皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

春野・芳原の竹林道

2019-05-20 21:39:51 | 集落跡訪問
ここはかつての春野東小学校の児童達の通学路


現在はもう地元の方にさえ忘れ去られようとさえしている道



当時はさぞかし美しい光景だった事だろう。

そしてそれがごく普通の当たり前の事だった事だろう。

でもこれは廃村になった山奥の集落の話ではなく、国体、インターハイ、プロ野球、サッカーチーム等のキャンプさえある春野運動公園のすぐ近くで、南ニュータウンの横で、地理的に言っても春野東小学校の児童達の通学路としても十分あり得る道であるのだ。

そこへは、この辺りから


知ってる人にはすぐわかる場所

そしてこの脇から


道路の下にトンネルが造られている



マジで殆ど利用されてないようだ



何故このような道があるかというと、道路を作ったついでにトンネルを作ってもらったという事ではなく、道路造成でかつての往来の道が潰れるから支障の無いように行き来が出来るように造成してもらっている訳ではあるのだが、その新しく作られた通路がこの様な状態であるのは寂しい事だ。

グラⅢかアフターバーナーの世界だぜ!!


その先にもミニトンネルがある


トンネルから振り返る

ここは格好の遊び場になりそうなのに、更にこの先にある場所は公園や運動場には絶対無い世界なのに、もしかして地元の子供達はこの存在に気付いていないのか??

余計なお世話かもしれないが、自分が小学生だったら毎日のように遊びに来てしまう区間である。


そして、ここから先は昭和50年代以前の光景


植林もある原生林、竹林に囲まれた昭和はおろか、大正、明治、江戸さえも偲ばせる状態




と言いつつ、すぐに昭和が顔を出す


かつての耕作地が自然の姿に戻ろうとして、まだ半世紀は経っていない状態


その先に民家が一軒だけある


車道の接続は無い

周辺は綺麗に整備されている


その先にあるアスファルトの歩道を東に進む


かつての人々総出で造った切り通しを超えると


南ニュータウンが見える

そしてすぐそこは学校への通学路


引き返し民家の前を西に進む


舗装はすぐに終わり



昔ながらの道


昔ながらの風景



昔ながらの光景


かつてはこの道を歩いて春野東小学校に児童達が通学していた

また春野東小学校が出来る前の芳原小学校の児童達が往来していた道でもある


ここから南に行けばすぐに県道がありコンビニまであるのだが


この反対側のの人達が、もうこの道は利用する人もいないという事で整備、掃除をしなくなったのだ。

別のルートで引き返そう

当時の山越えの道がそのままの状態で残っている


竹林の中を道が通っている


この道が普通に利用され、整備、掃除をされていればこれがどれだけ素晴らしい光景になる事か!!


そしてその素晴らしい光景が、当時は普通で当たり前だった


ミニトンネルが見えてきた


ここを抜ければまた一気に平成の時代に逆戻り


地元の方が、やっぱり整備、掃除する事にした!!ってなる事を願う。


また子供達がこの場所を見つけ、お気に入りの場所になれば自然に大人たちが動き整備される事にもなるだろう



南ニュータウンのグラウンドで遊んでいる子供達よ

すぐ近くにこんな場所があるんだぜ。


余計なお世話かもしれないが・・・











また



芳原の集落を歩いてみると





芳原の長寿桜





10月に来てみよう

芸西・白髪「民家跡と宇留志への道」

2019-05-20 10:50:02 | 集落跡訪問
白髪小学校を再訪したのは、当時の道で宇留志まで行ってみたかったから




「地理院地図・手結・昭和33年」


当時のこの周辺の集落はこの様な山道で繋がっていた。

また昭和初期に赤野川沿いの道が開発されるまでは、白髪ー宇留志ー大屋敷ー久重、は2m幅以上の道で繋がっていた。

昔は安芸から久重へ、久重から安芸へ向かう、馬や牛、荷台の姿がこの白髪にあったはずだ。

早速行ってみたいが、まずはその道から探さないといけない

しかも再訪では前回見えていなかったものが見えてくるもので・・・

お風呂跡


五右衛門風呂


平家の落人とは言うが


源平合戦とは「桓武平氏」と「清和源氏」の末裔の戦いだった


また、この民家跡は我々の次の世代、未来の日本人にも、ここにかつて人々の生活があった事を伝える事だろう


それは、単に「昔はこんな場所にも住んでる人がいた」という単純な話ではなく、800年以上昔の「桓武平氏」と「清和源氏」の戦いに根拠がある事を理解すると、またこの国の歴史の捉え方も変わってくると思う。

また、現在の日本の国旗「日の丸」は白地に赤だが、それは白地に赤の旗を持つ源氏と、赤地に白の旗を持つ平家の戦いでもあって、もし平家が勝っていれば、現在の日本の国旗は「赤字に白」の国旗になっていたかもしれないのだ。

そして、支那との貿易を優先するグローバリストの「平家」と、外国からの悪しき風習を排除しようとするナショナリストの「源氏」の戦いでもあったのだから、勝敗の行方次第で日本のその後の姿を大きく変える戦いでもあった。


廃村から半世紀、まだ現存する民家跡があるとは思っていなかった


お風呂跡


イメージ 8


漆喰壁



そしてまた特記すべきは、宇留志、板渕、白髪がほぼ同時期に廃村になった集落でありながら、白髪の集落の建築物のレベルが宇留志、板渕より一歩近代的な事

特にお風呂は、宇留志、板渕が昔ながらの五右衛門風呂でありながら、白髪は五右衛門風呂でありながら、現在のユニットバスの前身となる近代的なタイル張りのお風呂のスタイルにほぼ近いという事

でありながら囲炉裏があったりして


移転先での石油ストーブでの生活は予想外に寒いものだったのかもしれない

ガスコンロ

ちょっと新し過ぎる気もするが


これも


でも、今となっては当時を反映する貴重なもの


この更に奥にも赤い車が放置されているが


今となっては、それは場所を特定するための重要な目印の役割を担っていたりもする


ダイハツ・ハイゼット

水路跡


道に埋められた上水管らしきものあり



蛇口をひねれば飲み水の出てくる時代も到来していた


決して水に恵まれていた訳ではなかったようだが



この設備が完成して、環境はかなり改善されたはず。



でもそこから20年も経たない内に集団移転となる

更に集落の道を北上すると


白髪神社跡


もう石垣があるのみ


神様も一緒に移転したらしい。

ここから先は細い道が続いていて石垣等で整備された部分もあるが、どうやら三辻森にも宇留志にも行く道ではないらしい。

かつては2m幅で白髪ー久重を繋いでいた道が、まだ姿を留めている事を期待して南西に下る

やはり道はまだ存在していた

道は水路のある道を横切り、耕作地を抜け

大きな切り通しを進む


集落を結ぶ幹線道として整備された道だ


幅のあった道だけあって崩落部分は殆ど無い


耕作地を横切り



西向きの陽当たりの良い場所には耕作地跡が広がっている


途中にある耕作地の中で、道は若干不鮮明になってくるが、幹線道として出来る限り広く真っ直ぐに設計されているようだ


赤野川の水の音が大きくなり、宇留志はもうすぐそこだと思うが、進路の確認、修正で時間が掛かり過ぎて作戦撤退ラインとなってしまった。

(後日、再訪予定)


10月目前のこの時期のこの様な場所にでの夕暮れは、ほんの少し前に「花火大会」があったとは思えない程に早い。


引き返すと、斜面を掘削して作ったと思っていた道は、石垣を気付いて造り上げられた道だと判明


若干、勾配もあり、この様に大きく方向を変える場所もあるが、当時の人々にとってはなかなか広く、快適で、そして特に現代人にとっては素晴らしい景色の幹線道だった事だと思う。



芸西に帰る道(崩落個所)からの芸西(平成30年9月下旬6時半頃)


白髪の集落は、海沿いに住む人々が、山奥にまでその生活範囲を広げていったという場所ではない。

源平合戦の結果として瀬戸内海から四国山地を越えて、この場所に桓武平家の人々が住み始める事となった。



そしてその800年後、山を降りて海岸線沿いの人々と一緒に暮らすようになった。