離と時間を縮め、便利な場所になった筈であったが、そのかつてない繁栄ぶりは、実は時代のフィナーレを意味するものであった。

そして現在、ネット上に記載されている「鴨ヶ峯」の「道」も「民家」も、そして発行されている「地図」にある「道」も「地図」も、もはや普通のサラリーマンが制服を着て行けるような場所ではなく、もう確認しようがない場所なので、当時のまま放置され、その「表記」だけが継続されている「だけ」の状態なのである。


木床第二トンネル西からの道も、橋と袂からの道も道路工事で完全に消滅し、鴨ヶ峯の西から登る道も完全に消滅。

しかし地図に記載のある「ソーコ」の横からなんとかアプローチが掛けれそうだ。

地形的に「道」が作られると「合理的」に考える事の出来る場所を登ると、やがて、道らしき線を進んでいる事が確認出来、勾配が緩やかになり、やっと「道」を歩く事になる。



「索道」跡もある。どうやら「鴨ヶ峯」の集落に向かっているようだ。

そして「鴨ヶ峯」の到着


お墓も一緒に移転したみたい。


その上の段も。



民家跡



電柱



「マキヤマ」


「NTT」もそのまま。



この付近にも民家があったようだが、その跡は散乱している



林業関係者の作業小屋だったのかもしてない


これが「鴨ヶ峯」の最後の民家のようだ



これが昔のトイレ、というか便所というか、「かわや」



「肥溜め」に落ちたという話は、昔は普通によくあった話だそうだ!!







洗濯機は三菱の

「千曲」




こちらは




やはり



「千曲」






民家

それでも無人になったのは「平成」の時代に思える



粘土瓦が落ちている。しかし量が僅かで、木造粘土瓦葺きの建物があったような形跡は、確認できなかった。



成山への道を確認したかったが、、、、撤退!!!