皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

安芸の集落跡・三軒家4 三軒家の導水路と水田

2019-05-05 22:11:03 | 集落跡訪問
三軒家の現存する民家跡から上流に向かう

名村川の対岸にも耕作地が広がる


そして現存する民家跡の川沿いにあった耕作地に繋がっている導水路跡が出現


奥栗、そしてここ三軒家も名村川からの導水路を作り耕作地を潤し作物の収穫を得ていた。


そして三軒家で一番広い耕作地を持つ地区に着く



緩やかな等高線の中に石垣が広がり



貞享3年の日付の碑のあるその地区だ






石垣の耕作地の川沿いには水田跡があり



道は水田より少し高い場所にある



水田の上部にわざわざ石を積み「道」を作ったという事だ。


そしてその先に導水路の取水口が出現



奥栗の導水路の事を知らなければもしかして見落としてしまっていたかもしれない



ここに堰を作り水位を上げ、導水路に水を流し、ここだけではなく、少し下流の現存する民家跡のある区域の耕作地も潤していた。



よく見れば堰を構成していた大きな石が崩れている



対岸



ここが



こんなかんじに



当然台風などで水位が上昇し過ぎた場合は決壊する事も多かっただろうが、それを前提として作っていたのだろう



この場所においては川魚も大切な食料となる



そこに完璧な堰を作り魚の生活に支障のある環境を作ってしまえば逆にそこに住む人間の死活問題に関わってくるからだ。



逆に言えば水を引き込みたい時にだけ堰き止めて、充分に水の確保が出来れば多少台風、大雨で決壊しても、また必要な時に「田役」で住人総出で修復すればいいだけの話で、特別な材料を必要とするのでもなく崩れてしまった石を積み上げるだけだから、また毎年その繰り返しを行う事でノウハウ、技術の蓄積が有り、それが別の場所で役に立つという事もあったのではと思う。



またそれでいて、この場所を堰き止めるだけで、瞬時に下流の水田、耕作地を潤す事が出来るというシステムが完成していた訳で、それだけの技術力があるのであればここに台風でも決壊しない堰を作る事は充分に可能だった事になるし、あえて大雨では決壊してしまう堰を作り、本格的に堰き止めるのは水田、耕作地に水を引き込みたい時に限定させ、それ以外の時期は自然との調和を最優先していたと考えるのが合理的だろう。


取水口と導水路さえ完備していれば、水を引き込みたい時に「田役」でおにぎり200個分ぐらいだろうか、、、ちょっと豪華な20~30人分の昼飯を用意する事でその日の内に導水路を通って水田、耕作地に水が流れるようになる。


そんな感覚だったのかもしれない。



対岸の耕作地に風呂釜が落ちている



豊かな耕作地の中の一つの石段に石積みの壁を設けて三軒の家が並ぶ場所が二カ所ある「三軒家」に7軒目の民家があったとしても、この導水路と取水口を堰を見れば全く不思議ではない。




それどころか最低でも10軒程はないと間に合わないのでは感じる。




ただ一つ言える事は、当時は現在のように農地を宅地に変更しそこに新しく家を建てるという事は絶対に無かったという事。




それは耕作地の面積が減り収穫量が減るのに、人口が増え必要な収穫量が増えるという土地の広さが限定された山間部では成り立たない話であるからだ。


だから、新たに一家族分の食料が確保できる広さの耕作地を開拓しない限り、ここに限らず当時の地域の民家の数は一定っだったと思う。



堰から更に上流に向かう


ここから先の道は少し川の上部を歩く


また地形的にこの先は導水路の設置が無理な場所だから




ここが堰と取水口のある場所になったとも言える




が、更にその堰の上流もまた水田となっている


道の高度が下がり再び川岸を歩くと、対岸に渡り易そうな石の配置がある




が、なんとここも堰跡だった


この様にして名村川東側の水田を潤し、



水田は一段下がり



そして更にそこからほんの少しだけ低くなっているであろう、対岸の水田に



水路を設置するだけで川の水が引き込めるように両側の石垣の開口が設けられている。


その後、奥栗、三軒家、と呼ばれる事になるこの地に最初に辿り着き、夜を明かし、この地に定住する事を決め、この土地に手を入れた偉大な人物は一体誰なのだろうか。


水田跡から更に上流に進むと、また耕作地と炭焼きの窯がある




ここは名村川からの水の引き込みは地形的に厳しい場所

その代わり、沢の水を利用したそれ相応の広さになっている



この石垣は林道の下に見える



兎追いし、で始まり


山は青き、水は清き、で終わる「故郷」の歌は


この国の史実に基づいた本当の歌なのである。




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そしてここから更に名村川を遡り、馬路に降りていく道の手前の稜線上




大きな切り通しの先にあるゲートの左に階段がある



その先に



神社がある



河又神社



もの凄く風の強い場所だ


昔の「道」であったこの稜線上の道を歩く人々の安全を願って建てられてものだろうか。



榊も交換されている。


三軒家の若宮神社、土地の中央の「神様」、そしてこの河又神社の神様は今でも健在である。

安芸の集落跡・三軒家3 もう一つの三軒家

2019-05-05 21:26:29 | 集落跡訪問
皇紀2678年旧暦の1月4日 三軒家の集落跡、耕作地跡、そして若宮神社を訪問した私は同時にいくつかの疑問を抱いていた。

それは三軒家の三軒の家に対して確認出来た耕作地跡はとても三軒の家だけでは管理しきれない広さであり、また伊尾木ー馬路の往還の道沿いにある集落で奥栗の人も訪れる若宮神社が三軒家にあるという事は、三軒家の民家はあの三軒だけではなく、名村川の耕作地沿いにまだまだ点在するはずである、という事であった。

そして再び訪問し、林道から正確に辿り着けたと思っていたこの「三軒家」の集落跡は、実は地理院地図に記載された三軒の民家が記載された場所ではなく


若宮神社と地図にある民家の記載がある場所の間にに存在する



かつての三軒家の集落跡であったのである







少し誇張しすぎかもしれないが、水辺の宮廷を連想させるこの場所は「平家」ゆかりの土地という事を連想してしまう。





植林のため日差しの具合で著しく表情を変えるこの三軒家の集落跡




後にするのは勿体無い気持ちを、次の場所に行きたい気持ちが先導する




集落跡の上の段にはお墓がある


小松さんだから「平家」由来の地である事は間違いないだろう



日付は「明治25年」 日清戦争の始まる前年の日付で、江戸の時代の方のお墓だ。




安芸・天ノ郷では明治5年の日付のお墓を見た。

そしてそこも「小松」さんのお墓だった。







そしてこのお墓が一番新しいお墓なのである。



この集落跡の歴史の奥深さを物語っている


現在が皇紀2678年、明治、大正、昭和、の次の「平成の時代の30年目」という事をお伝えしてきた。

そして前回進まなかったこの集落から上流への道を進む




石積みの道は今も健在で


その先にこの規格の石垣の耕作地が広がる



耕作地跡の中央にはこの土地の「神様」が祀られていて



菱形の御神体



御供え物も置かれていたようだ



榊の状態からして若宮神社と同じように現在も訪れる方がいらしゃるようだ


前の段の枝葉をきれいして、その後訪れた者がいるという形跡を残してきた


もしかして、初めてこの地に足を踏み入れ、その後のこの場所ので生活の礎となった方を祀られているのかもしれない。







耕作地の石段の中に湾曲した階段があり



なんと



なんと、現存する民家跡がある


前の耕作地には耕運機が残されており



そしてこの場所も、住居区域を石積みで3つに区分けし、三軒の家が並んでいるのである



この三軒家の近くを久木発電所からの電線が通っていたが、奥栗を含めこの三軒家に電気が供給される時代が訪れる事はなかったそうだ




しかし、これはどう見ても「電動」


ワンパス精米機



佐竹製作所


構造躯体も残っている


瓦葺きの家だったようだ




そして先程の集落跡はこの構造躯体が完全に風化してしまう程古い時代のものという事になる


真ん中の家



二軒とも瓦葺きだった


そして現存する民家跡




●前回から修正し現状はこのような状態という事になる

(昭和50年の航空写真)


ここは馬路ー伊尾木の間に存在する名村川沿いの小都だったのかもしれない




同じ平家であったとしても、藤ノ谷の集落跡は岩盤の上に築かれた要塞、砦、一方の三軒家は水辺の宮殿、小都のイメージがあるのだが、どちらにも共通する事は条件の厳しい場所でありながら人々が仲良く豊かに安全に生活出来るように皆が協力し、想像を絶する時間と努力、勇気、知恵を駆使し、困難を乗り越えた先に成功を獲得した集落であり、決して誰でも簡単にそこに辿り着いたからと言ってそれだけで生活していける場所ではないという事。


その様な場所に、例え無人になり風化が始まっているにしろこの様な場所があるからそれが魅力的である事は、決して光景としてそれが美しいから・・という単純な理由だけではない。


最後の方は隠居生活をされていたそうで



このような造りでも冬を過ごせる程 炭火は暖かい


安芸市になったのは昭和29年


これが産業廃棄物とは全く無関係の日本の建物の構造



かつてはこの前面に豊かな耕作地が広がっていた



もしかして時代の絞り込みが出来るかも



電気は来ていなかったが送電部品だろうか



植林がこの民家を雨風から守っているとも言える




植林、そのおかげで一定期間で完全に風化してしまう民家跡を、本来の自然な状態ではあり得ない程存続させているという事実は否定出来ない



民家跡の裏には上に登る坂道があり



屋根材は何だったのだろうか


その先にはお地蔵さんがいる


民家跡が完全に風化した後も、かつてこの場所に人々の生活があった事を後世に伝え続ける事だろう



名村川沿いの耕作地の中にある石積みで区分けされた場所に並ぶ三軒の家が二つ隣接するこの場所が、人々に「三軒家」と呼ばれるようになったのはごくごく自然な流れだったのかもしれない。

安芸の集落跡・三軒家2 若宮神社

2019-05-05 21:01:11 | 集落跡訪問
皇紀2678年 旧暦の1月4日 日没3時間前

三軒家の集落跡の上部の林道を巡回中のパトカーを運転する警察官がそこで目撃したものは、三軒家の集落跡から林道に這い上がってくる俺の姿だった。

そして公権力を使用した職務質問の内容は、この付近にはまだまだ耕作地跡、民家跡が点在し、三軒家の近くに神社があり少し前まで看板があり道も分かっていたが最近は分からなくなってしまっているという事、戦前戦後の頃にこの近くで殺人事件があったという話、花周辺に興味深い場所があるという事、等々であった。

そして日没二時間前

奥栗にて前回はいなかった果樹園の所有者に話を聞く事ができ、その神社への正確な行き方を教えて頂く事ができた。


そしてその入り口の場所とは、複雑な地形の稜線上を不規則に進む林道にあって比較的特徴の掴み易い100m程の二本の直線がⅤの字の形に繋がっているという事から「100Ⅴコーナー」と業務上そう呼ばれているまさしくその場所であった。



そこに立ち止まる事が出来れば神社への降り口はすぐそこにある


その後、新築したそうで当時は林道から屋根が見えていたそうだ


180秒もかからない


奥栗から三軒家までの道はなく(地形的な理由で)、奥栗からその神社までは川辺を歩いていくしかないと奥栗の方に教えて頂いたが


まさしくその通り、神社へは川辺の階段から上がる形になっている


木製の鳥居


まだまだ訪れる人々がいる


若宮神社





再建は昭和61年


宮司1名と8名の名前



お正月の片づけの跡だろうか

行事の後に飲み食いをする事もあったのだろう



裏には瓦ば積まれていて





この瓦も当然、奥栗の隧道を抜けて運ばれてきたものだ



竹ほうきがあったので



当然、掃除をしてきた


また奥栗から三軒家に向かう道は、正確には導水路を確保するためのダムまでで、そこからは川辺を歩くしかないとの事だった。




だから下流のダムまで川辺を歩いて行ってみよう

本当に道は無いものの(地形的に無理)、右に左に素敵な川辺歩きだった。

三軒家の夏祭りに向かう人々の道を歩いていると思うと、当時の人々の生活を垣間見ているようだ。

そうこうしていう内に、なんと「橋」が見えてきた



いや、しかし何か違う




これは堰だ


奥栗方面への導水路も完全に崩壊している





正面から



その先は天然のプール



名村川には明治時代からの発電所はあるがダムで水堰き止める発電所ではない。


名村川は隠れた清流なのである。

安芸の集落跡・三軒家1

2019-05-05 20:17:14 | 集落跡訪問
皇紀2678年 旧暦1月4日 安芸の三軒家に向かう


現在の林道は、その後作られたもので、(伊尾木から奥栗の隧道まで。そこから馬路までは昔の道を転用)当時の道は伊尾木の花から奥栗の隧道を抜けるルート、名村川沿いではなく山の中腹を進むルートであった。

また近くを電線が通っているから三軒家にも電気の供給があったと思われる。

(地理院地図「手結」昭和35年)




そして現在、三軒家という地名が地図にも載らない時代にはなり多少の時間が流れたが、その時間はどんなに少なく見積もっても400年を超す三軒家の歴史に比べればまだまだごく僅かの時間でしかない。


三軒家に向かう林道はどんどん高度を上げ安芸市内が一望できるようになってくる。




時には鹿と見つめう事も



そしてこの時は奥栗の隧道も接続道も分かっていなかったので



複雑な地形で特徴も掴みづらい不規則に進む林道の中で、比較的識別し得そうな100m程の直線がⅤの字に繋がっている区間を探す



そして前回を含め2回目の復路で確信の持てる地点を確認。

そこから誤差修正し降下

±50mの精度で三軒家に着地


そしてそこは川辺の畔にある別荘地のような場所だった



夏休みは毎日のようにこの川辺に子供達の姿があった事だろう


川沿いの小道から


イメージ 9






その小道は自然と調和しながら現在もその姿を留めている



対岸には集落跡より広い耕作地跡が広がっている




集落跡



各段は石の階段で繋がっていて




川沿いの小道



この先には進んでいないが少し川上の地区に接続されているはずだ



民家跡は数段ある石段の中の一つの段にある




瓦の刻印は確認できない

しかし安芸から花を通り奥栗の隧道を抜けて運ばれてきた事は間違いないだろう



生活の跡




釜と瓶



時代の絞り込みが出来る情報を含むものは無かったが、奥栗、枯井谷、椎山より古い時代のものでありそうだ。



まあそれら事については電気の供給の有無も含めて次の機会に確認したい。


なんといってもこの直後に地元の方二人からいろいろな情報を頂く事が出来たから。


周辺各所の状況を把握した上で具体的な話を聞くほうが内容もより明確になるだろう。


そしてなんといっても、この三軒家を「三軒家」と呼ばせしめていたのは


集落の住居区画の一段を3区画に分けていた



この石積みの間仕切り



山間部の中腹にあって陽当たりが良く、緩やかな川辺の畔の両岸に広くて豊かな耕作地があり、その綺麗に区画された石段の中の一段に石積みで3つに分けられた土地があり、そこに仲良く3軒の家が並んでいる



その姿がいつの間にかこの場所を「三軒家」と呼ぶ事になったのかもしれない



また土地の広さが限られているこの山間部で耕作地を潰して家を建てる事などは、それこそ死活問題で、綺麗な川辺の畔に民家が3軒があり、この大自然の中で農耕生活を送っていくという生活様式そのものが長い時間を掛けて形成されたこの場所での生きる術、秩序であったのかもしれない。



そしてこの三軒家に四軒目の家を建てる事なく別の場所に新たな生活の地を求めて旅立った者にとっては、ここは忘れがたき美しいふるさと!!


そしてこの集落跡から名村川の少し上流にも等高線の緩やかな広い場所があり

下りてみると

暗くなりすぎて写真が撮れなかったが、広い耕作地が広がっている


そしてその耕作地の片隅に



陶器が落ちていて



貞享三年四月 とある


西暦1686年だ


時代は「江戸」 アメリカ合衆国はまだ建国されていない

お隣の支那は満州族が支配する清朝だった時代

一体いつから、そして何故、この場所に人が住むようになったのか、知りたいものである。


帰り道 奥栗の隧道を少し進んだ場所からの安芸市内

かつて奥栗、三軒家に住んでいた人々も夕暮れ時に奥栗の隧道を通る時には、多少明るめだが、これと同じ景色を見ていたはずだ。


イメージ 33


では一体どんな気持ちで見たいたか・・・って。

違う時代に住む我々には簡単に理解できるようなそんな単純な話でもないだろう!!

そして時は流れ、奥栗、三軒家の記載も地図から消え、多くの人々が通った奥栗の隧道も新しい時代の林道という概念に押しつぶされようとなっている現代。

しかし

それでも一つだけ確実に言える事がある!!

それは花火大会の時は極上の一等席であったという事だ!!!!