●訪問は平成30年3月末
室戸羽根小学校中峯分校跡は当時の事を知っている地元の方二人と話が出来た事、そしてなにより丁度その近くで地籍調査が行われていて専門の人と話が出来たという偶然が重なって確定する事が出来た。
とは言え、具体的に明確に中峯分校の位置を裏付ける公的な資料が存在しない中、本当にあの場所で正しいのか??という一抹の不安もあり、その正確性をより確立させるために、そしてあえてその場所を否定する材料の存在の有無を確認する意味も込めて再訪した。
結論としては、あの場所で間違いなかったのではあるが。
《根拠としては、まず学校建設にあたって当時の羽根小学校の児童が瓦二枚を背負って現場まで運搬の協力をしている。現在その瓦葺きの建物を学校跡としているが、もしその他に瓦葺きの建物跡があれば、そこも学校跡の可能性を持つ事になる。しかし結果としては、その他に瓦葺きの建物の跡は存在しなかった》
「羽根村史」より
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僅かに記載されている中峯分校の貴重な資料だ
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昭和24年 開設
昭和25年 男子8名 女子6名 合計14名 出席率85.08%
昭和28年 男子6名 女子1名 合計 7名 出席率96.56%
昭和29年 男子8名 女子1名 合計 9名 出席率96.29%
昭和38年 休校
昭和40年 廃校
あの時代に本校の羽根小学校より出席率の高い分校であったとも言える。
ーーーーーーーーーー
前回は地籍調査のために林道を整備した直後ではあったが草木の生い茂った季節でもあったため、この季節に行きたいと思っていた。
林道が整備された事もあり、その後この道を通る車があるようだ。
前回より少しだけ踏み固められ、少しだけ走り易い。
そして学校跡直前の稜線上の道から中川内の集落が見える。
場所的にも地元の方の言われていた「運動場から中川内小学校が見えていた」という場所で間違いないようだ。
一段下の「あまちゃずる」の倉庫のある耕作地跡を過ぎ、分校跡に到着
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目的の一つとして、この場所以外に瓦を使った建物跡を探す事。
当時の羽根小学校の児童が分校建設の為に中峯まで二枚の瓦を背負って建設に協力した話を教えて貰い、その瓦がここにある事が、ここが分校跡であるという根拠の一つになっている。
もし、この場所以外の場所に瓦を使った建物跡があれば、「もしかして・・」という事にもなる。
が、結果としては瓦葺きの建物はここだけだった。
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(中峯分校跡地)
石垣跡がある。
しかし石垣の石は小さく、今まで見たきた集落跡の石垣跡と比べると規模も小さく、また構造も簡易である。
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ピンボケであるが水道栓。
導水管を引き込んだ先の水栓。
離村後のものだろう。
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送電部品
電化製品の痕跡はない。
しかしそれはこの集落の性格性から言って、無かったのではなく、離村、下山するにあたって、次の生活場所に使える物、利用できるものは全て持って行った、という事になるのだろう。
学校の開設から16年後に廃校を迎えた中峯分校。
住み慣れた場所に、その土地の者が隠居生活をする時間もなかった、そんな短い時間の歴史だけがこの場所に残っている。
でもここは「戦後の仮ぐらしの場所」!!!
確かに大東亜戦争で軍事的には敗北を喫した日本は、当時の世界からは「もう戦前のような世界の一等国としては、二度と立ち上がる事は出来ないだろう」と言われていた。
そしてこの「中峯」は、その敗北後の日本人が食べていくために新たな耕作地を求めて開拓された場所 ・・・・・のはずだった。
が、日本は不死鳥のように蘇り、昭和39年にはアジア発のオリンピックを開催するにまでに発展する。
結果的にこの「中峯」は、源氏爆弾を二発喰らった焼け野原のどん底から20年足らずでまた一気に世界の一等国の仲間入りを達成するまでの期間に派生した一時的な耕作地兼居住地に過ぎない場所だったのである。
そして中峯で生れ、中峯分校で学んだ中峯の子供達が成長し大人になった頃には、この「中峯」という場所はその役割を終え、中峯の人々は復活成長した日本の新たな活躍の場所に旅立って行ったのである。
そして今はその20年足らずの出来事の面影を残すのみ。
● ● ● ● ●
また学校跡に隣接する形で民家跡があるが、そこには三軒家の民家跡のような石積みの間仕切りが残っている。
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もしかして中峯開拓団の中に奥栗・三軒家出身の引き揚げ者がいたのかもしれない。
そしてまた、何故、戦後の海外からの引き揚げ組が自分の故郷に帰り住み着く事なく、新たな土地を求めて開拓団となったかというと、それは、限られた耕作地面積に対する収穫量でその場所で生活出来る人数が限定されていたから。
故郷に帰ってきたからと言って、そのまま受け入れて住む家を建てるとなると、それは耕作地を潰し耕作地面積が減少し収穫量が減るという事なので、新たな生活の場所を求めて未開の場所に行くしかなかったのである。
そしてそれから十数年の歳月が経ち、戦後の焼け野原から不死鳥の如く経済発展を遂げた日本。
世界屈指の経済大国となり、いつの間にか「戦後の開拓団」のそのものが時代の流れに逆行する形となり、この中峯からも人の姿が消えていった。
まだ新しい轍
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耕作地跡
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その形がはっきりと残っている
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三椏の花も咲いている
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耕作地跡の空は明るい。
学校の歴史は僅か16年間だったが、それはここに住んだ人々にとっては戦後の急激な経済発展(連合国にとっては、まさかの経済発展)の中の仮り暮らしのような場所だったのかもしれない。
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だから「想い出」は勿論あるだろうが、「思い入れ」までは無い場所なのかもしれない。
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生活の痕跡は耕作地跡と僅かな石垣跡と、羽根小学校にはかつて中峯に分校が存在していたという歴史のみ。
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集落上部の民家跡
この石垣跡も写真に撮りたいぐらい生活の痕跡が少ないのである。
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しかしそれは、次の生活の場所に使える物は全て持っていったというポジティブな理由からで、この中峯の生活の後には更なる発展した生活があったのだろうと思う。
そんな中、数少ない人工物の一つ
これは台所の「流し」に違いない
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そして台所の排水もお風呂の排水もこの肥溜めに流し込み「肥料」として使っていた。
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鍋??
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道跡
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石積み
しかしこれは20年程度の歴史の中ではこの程度の石積みしか出来ないという証明で、巨大な石積みはやはり数百年という長い歴史の中で完成されていくという根拠にもなるだろう。
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肥溜め跡は10カ所程確認出来た
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肥溜めの隣の石積みはお風呂か台所のもの
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完全リサイクルのシステムだったのだ。
集落中央の道
分岐はいくつかある
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集落の中でも比較的大き目の石積み
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完全に離村後のビール
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集落の性格性から言って、中峯での生活は次の生活に向けての駆け足で過ぎ去った十数年間だったのかもしれない。
そしてその中に派手さや裕福さは感じられはないが、それでもこの土地の歴史の中にこの道がかつて通学路であった時代があり、児童が遊びながら登下校していた時間があったと考えると、部外者ながらなんだか嬉しく感じてしまうのである。
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集落跡の歴史的な背景、経緯を考えると、この耕作地跡の空の色も鮮やかな色に見えてしまうのである。
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結局、瓦葺きの家跡は無かった
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時代の大きな流れの中で考えれば
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かつてこの場所に学校の分校があり、子供達の歓声が響き渡っていた16年間という時期は、奇跡のような時間だったのである。
●昭和50年の航空写真
中峯と中川内
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中峯
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小学校付近
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まだ羽根には分校の卒業生がいらしゃるらしい!!!!!
室戸羽根小学校中峯分校跡は当時の事を知っている地元の方二人と話が出来た事、そしてなにより丁度その近くで地籍調査が行われていて専門の人と話が出来たという偶然が重なって確定する事が出来た。
とは言え、具体的に明確に中峯分校の位置を裏付ける公的な資料が存在しない中、本当にあの場所で正しいのか??という一抹の不安もあり、その正確性をより確立させるために、そしてあえてその場所を否定する材料の存在の有無を確認する意味も込めて再訪した。
結論としては、あの場所で間違いなかったのではあるが。
《根拠としては、まず学校建設にあたって当時の羽根小学校の児童が瓦二枚を背負って現場まで運搬の協力をしている。現在その瓦葺きの建物を学校跡としているが、もしその他に瓦葺きの建物跡があれば、そこも学校跡の可能性を持つ事になる。しかし結果としては、その他に瓦葺きの建物の跡は存在しなかった》
「羽根村史」より
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僅かに記載されている中峯分校の貴重な資料だ
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昭和24年 開設
昭和25年 男子8名 女子6名 合計14名 出席率85.08%
昭和28年 男子6名 女子1名 合計 7名 出席率96.56%
昭和29年 男子8名 女子1名 合計 9名 出席率96.29%
昭和38年 休校
昭和40年 廃校
あの時代に本校の羽根小学校より出席率の高い分校であったとも言える。
ーーーーーーーーーー
前回は地籍調査のために林道を整備した直後ではあったが草木の生い茂った季節でもあったため、この季節に行きたいと思っていた。
林道が整備された事もあり、その後この道を通る車があるようだ。
前回より少しだけ踏み固められ、少しだけ走り易い。
そして学校跡直前の稜線上の道から中川内の集落が見える。
場所的にも地元の方の言われていた「運動場から中川内小学校が見えていた」という場所で間違いないようだ。
一段下の「あまちゃずる」の倉庫のある耕作地跡を過ぎ、分校跡に到着
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目的の一つとして、この場所以外に瓦を使った建物跡を探す事。
当時の羽根小学校の児童が分校建設の為に中峯まで二枚の瓦を背負って建設に協力した話を教えて貰い、その瓦がここにある事が、ここが分校跡であるという根拠の一つになっている。
もし、この場所以外の場所に瓦を使った建物跡があれば、「もしかして・・」という事にもなる。
が、結果としては瓦葺きの建物はここだけだった。
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(中峯分校跡地)
石垣跡がある。
しかし石垣の石は小さく、今まで見たきた集落跡の石垣跡と比べると規模も小さく、また構造も簡易である。
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ピンボケであるが水道栓。
導水管を引き込んだ先の水栓。
離村後のものだろう。
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送電部品
電化製品の痕跡はない。
しかしそれはこの集落の性格性から言って、無かったのではなく、離村、下山するにあたって、次の生活場所に使える物、利用できるものは全て持って行った、という事になるのだろう。
学校の開設から16年後に廃校を迎えた中峯分校。
住み慣れた場所に、その土地の者が隠居生活をする時間もなかった、そんな短い時間の歴史だけがこの場所に残っている。
でもここは「戦後の仮ぐらしの場所」!!!
確かに大東亜戦争で軍事的には敗北を喫した日本は、当時の世界からは「もう戦前のような世界の一等国としては、二度と立ち上がる事は出来ないだろう」と言われていた。
そしてこの「中峯」は、その敗北後の日本人が食べていくために新たな耕作地を求めて開拓された場所 ・・・・・のはずだった。
が、日本は不死鳥のように蘇り、昭和39年にはアジア発のオリンピックを開催するにまでに発展する。
結果的にこの「中峯」は、源氏爆弾を二発喰らった焼け野原のどん底から20年足らずでまた一気に世界の一等国の仲間入りを達成するまでの期間に派生した一時的な耕作地兼居住地に過ぎない場所だったのである。
そして中峯で生れ、中峯分校で学んだ中峯の子供達が成長し大人になった頃には、この「中峯」という場所はその役割を終え、中峯の人々は復活成長した日本の新たな活躍の場所に旅立って行ったのである。
そして今はその20年足らずの出来事の面影を残すのみ。
● ● ● ● ●
また学校跡に隣接する形で民家跡があるが、そこには三軒家の民家跡のような石積みの間仕切りが残っている。
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もしかして中峯開拓団の中に奥栗・三軒家出身の引き揚げ者がいたのかもしれない。
そしてまた、何故、戦後の海外からの引き揚げ組が自分の故郷に帰り住み着く事なく、新たな土地を求めて開拓団となったかというと、それは、限られた耕作地面積に対する収穫量でその場所で生活出来る人数が限定されていたから。
故郷に帰ってきたからと言って、そのまま受け入れて住む家を建てるとなると、それは耕作地を潰し耕作地面積が減少し収穫量が減るという事なので、新たな生活の場所を求めて未開の場所に行くしかなかったのである。
そしてそれから十数年の歳月が経ち、戦後の焼け野原から不死鳥の如く経済発展を遂げた日本。
世界屈指の経済大国となり、いつの間にか「戦後の開拓団」のそのものが時代の流れに逆行する形となり、この中峯からも人の姿が消えていった。
まだ新しい轍
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耕作地跡
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その形がはっきりと残っている
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三椏の花も咲いている
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耕作地跡の空は明るい。
学校の歴史は僅か16年間だったが、それはここに住んだ人々にとっては戦後の急激な経済発展(連合国にとっては、まさかの経済発展)の中の仮り暮らしのような場所だったのかもしれない。
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だから「想い出」は勿論あるだろうが、「思い入れ」までは無い場所なのかもしれない。
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生活の痕跡は耕作地跡と僅かな石垣跡と、羽根小学校にはかつて中峯に分校が存在していたという歴史のみ。
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集落上部の民家跡
この石垣跡も写真に撮りたいぐらい生活の痕跡が少ないのである。
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しかしそれは、次の生活の場所に使える物は全て持っていったというポジティブな理由からで、この中峯の生活の後には更なる発展した生活があったのだろうと思う。
そんな中、数少ない人工物の一つ
これは台所の「流し」に違いない
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そして台所の排水もお風呂の排水もこの肥溜めに流し込み「肥料」として使っていた。
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鍋??
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道跡
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石積み
しかしこれは20年程度の歴史の中ではこの程度の石積みしか出来ないという証明で、巨大な石積みはやはり数百年という長い歴史の中で完成されていくという根拠にもなるだろう。
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肥溜め跡は10カ所程確認出来た
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肥溜めの隣の石積みはお風呂か台所のもの
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完全リサイクルのシステムだったのだ。
集落中央の道
分岐はいくつかある
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集落の中でも比較的大き目の石積み
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完全に離村後のビール
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集落の性格性から言って、中峯での生活は次の生活に向けての駆け足で過ぎ去った十数年間だったのかもしれない。
そしてその中に派手さや裕福さは感じられはないが、それでもこの土地の歴史の中にこの道がかつて通学路であった時代があり、児童が遊びながら登下校していた時間があったと考えると、部外者ながらなんだか嬉しく感じてしまうのである。
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集落跡の歴史的な背景、経緯を考えると、この耕作地跡の空の色も鮮やかな色に見えてしまうのである。
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結局、瓦葺きの家跡は無かった
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時代の大きな流れの中で考えれば
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かつてこの場所に学校の分校があり、子供達の歓声が響き渡っていた16年間という時期は、奇跡のような時間だったのである。
●昭和50年の航空写真
中峯と中川内
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中峯
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小学校付近
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まだ羽根には分校の卒業生がいらしゃるらしい!!!!!