皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

土佐山田・西又小学校

2019-05-28 22:25:32 | 土佐山田の学校

土佐山田・西又小学校

2017/1/8(日) 午後 0:49


昭和47年 繁藤小学校に統合

西又に到着


当時の橋も健在


今でこそ、水の量が少なくてなかなか泳ぐには至らないが、当時は今と比べて川の水の量が豊富で、夏場は子供達の絶好の遊び場だったそうだ。


そして、大人の目がなくても、「溺れる」子供など皆無だったそうで。




当時の方々にとって、現代の子供達の水難事故は、理解し難い状況のようだ。


また川の水の量が変わったのはどうやら「植林」の影響があるようで、当時は大雨が降れば、2、3日は川には入れない程の流れが続くが、今はそれ以上の大量の水が一気に流れて、すぐに流れる水の量が減っていくという状況らしい。

つまり「植林」によって山の「保水力」が一気に低下し、今まである程度時間を掛けて流れていた水が、一気に流れるようになったという事だ。




伊尾木森林鉄道を始め、その他の場所で、多くの石垣が雨水によって破壊されている状況を見てきたが、それは確かに近年の豪雨の影響もあると思うが、それ以上に「植林」によって山の保水力が低下し、今まで決して流れる事のなかった水の量が流れる事になった事が最大の原因という事になりそうだ。




自然を熟知した当時の人々が、それに基づいて設計した石垣も、「植林」という形で周辺の自然環境そのものを変えられてしまえば、本来であれば百年単位でその形を留めていけるものも、僅か数十年で崩壊させられてしまう事もある、という事だろう。


そして学校のあった場所



集会所が建てられているが、それはその後に建てられたもので


校舎はその奥の、一段高くなっている場所に建てられていたそうだ。


当時の面影はこの銀杏の木だけだろうか!!



集落の東に神社があるので行ってみる。

この神社は集落の神社ではなく、「山の神様」だそうだ。



集落の神社は、集落の西にあるとの事だが、今度行った時は聞いてみよう!!


うーん・・



こりゃ山の神様、相当怒ってるかもしれないぜ!!!

土佐山田・国見小学校・2

2019-05-28 22:24:36 | 土佐山田の学校

土佐山田・国見小学校・2






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書庫日記




カテゴリ練習用

2017/1/11(水) 午後 10:37

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跡地の確定が難航すると思っていた繁藤小学校国見分校だが、すぐに解決してしまった。


跡地を確定させる要因になったのは




この地図


ゼンリン住宅地図・土佐山田 昭和62年度版



それ以前の地図には穴内地区は載っていなかったが、この時期前後から穴内地区も載せるようになったようで。

そこにはご丁寧に「繁藤小学校国見分校跡地」の記載があった。


やはりこの民家の上の


この石垣の上が


繁藤小学校国見分校跡地だった


また高知大、農業高校周辺も当時は勿論住人がいた訳で。


もう少し古い地図ではもっと多くの民家が記載されている




これは地理院地図・昭和52年度発行



また南国市立奈路小学校が明治8年に、奈路尋常小学校として開設した時期に、八京、白木谷、中谷、井ノ沢、穴内に学校が設立され、開校6校となる、との記載があった。

穴内というとこの周辺ではここしかないが、そうであれば国見小学校の創設は明治8年頃という事になりそうだ。

(穴内も上倉郷に入っていたのかも・・・??)




《南国市の歴史》・南国市立教育研究所


また土佐山田町史によると、穴内ダム完成で水没した物件は




住家・140、商店・7、事務所・2、製材工場・3、神社堂・5、農作小屋・60、公共建物・10、鉱区・4、水田・35ha、畑・7ha、山林・203ha、採草地・8ha、となっている。


農作小屋を合わせると200を超す建築物がダムの完成により水没した訳だから、現在無人になったダム湖の上に存在する穴内地区が、水没する前は今では想像もつかな程賑わっていたという事がわかる。




また当時の人々の視点ではダム湖の出現は観光資源の価値が大きいと捉えていたという事、この写真には写ってないが地元の方々もダムの建設に対して理解があり協力的だったという事も、現代の感覚では少し理解し難いが、当時の状況を理解するためには非常に興味深い点でもあると思う。

土佐山田・国見小学校・1

2019-05-28 22:23:39 | 土佐山田の学校

土佐山田・国見小学校・1


2017/1/10(火) 午後 9:48




国見小学校の創立は天坪村の時期にまで遡る事になるが、天坪村史を見ても「教育」に関する項目が無く、土佐山田町史では少し触れているが、繁藤小中学校の石碑が一番詳しく書かれている。




と言っても、




昭和24年 繁藤小学校より独立し国見小学校となる

昭和39年 繁藤小学校の分校となる

昭和45年 繁藤小学校に統合




の3項目だけだが・・・




とりあえず、ダムの底に沈んだ学校跡は昭和35年発行の地理院地図では


だいたいこの風景の中にありそうだ。



そしてダムの完成で昔の校舎が水没した後、昭和45年まで続いていた繁藤小学校国見分校について繁藤付近で少しだけ話を聞く事ができたが、具体的な話には至らず、ダムの渇水期には学校跡が見える事、その後保育園があったりもしたし、農業高校と高知大学の宿舎があるからもしかして・・等という話だった。


農業高校の宿舎




高知大の宿舎


うーん、以前にも別の建物があった雰囲気はある


また、その他に、可能性のある場所①として地理院地図の学校の位置付近の

ここを上がった


それっぽい雰囲気はあるが、ブロック塀が微妙


でもトイレが3つあるから民家ではない・・・



でも風呂があるからやっぱり微妙・・・


林業関係の建物だった可能性のほうが高い



もう一つ可能性がありそうな場所②として、そこからさらに少しだけ西の



この民家の上の



この石垣の上の、ここかもしれない・・



農業高校、高知大の宿舎なのか、それともその他の2カ所なのか、それともそれ以外の全くの別の場所なのか、地元の方が皆無なので現時点ではまだ確定しようがない。




ただ、これは過疎化の極端に進行した県境付近の山間部での話ではなく、高知市のお隣である旧土佐山田町・現香美市での話である。




とにかくこれからも情報収集は続けていこう!!!



そして気を取り直して地域の神社に行ってみた。

ここも水没を避ける為に移転した事が地理院地図から推測できる。


高校、大学の宿舎からすぐの距離にある





昭和7年




天保の時代



大正14年











今はもう過疎化も最終段階に入り、ほぼ無人化したこの地域ではあるが、歴史の長い、深い地域である事は間違いなさそうだ。




そんな土地に対して、現代人が現在の視点だけで、現在ほぼ無人化しているこの地域の状況を勝手にネガティブに捉え悲観視することは、「かなり余計なお世話!!」だと思う!!

土佐山田・繁藤中学校

2019-05-28 22:22:43 | 土佐山田の学校

土佐山田・繁藤中学校


2017/1/5(木) 午後 1:23


繁藤小中学校は平成25年度より休校中。

そして↑↑↑は昭和52年度の地理院地図。

この頃はまだ中学校は繁藤駅のすぐ近くにありました。


そして繁藤中学校が現在の場所に移転し、繁藤小中学校になったのは昭和55年の事である。



当時の航空写真


旧繁藤中学校跡へは繁藤駅から国道を渡り少しだけ西にあるこの坂を登る




下に国道沿いのガソリンスタンドが見える



この道はその後拡張、整備されたらしい。




繁藤中学校には昭和50年代になっても、最後の最後まで車道の接続が無く、児童は勿論、先生もこの坂を歩いて登って登校していたそうだ。




この上の広場が運動場跡



全く何もない




もう少し早く来ていれば当時の面影が残っていたらしい・・・




そして校舎は北側の一段高い場所にあったとの事

しばらく辺りを歩いてみたが、全く当時の面影がない・・・




悲しい程に・・・・







ただ嬉しい事に、この繁藤地区からはまだまだ多数の児童生徒が元気に学校に通っている。




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ゼンリン住宅地図 昭和53年度版




中学校はこんな感じだったそうだ。







土佐山田・繁藤小中学校

2019-05-28 22:21:54 | 土佐山田の学校

土佐山田・繁藤小中学校


2017/1/8(日) 午前 0:12



繁藤小中学校は平成25年度より休校中である。


学校の歴史




(石碑では繁藤小学校の開設は明治31年となっているが、「広報かみ・平成25年度3月」によると平成6年度・1994年に創立100年を迎えたそうなので、創立は明治27年・1894年が正確な時期だと思われる。)



学校は国道沿いにある


現役の小学校にしか見えない


反対側の入り口


そこに学校に石碑があり


その裏に学校の歴史が刻まれている




土佐山田町史には書かれていない、穴内分校(国見小学校)の歴史も刻まれている




そして、正門を少し入ったところに階段がある



階段を登る




その場所は、学校を見下ろす高台にあるようだ!!


神武天皇の像



その下の石板



日本紀元復興喚起ノ處



早い話が、今年は平成29年ではある。





西暦2017年というのは、あくまでも対国外へ




皇紀2677年





日本は世界で一番歴史の長い国なのだ!!







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また、後日、昭和39年度と昭和62年度の繁藤小学校卒業生の話を載せた「広報かみ・平成25年度3月」によると、繁藤小学校の創立は明治27年だそうだ。




そして当時は「紀元節式典」は全国放送されていたそうです!!!







確か、国鉄時代は「繁藤」というと、特急列車の停まる駅だった気がするが・・・