皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

梼原町 初瀬東小学校

2019-05-26 22:37:08 | 梼原町の学校

梼原町 初瀬東小学校

2016/8/4(木) 午後 0:37


明治28年 初瀬西小学校から分かれて、初瀬東小学校開設

昭和62年 梼原小学校に統合


美しい木造校舎


学校の位置


学校の歴史


拡大しても読みづらいかもしれないが、その歴史は、この場所にあるこの石碑にしっかりと刻まれていて、この石碑がある限り、ここに学校があった事を、人の人生以上の長い期間、後世にそれを伝え続ける。


今は「はつせ」になっている


在りし日の初瀬東小学校


全景。懐かしく、美し木造平屋の小学校跡地!!!




が、問題はここから!!!


なんと、この歴史のある小学校跡地が、キムチ小屋にされているのだ・・


きっかけは、1997年からの5年程の韓国人学生との交流らしいが


こんな場所に何故「朝鮮」が必要なのだろうか??


初瀬東小学校の開校は明治28年。つまり1895年。

この年は日本が日清戦争に勝利した年だ。

そして、長い間 支那の属国だった朝鮮を「独立国」と清に認めさせた年だ。


そして1897年、朝鮮は「大韓帝国」と名乗り、日本にお願いして併合してもらうまでの13年間、彼らの歴史上 極めて珍しい「独立国」の期間を過ごす事になる。

そして、当時 日本は世界の一等国であり、朝鮮は世界の最貧国であった。

ここで勘違いしてはいけない事がある。

それは、当時 世界の最貧国であった朝鮮は、ただ貧しかっただけではなく、日本やその他の列強国にあったような、社会制度、歴史、伝統、文化、常識、モラル、そんなものの欠片さえ存在しない、日本人の想像可能範囲の遥か斜め下に存在する恐ろしい場所だったという事だ。

だから「小学校」という事に関して、当時の日本と朝鮮を比較しても、雲泥の差があるというか、全くお話しにならない程の違いがあるのだ。

早い話が、併合前の朝鮮には、「小学校」、というもの等、全くなかったのです。

いや「学校」が無かっただけではなく、「教育」そのものが無かったのです。

つまり、学校がない、という事は、教育というものがない。いや、その「教育」という「概念」が無かったのです。

だから教育が無いから、学校が無い。

学校が無いから、読み書きできる人も殆どいない。

読み書きも出来ないし、学校が無いから、学校に行って医学を学んで「医者」になろうとする人さえいない。

つまり、併合前の朝鮮には「医者」がいなかったどころか、「病院」そのものが無かったどころか「病気」「病名」という「概念」さえ存在していなかったのです。



そして1905年、日露戦争に勝利し、朝鮮に駐留していた日本軍を完全包囲し、あのロシア軍を打ち破った「日本軍」を、恐怖のどん底、に陥れたのは、『性病まみれの朝鮮売春婦達』だったという話は、きっとこれから有名になってくる話だと思う。


そしてとにかく恐ろしのは、奴らが『性病まみれの朝鮮売春婦達』だったという事自体より、❝性病という自覚さえない、その病名すら持たない民族の不潔で不衛生で、どうしようもない糞尿民族の売春婦❞だったといいう事だ。


梼原さんよ!!!悪い事は言わない、やめとけよ!!!



「ハングル」はいらない。


その理由




ハングルでは「放火」と「防火」が発音も表記も全く同じだから。

・・・・まだまだあるぜ!!!www



入り口は「ハングル」表記のみ




どうなってのよ、梼原さん????


そうそうこの看板の上の人形


これこれ、このチマチョゴリなんだが


チマチョゴリとは、もともとはこういうものだから、「歴史の捏造」はいかんよ

世界的にそれが、恥ずかしい事、だと悟った瞬間から全力で無かった事にしているそうだが。

http://jeogori.web.fc2.com/




この異様な雰囲気







国道197号から始まるこの全力アピール


日本人のそれとは、かなり「異質」なものを感じる


これを見て「無気味」に感じるのは私だけではないはずだ。


保守速報のこの件についての記事

http://hosyusokuhou.jp/archives/43286186.html

さらに大腸菌入りキムチの件

http://hosyusokuhou.jp/archives/48124077.html



どうやら梼原のスーパーでも売られているようだ。


駅前の一等地にある。パチンコ店、焼肉店、サラ金、宗教団体。

あれは、戦後の混乱期に、「ウリ達は戦勝国民ニダ」と暴れだし、強盗、強奪、強姦、詐欺、殺人、、悪事の限りを尽くした朝鮮人が、日本人から日本人の土地、財産を奪い、居座り続けている場所なんですよ。


当時、日本の男達は戦場にいて、本土にいたのは、子供、老人、女性だけだったのですよ。


そしてこの映画は「真実」なのだ!!



梼原町 初瀬西小学校

2019-05-26 22:35:53 | 梼原町の学校

梼原町 初瀬西小学校

2016/8/4(木) 午前 11:11


梼原の街から初瀬に向かう。

とても学校などありそうにない山道を走ると、急に開けた土地があり、そこに初瀬西小学校がある。


学校の階段


今は民家になっているようだ


東側は施設になっている





明治 9年 開校

昭和49年 梼原小学校に統合




バス停も「初瀬」

時々、それでもバス停が「学校前」の時があったりして、そんな時は卒業生ではないのにこっちが嬉しくなってしまう。









梼原 松原小学校

2019-05-26 22:35:02 | 梼原町の学校

梼原 松原小学校

2016/8/4(木) 午前 10:51


国道439沿いに案内がある


地元の方も、もう体育館しかないよ、と言われていた。


当時は子供達だらけだったそうだ。

それが今は人影もまばらな状態


下の段には教員宿舎


明治 7年 松原本村の寺を借り、これを教場として松原小学校を創設し、同村 医師 山中立成が児童を教授した。(梼原町史より)

平成10年 梼原小学校に統合





中学校は昭和56年に梼原中学校に統合。


立派な体育館


学校に隣接するように保育園跡がある


一目見てそれが保育園だとわかるイラストが乱反射でぼやけている・・・・


集落を通る国道439号は拡張され走り易くなっているが、それがどこまでも続いている訳ではなく、すぐに一般的な山道に戻る。

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在りし日の松原小学校

というより、戦前の松原小学校



(土佐・須崎・高岡の100年より)

航空写真で見る当時の松原周辺と松原小学校



小学校






梼原町 越知面小学校

2019-05-26 22:34:09 | 梼原町の学校

梼原町 越知面小学校


2016/7/29(金) 午後 11:47


四万川東小学校跡から山越えで越知面へ

到着


校庭


と言っても、平成23年に閉校になったこの場所を、学校跡地扱いするのも気が引ける・・・・・


この学校の歴史も長い



開校 明治 5年

閉校 平成23年

その歴史 139年

そして明治5年、学制の発布と同時に小学校を開校させた、この越知面地区の教育の基盤というものを含めると、この地域の「教育の歴史」というものは200年以上、もしかして江戸時代をまるまる含める、400年に匹敵するものかもしれない。



半世紀後、1世紀後もこの石碑は風化することはない。


校舎


玄関


校舎から校庭を


越知面中学校は昭和46年 梼原中学校に統合



プールは見当たらなかった



でも、地元の子供達は元気に川で泳いでいる。


こんな自然豊かな場所で、地元の川で泳ぎ、潜り、飛び込んでいる児童、生徒に対し、現在の学校の「水泳」の授業は一体何を教えれるというのだろうか???




プールに飛び込み台があるのに、「危ないから飛び込んではいけません???」


「馬鹿だろ、お前!!」か「お前は何を言ってるんだ!!」の世界だぜ!!




学校にプールが作られ始めたのは昭和40年、50年代の話。

そして何故、当時からプールに飛び込み台があったか。

それは、当時の世代は普通に、全く問題もなく、飛び込みをしていたから。


勿論、誰しも最初から上手に飛び込みが出来ていた訳ではない。

でも、出来ない子も頑張って練習し、回りもそれを応援し、お互い助け合って協力し友情を築き上げていたはずだ。

そして、それが一番大切な事で、昔はそれを大切にしていたのだが、現在の学校の学習指導要領には、それが欠けている。

梼原町 四万川小学校

2019-05-26 22:33:15 | 梼原町の学校

梼原町 四万川小学校


2016/7/29(金) 午後 0:47


こんな山奥に何故こんな立派な小学校跡地が・・と思うが、ここは明治5年、日本という国家が、組織的に「学校教育」というものを始めたと同時に、小学校が設立された、当時としては全国的にも「教育」というものに対する意識が高く、さらにそれに即座に対応できる程、人材、財力、環境の整っていた土地だ。


四万川の絆


学校の歴史

明治5年に設立された、四万川西小学校、四万東小学校、明治32年設立の上成小学校の歴史は昭和59年、四万川小学校に引き継がれ、平成23年その幕を閉じる事になる。


その歴史 139年


石碑


三養は 知 体 徳


今にも児童が飛び出してきそうな雰囲気


ブランコが錆びている



プール


そしてこの場所には昭和47年まで四万川中学校があったそうだ。

(在りし日の四万川中学校)



その四万川中学校も、四万川小学校がそうであったように、四万川西、四万川東、上成の学校が統合され、開設されたものであるが、3つの小学校が四万川小学校に統合されたのは昭和59年だが、中学校が一つに統合されたのは、その32年も前の昭和27年の話だ。




日本の中学校の開設は、戦後の昭和22年。当時の中学校は小学校に併設されて開設するケースは多い。

四万川の小学校の統合は、児童の減少によるものだったが、中学校の統合は生徒の増加によるものだったに違いない。




昭和27年、生徒の増加に伴い、四万川西中学校、四万川東中学校、上成中学校が、一つに統合され、この場所に四万川中学校が開校した。

その32年後

今度は、児童の減少に伴い、四万川西小学校、四万川東小学校、上成小学校が、一つに統合され、昭和47年に閉校になった四万川中学校の敷地に、四万川小学校の校舎の建設が始まり、昭和61年に完成した。