皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

安芸・末廣

2019-05-15 19:43:43 | 集落跡訪問
稗尻と末廣の分岐の場所「ニコンバ橋」




またこの付近も「ニコンバ」と呼ばれている




そしてこのニコンバ橋から稗尻に向かう道は最近(戦後)になって出来た道らしい




また現在「立花」と呼ばれている地区は明治末期には「立花谷」と呼ばれていたが



「地理院地図・手結」明治43年

その後「橘谷」となり



「地理院地図・手結」昭和8年


現在は「立花」となっている。

また稗尻の小学生が栃ノ木小学校で、末廣の小学生が穴内小学校に通っていたのは当時はそれぞれの地区が井ノ口村、穴内村だったからで、穴内村は昭和18年に安芸町となり井ノ口村は昭和29年に安芸市となり現在に至っている。

ニコンバの民家を抜け末廣に向かう



早速道に並走する導水路跡が出現

かつてはこの上流に3カ所の堰があり水位の上がった穴内川の水が導水路と通り周辺の耕作地を潤し、植林に埋もれてしまった現在とは全く違った豊かな耕作地が広がっていた。

そしてその川の堰も現在は






この穴内川の流れも増水時は全く表情を変える。しかも植林となり保水力の低下した山が流す水の量は激増し、原生林時代の想定量を越える。




この先の道は導水路と並走はしていない




ニコンバ方向への導水路



かつては田植えの時期になると住人総出の「田役」でこの導水路の手入れをしていた事だろう。

そしてお昼は沢山の握り飯と普段は食べられないちょっと贅沢なおかずも提供されていたそうだ。 そしてそれに釣られて子供達も重労働だけど参加してという話も聞く。

まだ末廣ではないがお地蔵さんがいる



その上には



若宮二社八幡宮




明治41年の日付



またこの場所も「平家」の末裔の住む場所である


お地蔵さんの下の川沿いの道には小さな掘割があり



ここに橋を架け対岸に渡っていたようだ


対岸の岩が橋の架台になるように上手に削られている



きっと簡易な橋で定期的に修理交換の必要な橋であっただろうが、かつてはここに木製の橋があり人々が荷台に荷物を載せこの橋を渡っていた光景を想像するとちょっとワクワクするのである。


対岸に渡ると



地図には無いがここにも民家があったようだ


ここは奥ノ谷からも道の接続があり、既に廃村となった現在においても末廣は奥ノ谷からの道を通って行くという事が普通のこの地域の常識である。


末廣に近づいてきた




対猪対策、現在は休業中







電気は来ていたようだ




サッポロビール





ある程度の時代の特定は出来るかもしれない



いつもの燃料タンク

周辺の集落にあるものと同じものだ



建物は崩壊しているが当時のお風呂がほぼ完全な状態で残っている




この地域は宇留志、板渕とほぼ同時期に無人になったと想定されるが、その十数年程前までには最新式の住宅が建てられる程の生活や意識、時代背景があったという事だろう。




五右衛門風呂も私が小学校低学年のころまで婆ちゃんの家にあった事を覚えている




またユニットバスの原型になったとも言える形だ



これは洗濯機だ



しかも一層式、、ジェネラルだからナショナルだろうか、、




こんな洗濯機ってあったのか???



集落の石垣



瓦の刻印は確認出来ない



そして酒樽が落ちている




そして宇留志の集落跡で見たものと同じものと思いきや・・・・




当時は瓶や樽に量をいれてもらう時代だったという事だろう


コンクリ製の肥溜め




あの時代背景の中においても、ここには最新式の民家が新築されていたようだ


その先に進む

土地も開け陽当たりも良い、この辺りが末廣の中心地だろう




沢の土砂が民家を埋め門柱だけが顔を出している




今でこそ犬は「ペット」いう概念を持つ人が多いが


本来、犬は人間の「友」であり「仲間」である。








そしてここが末廣一丁目一番地



そして広い場所も人々が石垣を積み上げ造成した場所である






対岸にも広い耕作地跡がある




また林業の作業小屋が半壊した状態で残されていた


そしてその少し上流にはこの土地の主が住んでいる



ここから稗尻に道が繋がり、畑山には朝出て夜着く距離だったそうだ。




その道を探すべく末廣の沢を登る



西陽があたる陽当たりの良い場所には耕作地跡が連なっている


それらしき「道」をみつけた。


その「道」を進むと「稗尻」に着く事だろう。


また時間がある時に行ってみたい。




この集落の民家の灯が消えてもう半世紀。







しかし人類の悠久の歴史の中では、これが最初ではなく最後でもない筈だ!!

芸西・宇留志7「再びこの地に生活の灯が付く可能性は無限大」

2019-05-15 09:59:10 | 集落跡訪問
集落が形成される場所は、当然そこにそれ相応の理由、根拠の有る場所だからである。

人の流れ、物流経路、地政学的な条件、時代背景等様々。

このウルシの場合は久重を中心とした地域の関連性の中で、久重ー大屋敷ー宇留志ー白髪が昔は広い道で繋がっていたという条件の中で発展してきたと言えるだろう。

(明治43年の地図・この時は久重ー大屋敷ー宇留志ー白髪が幅2m以上の道で繋がっている)


その後、昭和初期には安芸野川沿いの道が開発され、人の流れ、物流経路が変わり、

久重ー大屋敷ー宇留志ー白髪の道は幅1m以下の道に格下げになる。

この事で、ある程度の地域の情勢に変化が発生したはずだ。

(地理院地図・昭和11年発行)



また範囲を広げて見てみると、それ以前から畑山ー椎山・藤ノ谷ー上尾川ー板渕ー大屋敷ー久重が一直線で繋がっていた。


これは最初に久重、畑山の繁栄があり、その後、その道中である椎山・藤ノ谷、上尾川、板渕、大屋敷の集落が派生してきたと考えるべきだろう。



上尾川ー板渕を繋ぐ道が一気に400m登り、400m降りる最短距離で繋がっている事からも、この地域においては畑山と久重が重要な役割を持ち周辺に影響力を持つ中核的な集落だったと言えるだろう。


また仮にその推測に若干の的外れ的な部分があったとしても、少なくともこの集落が一直線で繋がっている事は偶然ではない。

各集落が独自に成立し、その後道で繋がったという事ではなく、人の流れがあり、物流経路があり、やがて公共性のある「道」となり、その界隈に集落が作られていったという事になる。

では何故その後、久重ー畑山の道の界隈に更に集落が増えていったかというと、当然、畑山と久重が発展し、その事が周囲に影響を及ぼした結果という事になる。

耕作地が広がり、収穫量が増えると人口が増える。

集落は発展し更に耕作地面積を増やす事になるが、やがて物理的な限界が来る。

となると、耕作地面積に対する収穫量に対する人口、から溢れてくる人々には新たなる生活の場所が必要となってくる。

ではいきなり知らない未開の場所に行って孤立無援の生活をしなくてはいけなくなるかというと、そうではなく、周辺の安定した生活が築けそうな場所を選んで、そこを開拓、開発する事になる。

では一体どのような場所を選定しそこで生活を始める事になるか。

ここで言える事は、別に平坦な場所の多い地域という事は絶対条件ではない、という事。

開拓し耕作地に転用するのが容易な平野部は、あるに越した事はないが、必ずしも絶対必要な条件ではない。


まず第一に必要なものは「水」と「陽当たり」の確保出来る場所という事である。

これが無ければ、どんなに平坦な場所でも、急斜面でも始まらない。

そして第二に石垣を築きインフラを整備するための「石」の確保が出来る場所という事である。


それで言えばウルシ谷川沿いの集落は、山の中腹にあり急斜面の中にある比較的平坦で、水脈があり陽当たりもあり、そして石垣の石の採掘が出来る、欲を言えば陽当たりがもうちょっと欲しかったぐらいの条件の適した場所だったという事になる。

水脈にあるこのウルシ川の沢沿いだけ、その他のウルシより石垣の石が極端に大きい事からも、この周辺がウルシの石垣の石の産地である事が分かる。

運搬の困難な大きな石をわざわざ遠くに運ぶ必要はなく、産出した「ここ」で使ったという事になるし、人間が一人でも運べる大きさまで岩盤を砕き、一つ一つ手運びでそれを運搬し、長い時間を掛けて、何世代も掛けてこれらの集落、耕作地を築き上げてきたという歴史的な経緯が思い浮かぶ。

そしてなにより開拓、開発が軌道に乗り自立した生活が出来るようになるまでの間、近くの親族からの支援が容易な場所で、主要道路沿いで物流経路も確保出来ていた場所、という事であったのである。

そしてまた、新たに開拓、開発をするのだから、ネガティブな要因で村のはみ出し者が出ていった、という事ではなく、それを期待された、その期待に応えられると思われる選ばれし者が、新たな場所に足を踏み入れたという事になる。

とは言っても、場所は実家はすぐそこ。生活が安定するまで実家に世話になる事も多かった事だろう。

何故なら、その実家のある生活の安定の確保できた集落自体が、かつては同じような開拓、開発という歴史を経て存在しているからである。


と、まあ、そうシリアスに考えながら、実際は繁栄している集落から新たに耕作地を各地に開発し、水、石、陽当たりの確保出来るこの場所にも耕作地が広がり、人口が増え、新たに民家を建てるために耕作地を潰す訳にもいかないので、「じゃあ俺ここに住むわ!!」となったのだと思うが!!

そしてその後さらに時代は流れ、山道を人が歩いて移動する時代から、平坦な道路を自動車に乗って人が移動する時代へと変遷し、


人の流れ、物流経路が完全に新しいものとなり、現在の状態に至っているのである。

この周辺にあった久重小学校、羽根小学校、羽根小学校仲木屋分校、白髪小学校、上尾川小中学校、畑山小中学校はそのような時代の流れ、変遷の中で歴史の幕を閉じる事となったのである。


(昭和50年のこの周辺の航空写真)


そしてまた、この赤野川東の宇留志の集落跡、民家跡も、そのような歴史の流れを裏付ける要因を持つ場所である。



等高線から分かるように、上に登れば平坦な場所が広がっている


さぞかし美しい集落だった事だろう



民家跡、そしてこれはお風呂だ



建物は完全に崩壊しているが、この部分だけはほぼ完全な形で残っている



この事からの、この場所が、この宇留志で最後まで人の生活のあった場所であると言えるだろう。


五右衛門風呂と言うが、これは平成生れの日本人に通じる言葉であろうか??


これは肥溜め跡



生活排水は全てこの肥溜めに流し込み、それを肥料として利用する完全リサイクルシステム。

そのために昔は蟯虫、回虫がいて「虫下し」なんてものが必要だったが、では現在の当時にはあり得ない「お皿に付いたしつこい油汚れ」を洗剤で洗う生活をしている現代人と、一体どちらが健康的な生活をしているのだろうか。

そして輸入される大量の肉を食べるようになった現代人。

肉食を否定するつもりはないが、その量の「肉」を生産するために「その数倍の量の穀物」が必要で、「その数倍の量の穀物」を食べさせて「肉」という商品にするために無数の「命」が「生産」され「惨殺」されているという「事実」を現代の日本人は一体どれだけ認識しているのだろうか。


さらに言えば「動物の体温は人間の体温より高い!!!」のである。


動物の体温で流動している物質が、それより低い人間の体温でも全て流動出来るとは限らないのである。


ガスボンベ



当然薪を使った生活も続いていた事だろう。


そしてこれは宇留志の人間にとってはただ単に「便利な物」であったに過ぎない。

しかし、現代のガスを利用している日本人にとっては、ガスは生活必需品なのである。

昔の人間はガスがあれば「より便利」であって、別にガスが無くても薪が有るので真剣に困る事はないが、現代の日本人は「ガス」が無いと真剣に困ってしまうのである。

風呂も沸かせないし飯も焚けないのである。

そういう意味では日本人はその部分において弱体化してると言えるだろう。

勿論それを凌ぐ文明の進化が存在しているのだが。


お風呂がもう一つ




ウルシ谷川沿いの集落より長く続いた場所である根拠

また、もしかしてあの「集団移転」というものは「完全」なものではなかったのではないだろうか・・・・・


周辺地域共通の備品




炊事場と水瓶



おそらくこの赤野川東の宇留志には8軒程は民家があったと推測できる



そう、自転車なのである




この自転車に乗って白髪まで行っていたのか。?




だとすると、白髪までの道は自転車で行ける道だったのだろうか。

等高線からして厳しい気もするが?

それとも赤野川を渡り林道まで上げて赤野まで買い物に行っていたのだろうか??

TAKASAGO



これで時代背景を特定できる!!

(情報求む!!!!)





そして三輪車まで



この山間部にあって、自転車で移動し、小さな子供が三輪車に乗れるまでの場所であったのである。







このマシンのスペックは??






そして今までの宇留志では想像もで出来なかった広大な耕作地跡が広がる



収穫量が豊富で養える人口の数が周辺集落より遥かに多かったという事。


そしてこれは、ウルシ谷川沿いの集落が、久重と、この赤野川東の宇留志の繁栄の間に誕生したという事を意味するだろう。


時代としては久重や畑山の発展、繁栄の周辺地域の影響の結果としての出来事であろうが、それは逆に、まだ単独では生活の安定しない開拓、開発の過程で遭遇する困難を乗り越えるための生活の担保になる存在でももあったはずだ。





そして8軒程の民家があったとしても、ここに住むであろう人口の数倍以上の食料の確保を可能にするこの広大な耕作地の収穫量が、周辺地域への更なる発展の礎になったはずだ。



北斜面ではあるが穏やかな勾配の耕作地は高度もあり西日を受けて長い日照時間を確保していた。



そしてその食料供給量の確保が、更なる耕作地拡大の原動力になる


そして積極的な理由で計画的に開拓、開発される耕作地は機能的で芸術的でもある。



だからこの様な耕作地跡が完成してしまう。





また4月の初旬の夕方にあってこの陽当たり




それは西陽を受けて温度を蓄積した石が陽が沈んだ後も発熱し、作物を冷害から守るという知恵でもある。


そして各地で見てきた部品を搭載した機体の本体がある



これが原型だ



TAKAKURA




搭載された回転体が単独で残っている事と、搭載した本体が原型を留めて現存している事が、他の集落と、この集落とのタイムラグになる。




地図には反映されないレベルの小高い場所が耕作地の中にあり



お!!!!!




小屋だ!!!



生活拠点をこの場所から移した後も、ここの耕作地を運用してた証拠になるだろう



小高い場所に上がる石段があり



上に繋がっている



耕作地の中の小高い場所は耕作地ではなかったかもしれない



それよりかは何か別の意味を持つ場所だったの様に思える




そしてそれは、この耕作地跡、民家跡のある場所において、当時の生活に一定以上の「余裕」があった事を示すものになるだろう。




この集落への往路は長靴を脱いで裸足で川を渡ったが、復路は二本の竹を対岸に渡し「沈下橋」にして渡る。



そして集落から道なりに降りてきた道と、簡易沈下橋(竹製)と、この登り口が一直線になっている。



間違いなく丸太を組んだ簡易な橋と、もう完全に崩壊してしまったが、その橋台があったはずだ。



平成30年度のこの周辺の状況は(人口統計ラボ)




・道家


・安芸郡芸西村道家
人口総数6人 世帯数5世帯 男3人 女3人

・国光


・安芸郡芸西村国光
人口総数1人 世帯数1世帯 男1人


・久重


・安芸郡芸西村久重 
人口総数4人 世帯数2世帯 男2人 女2人


遥か昔にこの地に人が住むようになり、道ができ、耕作地、民家、集落が造られ、人々の繁栄があり、各地に建てられた小学校では子供達の歓声が響き渡っていた。


そして時代が変遷し、住む人が移動し、人口が減り、小学校が閉校となり、子育て世代が積極的に生活基盤を置く理由を失った場所は、更なる人口減少に拍車がかかり、遂には無人の場所となるのである。


そして現在残されているのは、道と、集落跡と、民家跡と、人々が生活をしていた時代の痕跡のみ。


でもそれは、地球の長い時間の流れの中で、今まで全く人間の住んでいなかった場所に、突然何かの理由で人が住み始め、人間本位で言えば人間の苦労と喜びの交差した大自然の中の小さな光の点のような時代の存在。


そしてまた我々の確認できる近未来に、この場所に再び人々の生活が始まる事は殆ど予想出来ないが、我々の知らないずっと遠い未来に、再びこの場所の人々の生活が始まる可能性は無限大に広がっているのである。