宿毛・沖の島「大日本帝国陸海軍墓地」
書庫日記
カテゴリ高知県
2018/4/25(水) 午前 1:49
沖の島弘瀬地区の一角にあるお寺
正行寺
地元の方に伺うと京都西本願寺のお寺だそうだ。
そしてそこは大日本帝国陸海軍墓地となっている
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変、大東亜戦争と近代日本の国難に立ち向かっていった日本の男達のいる場所である。
ウラジオストック
これは、ウラディ(征服)ボストーク(東)という意味。
その文字どおりロシアが南下し朝鮮半島にまで勢力を延ばしてしまえば、次は日本に危機が迫ってくる。
しかし当時の朝鮮は清の属国で、しかも未開の世界の最貧国。
そこで日本は朝鮮半島を自立した近代国家に成長させ、ロシアとの緩衝地帯になってもらう事を望むが、当然、清朝と対立し、戦争となる。
そして日本が勝利し、下関条約が結ばれる。
そしてその条約の第一条に書かれている内容が、清国に朝鮮の独立を認めさせる事。
また日本には徴兵制があり日本軍は国軍であったが、清国側は軍閥である李鴻章の北洋軍、北洋艦隊であった。
当時は既にイギリスを筆頭とする列強諸国に半植民地化されていた清国は、完全に国の治安を維持する事が出来なくなっていた。
清朝は皇帝ではあるが、軍閥が各地で勢力争いをしていた。
李鴻章はその軍閥の一人で、他の軍閥は李鴻章が負ければライバルが一人減る、ぐらいにしか思っていなかった。
そして日本の勝利に衝撃を受けた支那人は、逆に日本に留学してくる事になる。
その中には後の支那国民党の蒋介石もいた。
そして日露戦争
旅順を攻略しバルチック艦隊を撃破しロシアに勝利した日本であるが、それはアメリカを狂喜乱舞させたと同時に、支那大陸に野望を持つアメリカに、日本に対する敵意を抱かせる原因ともなる。
また日露戦争における旅順攻略で戦死者15400人を出した乃木大将は、日本国内では過小評価されているが、実はそれは世界的に見れば奇跡的とも言える程の凄い戦績なのである。
旅順は要塞であったが、その目的はロシアが旅順港の軍艦を守るために築かれたもので、当時世界最強の陸軍を持つロシアが建設した鉄壁の要塞。
しかもロシアはその半世紀前にクリミア戦争のセバストポリの戦いにおいて、敗れたとはいえ、同じく軍港を守るための要塞を築き上げイギリス、フランス、オスマン軍と戦っている。
当然その後に建造される要塞は、実戦に基づく経験を吸収して更に強固なものとなる。
そしてその日本軍が旅順を攻略した半世紀前の要塞戦であるセバストポリの戦いでは攻略するイギリス、フランス、オスマン軍の戦死者が128,000人、ロシア軍が102,000人、合計23万人。
期間にして10カ月の戦い。
一方の旅順攻略は4カ月半の戦いで、日本軍の戦死者は1万5400人なのである。
当時は武力で制圧した地域はその国が植民地にする事が、当たり前の国際常識だった時代。
しかも半世紀の間に当然、兵器も著しく進化する訳で、旅順要塞には機関銃が装備されていた。
そしてその後の第一次世界大戦において、ドイツとフランスが戦った同じく要塞戦であるベルダンの戦いでは10カ月間における戦いで双方で70万の戦死者を出しており、1942年の第二次世界大戦のドイツとソ連の戦ったセバストポリの戦いでも10万人の戦死者を出している。
世界初の機関銃を装備した要塞戦において、4カ月半、15400の戦死者で攻略したとう事は、そのような基準で照らし合わせてみると、奇跡的とも言える凄まじい戦績なのである。
しかも当時のロシアは世界最強の陸軍を持つ国で、日本はアジアの弱小国と呼ばれていた時代の話だ。
またこの戦いがきっかけで、対機関銃兵器として「戦車」が誕生する事となる。
またその旅順攻略において著しい活躍をした高知県出身の軍人がいる。
若き日の永野修身、後の永野元帥閣下である。
現在の日本では、旅順を攻略し203高地から旅順港のロシア太平洋艦隊を砲撃、撃滅するイメージが率先しているが、それは事実とは異なっている。
要塞は旅順港の軍艦を守る為に建造されるものであるから、港が見渡せる場所に建造しても意味がなく、山の一つや二つ越えた先に建設される。
(そうしなければ、敵も要塞の近くから軍港を狙える事となるし、事実、要塞の場所はそのような場所です)
つまり203高地から旅順港は見渡す事が出来ず、軍港が見え、目視で照準を合わせれる場所は山を一つ二つ越えた先の場所になる。
しかしだからと言って、要塞を攻撃した28㎝砲をそこまで移動させるには大変な時間が掛かり、その間に旅順港のロシア太平洋艦隊は逃げてしまう。
そしてバルチック艦隊と合流してしまえば日本は制海権を奪われ、退路、補給路を断たれた日本陸軍は壊滅し日本本土に危機が迫る。
そこで若き日の永野が軍上部に進言した作戦が、その港の見えない場所から旅順港を狙い、着弾地点を観測しながら方位、角度、火薬の量を調整しながら旅順港のロシア太平洋艦隊を壊滅させる内容。
そして自ら着弾地点の観測場所に赴き、モールス信号で砲弾を誘導しながら旅順港のロシア太平洋艦隊を壊滅させたのである。
そしてその事が、その後の日本海軍のバルチック艦隊への勝利に繋がる。
そして日本は勝利し、自らの力でロシア南下の脅威を跳ね除け名実ともに世界の一等国となるのである。
(因みに、その後のロシアとの関係は良好)
また日本を勝利に導いた要因には1902年に結ばれた当時の世界の一等国であるイギリスとの対等条約である日英同盟と、開国以来、あの状態から一気にそこまで国力を延ばしていた事である。
ロシアの南下を防ぐ日本の戦いが、支那大陸に多くの権益を持つイギリスとの国益にも繋がり、バルチック艦隊が向かう先の航路に、多くの植民地を持つイギリスがバルチック艦隊が寄港して補給する事を妨げていたからである。
そして何故当時の日本が当時の世界の一等国であるイギリスと対等条約である日英同盟を結ぶ事が出来たかというと、当然その事が支那大陸に多くの植民地を持つイギリスの国益に繋がったという事ではあるが、1900年の清国での義和団の乱の鎮圧における日本軍の活躍が尊敬に値する程素晴らしく、対等条約を結ぶに相応しい国であったからでもある。
何故なら、あれは北京に国際条約に基づき合法的に駐留する各国の公使館、居留民に対して清朝(西太后)が宣戦布告をするというとんでもない事件、戦争モドキだったからでもある。
そしてその結果として北京議定書が結ばれ、清朝が国際条約に基づき合法的に駐留、居留する公使館、居留民の安全を守れないのだから、自分達で軍隊置いて治安を守りますね!!となり、清朝自らの蒔いた種で、更なる自国の植民地化が進み、やがて10年後の崩壊へと繋がる。
因みに当時の支那大陸に日本軍が駐留していた事を「侵略」だと騒ぐ一部の日本人がいるが、あれは国際条約に基づき合法的に駐留していた訳で、その理由は義和団の乱で清朝が国際条約に基づき合法的に居留する外国人の安全を守る事が出来なかった事が原因で、それは日本軍だけではなく、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカ等、当時の列強国も同じでした。
イギリスとの日英同盟は5年更新のもので、それは国際情勢の変化と共に少しづつ変化していった。
そして第一次世界大戦が終結し、戦争で疲弊したヨーロッパ諸国に替わり、一気に台頭したきた二つの超大国がある。
それが大日本帝国とアメリカ合衆国である。
やがてその二つの超大国は、太平洋を挟んで、世界初の機動部隊を主とした、世界最大規模の、しかも原子爆弾まで登場する大決戦を始めるのである。
そしてその戦いは白人が400年の年月を掛け世界各地に作り上げた植民地支配を完全に破壊し、新しい世界秩序を作り上げる事になる。
アジアの植民地解放を達成した日本軍ではあるが、次第に戦局は劣勢となり、遂にはアメリカが禁断の原子爆弾まで使用し始めた事もあり、連合国側の条件である「ポツダム宣言」を受け入れる事を昭和20年8月14日に決定。
翌日15日に、国家として国民に戦闘を中止する事を報告する。
その翌日16日には日本軍への停戦命令
9月2日に、戦艦ミズーリ上で停戦協定の締結
そしてその後、7年間のGHQの占領政策を受け入れ
昭和26年9月8日 サンフランシスコ講和条約締結
昭和27年4月28日 講和条約発効となりGHQの占領政策も終わり、日本は再び独立国となる
零戦は撃墜され、日本兵は大地に倒れ、戦艦大和は海に沈み
日本は焦土と化した
(でも実際は当時の日本の国家としての機能は正常に稼働しており、戦争を続けるか停止するかの選択をしただけ。ドイツの国家が崩壊し戦争が終結したのとは訳が違う)
そして世界地図から植民地が消えた。
これが大東亜戦争の真実である。
また「特攻隊」の戦果は日本国内においては非常に過小評価されているが、実は国際的には非常に高く評価されている。
●ダグラス・マッカーサー陸軍元帥
「沖縄では、大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、
米側は、艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害をだした。
これらの数字は、
南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間にだした
米側の損害の総計を超えているものである。」
●アーネスト・J・キング海軍元帥
「四月六日からはじまった日本機の攻撃は、いままで嘗てなかった激烈なものだった。この特攻戦は凄惨を極めた。
(略)海上では戦死行方不明4907名、戦傷4824名であった。
艦船は沈没36隻、損傷368隻であり、飛行機の喪失は763機であった。」
●チェスター・W・ニミッツ海軍元帥
「我が海軍がこうむった損害は、戦争中のどの海域よりも、はるかに大きかった。
沈没30隻、損傷300隻以上、9000人以上が死亡、行方不明または負傷した。
この大損害は、主として日本の航空攻撃、とくに特攻攻撃によるものであった」
●第五艦隊司令官スプルーアンス大将
「敵軍の自殺航空攻撃の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能な、あらゆる手段を採用すべきである。
第20航空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する。」
●第3艦隊司令長官ハルゼー大将
「神風攻撃は、日本海軍の敗戦にもかかわらず、大変面倒なものになった」
●第38任務部隊司令官ミッチャー中将
「神風特攻阻止には空母機動部隊群の増強が必要で、海兵隊の戦闘機隊を空母に搭載すべき」
●RLウェアマイスター海軍中尉
「神風は米艦隊の撃滅には成功しなかったが、多大の損害を与えた。 在来の戦法ではとてもこんな成果を上げられなかったであろう。
日本の飛行機に関する数字が正しいものならば、
日本が失った飛行機の12%で、
米損傷艦艇の約77%、
米海軍人員の死傷者中約80%をやっつけたことになる。
すばらしい戦果といえよう。
また神風の特攻があったため、多数の米高速空母がハリツケになったことも、大きな成果のひとつである。
もしも神風攻撃がなかったら
これらの空母は、
自由に日本本土の基地や工場を破壊することができたはずである。」
■マルカム・ハーバート・マックガン大尉(護衛空母「サンガモン」乗組パイロット)
炎上中の特攻機を海中に投棄するのを手伝ったマックガンは、ずっとのちになって、日本軍パイロットを賞賛して、 「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は、私より立派だ。私には、あんなことはやれなかっただろう」と語った。
■ハンソン W・ボールドウィン(米国の従軍記者)
「4月末になっても、菊水特攻隊の作戦は衰えをみせなかった。この恐るべき死闘は、なお2ヶ月間も続くのである。
・・・4月以降になると、これほどの艦船の沈没、損傷の危険は二度と無かった。
5,6月両月を通じて、沖縄の戦いは徐々に爆弾対艦艇の戦闘から人間対人間の意志と耐久力の試練に変わっていた。
毎日が絶え間ない警報の連続だった。ぶっつづけに40日間も毎日毎日、空襲があった。そのあとやっと、悪天候のおかげで、短期間ながらほっと一息入れたのである。ぐっすり眠る。これがだれもの憧れになり、夢となった。頭は照準器の上にいつしか垂れ、 神経はすりきれ、だれもが怒りっぽくなっていた。艦長たちの眼は真っ赤となり、恐ろしいほど面やつれした。」
■アルバート・カフ(UP通信社)
「カミカゼ特攻隊は、確かに大きな損害を米軍に与えた。そしてカミカゼのパイロットたちが、
勇敢な人たちであったことは疑いがない。
そしてアメリカ兵が“カミカゼ”を恐れ、怖がったことは否定できない。
実際、パニックが起こりかけていた」
●アンドレ・マルロー(フランス 元文化相)
「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわりに何ものにも替え難いものを得た。それは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。
スターリン主義者たちにせよ、ナチ党員にせよ、結局は権力を手に入れるための行動だった。
日本の特別攻撃隊たちは、ファナチックだっただろうか。断じて違う。彼らには、権勢欲とか名誉欲など、かけらもなかった。祖国を憂える尊い情熱があるだけだった。
代償を求めない純粋な行為、そこには真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは 根本的に異質である。人間は、いつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」
その、皇紀2601年(西暦1941年)、昭和16年12月8日に始まった、世界の歴史を両断する偉大なる戦いは「大東亜戦争」と呼ばれている。