久しぶりに伊尾木に向かう
【伊尾木林用軌道跡】の訪問より4年半
http://shgogo65006854.livedoor.blog/archives/cat_53977.html
【安芸の学校跡・集落跡】
http://shgogo65006854.livedoor.blog/archives/cat_53300.html
目的は影野の集落跡訪問
【地理院地図 1/50000】
【地理院地図1/25000】
影野の橋を渡り登った先に集落跡があるようだ
・現在の地図でも集落跡が確認されている
(と言っても実際に地図に反映されているのは車で移動し靴を履いて普通に歩いて調査のできる場所のみで、その先は過去のデータをそのまま利用している、、、事がとても多い)
伊尾木森林鉄道(伊尾木林用軌道)跡の調査で幾度となく通い詰めた道
当時と比べ道も改善され、土砂崩れで迂回路となっていた奈比賀小学校の運動場を通る事もなく快適な道を進むのもつかの間!!
大井を過ぎるあたりから一気に「ヤバい」場所が目立つようになってくる
そして古井小学校も、明夜も、島も、スドウも、同じような状況であった
目的地の「影野」に到着
それでも「橋」を渡って山の上にある集落跡を目指そう!!!
と、、、次の瞬間!!
「なんてこった・・・」
橋が崩壊している
あの林用軌道跡も
そして当然、それは影野だけの事ではなかった・・・
明夜でも
当時は「安京」でも現在は「明夜」
あの林用軌道の橋の跡が、
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橋が流されている
島のつり橋も
反対から
スドウのつり橋も・・・
(と言ってもまだ渡れるけどね)
伊尾木の最終地点「別役」もこの5年で大きく雰囲気が変わっていた
携帯の圏外に入って数時間、その日の案件であった「ケンタッキー・フライド・チキン」差し入れを断る事にする!!理由は日没までに高知市内に帰る事ができないからだ!!(笑)
当時はここまでバス路線が走っていたが
現在は古井小中学校跡までのようである
そしてその古井小中学校跡も
運動場は土砂で埋め尽くされ
校舎も
かつての学び舎の敷地も時代と状況が変われば「土砂捨て場」となる、あまりあり得る話ではないが、それでもそうなってしまう実例の一つである。
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予定していた訪問を断念したため、その方向は第三も目的地であった「裏政谷」に向けられた。
あの障子藪の北にあり、既に民家後の記載さえ存在していないのに現在まで残る地名「裏政谷」だ。
到着す
と言っても当時は「裏正谷」
また地理院地図では当初、「裏政口」だったり「裏政」だったりする。
橋が作られたのは昭和38年
地図にはない川の北側の民家後から
川を右に左に渡りながわ川を登る
何故なら地図にある破線の道はすでに存在しないから
また破線の通りに「道」があったとしても地形的に見ても崖っぷちに造られた人工的な構造物であった事だろう
しかしすでに地図に民家跡の記載もなく(過去の地理院地図にもなかったと思う・・・)
特に伝えられている具体的な話にも遭遇する事のできないこの場所に何故、表に対する「裏」から始まる「政」しかも昭和38年度「正」、、、の谷という呼称がつけられているのか
明治末期から昭和40年頃まで存在した「伊尾木林用軌道」による伊尾木川沿いの繁栄のそばに、この裏正谷は一体どのような存在であったのか・・・
具体的なものを何一つ見つける事が出来ずに、時間的な制限、そしてその地形の困難さにより引き返す事となった
【川の北にある民家跡の登り板】
しかしそれでも現在令和2年。この状況からして平成の時代にもこの「裏政谷」に人々の生活があった事は肯定できるだろう。
そしてまた同時に、現在はおろか過去の地図にさえ民家の記号の記載もなく、それでいて「裏政谷」という何やら数ある地名の中で相対的にも「意味深」な「地名」に分類され、「伊尾木林用軌道」という安芸の歴代の大事業のそばで、その主役たる場所でもないにも関わらず、「軌道」が廃止となって半世紀以上、いまだにその「地名」を残し続けている事自体が、その「裏正(正)谷」と呼ばれているその場所の歴史の長さ、重さを、現在に伝え続けているのではないのだろうか!!
その川の南に作業道が出来ている
そこを少し登ると「杣道」の入り口がある
植林の中を進むその道は、その後できた道ではなく、当時からあった道のようだ
その先に咲く三椏の花
かつてそう遠くない過去に、ここにこの三椏の花さ咲き乱れる時代があった可能性は無限大!!
また裏政谷川を引き返す時に水中を下流に向かって泳ぐ見たこともない魚のように泳ぐ魚みたいな動きを見た!!
そしてその魚の様な動きの正体は10m程先で鳥の様な動きをしながら岸に上がった。
それが所謂、現在「裏政谷」と呼ばれている場所の日常茶飯事、、という事だったのかもしれない!!
『考えるな、感じろ』!!!というやつかな!!