皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

梼原町 四万川東小学校

2019-05-26 22:32:18 | 梼原町の学校

梼原町 四万川東小学校

2016/7/28(木) 午後 11:47


四万川小学校を少し奥に入っていくと四万東小学校がある。

でも、同時に存在していた小学校ではなく、上成小学校と四万川西小学校と四万川東小学校が統合して、昭和59年に四万川小学校が誕生することになる。

そしてこの場所を四万川小学校の仮校舎として使用し、昭和61年、現在の場所に四万川小学校の新校舎が完成する。


御大典紀念・これは昭和天皇即位記念の事

同じ物が大豊の岩原小学校跡にもあった。日付はどちらも昭和3年11月。

また高知市内では御畳瀬にもあり、地元の方が大切に保存している。


歴代校長の名前。



学校の歴史



明治5年 学制の発布と同時に開設されている。

過疎化が進み、周辺にあった3つの小学校が統合され、さらにその小学校さえ廃校になったこの場所だが、当時は今とは想像もつかない程、活気に溢れていた。

そして、教育の基盤もしっかりと出来ていて、人材も財力もそれに即座に対応出来るものだったという事が分かる。

当時は現在の高知市内、周辺より、この山間部が遥かに街だったという事だ。


おの大きな木の下で、地元の方だろうか、テーブルを囲んでいた。

ここの土地の方であり、きっとこの四万川東小学校の卒業生でもあるのだろう。

おの大きな木と、体育館はまだ当時のままのようだ。


「在りし日の四万川東小学校」

梼原町 四万川西小学校

2019-05-26 22:31:24 | 梼原町の学校

梼原町 四万川西小学校


2016/7/26(火) 午後 9:38



どちらに行っても峠を越えて愛媛県に着く、そんな場所。

右に曲がれば四万川西小学校跡地に着く。

その先に大野ヶ原がある。197号線からここまで来た事を考えれば大した距離ではないようだ。


そして、近くで地元の方に学校の場所を聞くと、そこから約1500mとの事。

理由は、当時はよく学校まで競争をしていたらしく、約5分だったという事が、その根拠らしい。


そしてもう一度地元の方に場所を詳しく尋ねると、今度はここから約600m先の左手の対岸にある広い場所との事。

どうやらここの地元の方は、現在地から目的地までの距離を正確にメートルで把握しているようだ。

そして、その約600m先に到着。


校舎はもうない、敷地の土も一度掘り返したとの事。


正門


四万川西小学校


石碑


明治19年 開校

昭和59年 四万川西小学校、四万川東小学校、上成小学校が統合し、四万川小学校開校


校庭


学校前の坪野田橋



学校があった頃の風景



昭和45年3月




石垣は当時のまま。

明治19年の開設以前には一体何があったのだろうか・・・

この坪野田橋の土台も昭和45年以前の石垣が転用されている。






梼原町 上成小学校

2019-05-26 22:30:27 | 梼原町の学校

梼原町 上成小学校

2016/7/23(土) 午前 10:50


西川小学校から2号線を北上し、上成小学校に向かう。

沖のバス停。


バス停が新しくなってもそのまま受け継がれていく看板!!


到着。すぐにそこが小学校跡だと分かる木造平屋の校舎だ。


当時の写真


石碑


開校 明治32年 

閉校 昭和59年




上成小学校、四万川東小学校、四万西小学校が統合し、四万小学校となる。



校舎の西側は、上成文化交流館になっている。


閉校後は、民間の企業が利用していたようだ。


教室は当時のまま


懐かしい木造校舎


国旗掲揚台かな


校庭で遊ぶ児童達を見守る二宮さんの視線!!


そしてここにもプール跡はなかった。

まあ、プールがあったか無かったかは分からないが、この小学校の前にも素晴らし天然のプールがある。




あの川で普通に泳いでいたら、「プール」てのは必要無かったのかもしれない。

梼原町 西川小学校

2019-05-26 22:28:51 | 梼原町の学校

梼原町 西川小学校

2016/7/23(土) 午前 0:15


下西の川で地元のおばあちゃんに学校の場所を教えてもらう。

竹の藪だそうだ!!

見えてきた!!


到着




もう校舎は建て替えられている




開校 明治13年




平成19年 梼原小学校に統合







校庭

 
東側の校門付近にはまだ子供達の自転車が!!


プールが無い。

もう壊したのだろうか??

でも、学校の前には天然のプールがある。



はたしてこの学校前に天然のプールがある小学校に、人口のプールは必要だっただろうか??

この自然環境の中で、普通に川で泳ぎ、潜り、飛び込んでいた地元の児童達にとって、水の流れの無い、カルキ臭いプールは必要だったのだろうか??

ていうか、「水泳」の授業そのものが「余計なお世話」だったに違いない。

ましてや街で育ったお坊ちゃま教師ごときに、この自然の川で泳ぎ、潜り、飛び込み、魚まで捕まえていた、この西川小学校の児童に教えれるものなど何一つ無かっただろう。