皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」平成25年4月28日

2020-04-28 15:52:28 | 日記
平成25年4月28日 日本政府は天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ「主権回復 国際社会復帰を記念する式典」を開催しました。

https://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0428shikiten.html?fbclid=IwAR0qxPerrGVE3QBuhPJ9-FT0yJcM5ev808smmAdg14BF7m5WPImOqmeZf_E

大東亜戦争は昭和16年(1941年)12月8日の日本の宣戦布告で始まり、昭和20年7月26日の連合国側のポツダム宣言を受け同8月14日に受諾を通告、翌9月2日、戦艦ミズーリ上で停戦協定が結ばれ3年8か月の戦闘期間が終了します。
そしてポツダム宣言受諾に基づき連合国の占領政策を受け入れ、昭和27年(1952年)4月28日「サンフランシスコ講和条約」が成立、戦争状態が終結し占領政策の終了、日本は主権を回復し国際社会に復帰する事となりました。

先の大戦は宣戦布告から3年8カ月の戦闘期間と、停戦協定から占領政策を経て講和条約成立までの6年8カ月で終結します。

そして現在の「日本国憲法」はその6年8カ月の連合国による占領政策期間に制定されたものです。
そしてそれはポツダム宣言の内容に沿ったものある事は当然の事で、新しい憲法が制定された訳ですから、その憲法に準ずる形で国家の秩序や価値観が形成されたのも当然の事です。

しかし日本はその後 連合国と講和条約を結び占領政策を終了させ主権を回復し独立国として再び国際社会に復帰します。
当時の日本の指導者達が占領政策を受け入れ東京裁判に臨み潔くその結果に従ったのは、ただ純粋に連合国と講和条約を結び日本の主権を回復し独立国として再び国際社会に復帰させるためにです。

だから独立国として再び国際社会に復帰した日本は、戦争中に外国によって制定された憲法は破棄しても改正してもいいのです。

ところで、この式典に御臨席された当時の天皇皇后両陛下は今や『上皇様』となられております。
つまり日本国憲法を超越した日本の規格外の偉大な存在であるという事です。

一言「現在の国際情勢を鑑みて国家の体制を再整備するように!!!」なんて言って頂ければ我々日本国民は即座に次の作業に着手する準備は出来ております。


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本日、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、各界多数の方々のご参列を得て、主権回復・国際社会復帰を記念する式典が挙行されるに当たり、政府を代表して、式辞を申し述べます。
 61年前の本日は、日本が、自分たちの力によって、再び歩みを始めた日であります。サンフランシスコ講和条約の発効によって、主権を取り戻し、日本を、日本人自身のものとした日でありました。

 その日から、61年。本日をひとつの大切な節目とし、これまで私達がたどった足跡に思いを致しながら、未来へ向かって、希望と、決意を新たにする日にしたいと思います。

 国、敗れ、まさしく山河だけが残ったのが、昭和20年夏、わが国の姿でありました。食うや、食わずの暮らしに始まる7年の歳月は、わが国の長い歴史に訪れた、初めての、そして、最も深い断絶であり、試練でありました。

 そのころのことを、亡き昭和天皇は、このように歌にしておられます。

 「ふりつもるみ雪にたえていろかえぬ松ぞををしき人もかくあれ」

 雪は、静謐のなか、ただしんしんと降り積もる。松の枝は、雪の重みに、いましもたわまんばかりになりながら、じっと我慢をしている。我慢をしながら、しかしそこだけ目にも鮮やかに、緑の色を留めている。わたしたちもまた、そのようでありたいものだという御製です。

 昭和21年の正月、日本国民の多くが、飢餓線上にあえぎつつ、最も厳しい冬を、ひたすらしのごうとしていた時に、詠まれたものでした。

 多くの国民において、心は同じだったでしょう。

 やがて迎えた、昭和27年、主権が戻ってきたとき、私達の祖父、祖母、父や、母たちは、何を思ったでしょうか。きょうはそのことを、国民ひとりひとり、深く考えてみる日なのだと思います。

 61年前の本日、国会は、衆参両院の、それぞれ本会議で、主権回復に臨み、四項目の決議を可決しております。

 一、日本は一貫して、世界平和の維持と、人類の福祉増進に貢献せんことを期し、国連加入の、一日もすみやかならんことをねがう。
 二、日本は、アジアの諸国と善隣友好の関係を樹立し、もって、世界平和の達成に、貢献せんことを期す。
 三、日本は、領土の、公正なる解決を促進し、機会均等、平等互恵の、国際経済関係の確立を図り、もって、経済の自立を期す。
 四、日本国民は、あくまで民主主義を守り、国民道義を昂揚し、自主、自衛の気風の振興を図り、名実ともに、国際社会の、有為にして、責任ある一員たらんことを期す。

 以上、このときの決議とは、しっかりと自立した国をつくり、国際社会から、敬意を集める国にしたいと、そういう決意を述べたのだといってよいでしょう。

 自分自身の力で立ち上がり、国際社会に再び参入しようとする日に、私達の先人が、自らに言い聞かせた誓いの精神が、そこには汲み取れます。

 主権回復の翌年、わが国が賠償の一環として当時のビルマに建てた発電所は、いまもミャンマーで、立派に電力をまかなっています。

 主権回復から6年後の昭和33年には、インドに対し、戦後の日本にとって第一号となる、対外円借款を供与しています。

 主権回復以来、わが国が、東京でオリンピックを開催するまで、費やした時間はわずかに12年です。自由世界第2の経済規模へ到達するまで、20年を要しませんでした。

 これら、すべての達成とは、わたくしどもの祖父、祖母、父や、母たちの、孜々たる努力の結晶にほかなりません。

 古来、私達日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣を祈ってきた豊かな伝統があります。

 その、麗しい発露があったからこそ、わが国は、灰燼の中から立ち上がり、わずかな期間に、長足の前進を遂げたのであります。

 しかしながら、国会決議が述べていたように、わが国は、主権こそ取り戻したものの、しばらく、国連に入れませんでした。国連加盟まで、すなわち、一人前の外交力を回復するまで、なお4年と8カ月ちかくを、待たなければなりませんでした。

 また、日本に主権が戻ってきたその日に、奄美、小笠原、沖縄の施政権は、日本から、切り離されてしまいました。

 とりわけ銘記すべきは、残酷な地上戦を経験し、おびただしい犠牲を出した沖縄の施政権が、最も長く、日本から離れたままだった事実であります。

 「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」。佐藤栄作首相の言葉です。

 沖縄の、本土復帰は、昭和47年、5月15日です。日本全体の戦後が、初めて本当に終わるまで、主権回復から、なお20年という長い月日を要したのでありました。

 沖縄の人々が耐え、忍ばざるを得なかった、戦中、戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉は、意味をなしません。わたくしは、若い世代の人々に特に呼びかけつつ、沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く、思いを寄せる努力をなすべきだということを、訴えようと思います。

 わが国は再びいま、東日本大震災からの復興という、重い課題を抱えました。しかし、同時に、日本を襲った悲劇に心を痛め、世界中から、たくさんの人が、救いの手を差し伸べてくれたことも、私達は知っています。

 戦後、日本人が、世界の人たちとともに歩んだ営みは、暖かい、善意の泉をはぐくんでいたのです。私達はそのことに、深く気づかされたのではなかったでしょうか。

 なかでも米軍は、そのトモダチ作戦によって、被災地の人々を助け、汗と、時として涙をともに流してくれました。かつて、熾烈に戦ったもの同士が、心の通い合うこうした関係になった例は、古来、稀であります。

 私達には、世界の行く末に対し、善をなし、徳を積む責務があります。

 なぜなら、61年前、先人たちは、日本を、まさしくそのような国にしたいと思い、心深く、誓いを立てたに違いないからです。

 ならばこそ、私達には、日本を強く、逞しくし、世界の人々に、頼ってもらえる国にしなくてはならない義務があるのだと思います。

 戦後の日本がそうであったように、わが国の行く手にも、容易な課題など、どこにもないかもしれません。

 しかし、いま61年を振り返り、汲むべきは、焼け野が原から立ち上がり、普遍的自由と、民主主義と、人権を重んじる国柄を育て、貧しい中で、次の世代の教育に意を注ぐことを忘れなかった、先人たちの決意であります。勇気であります。その、粘り強い営みであろうと思います。

 私達の世代はいま、どれほど難題が待ち構えていようとも、そこから目をそむけることなく、あの、み雪に耐えて色を変えない松のように、日本を、私達の大切な国を、もっとよい、美しい国にしていく責任を負っています。

 より良い世界を作るため、進んで貢献する、誇りある国にしていく責任が、私達にはあるのだと思います。

 本日の式典に、ご協力を頂いた関係者の皆さま、ご参加を下さいました皆さまに、衷心よりお礼を申し上げ、わたくしからの式辞とさせていただきます。

平成25年4月28日
内閣総理大臣 安倍 晋三

この期に及んでパチンコ屋が自粛しない訳は!!

2020-04-25 14:50:07 | 日記

この期に及んでこの状況なのですが、逆にパチンコ屋というものが日本にとって、社会的に、そして歴史的に一体どの様な存在であるかという事を日本国民全員が認識するいい機会だと思います。
大体、駅前などの街の一等地に何故あれ程までにパチンコ屋、焼き肉屋、宗教団体の施設があるのか?
もしかして戦後、そこの土地の持ち主が転職してパチンコ屋、焼き肉屋、宗教団体を始めたのか???

いやいやそんな事はありません。当時、日本の男達は戦場に赴いていました。
残っていたのは婦女子、子供、老人で、男手の無い中で必死に生活していました。
そこに「自称・戦勝国民」と名乗る特定の外国人が土足で乗り込んできて、強奪、強盗、殺人、強姦、暴行を行い日本人の土地、財産を奪い、そのまま現在まで居座っているのです。

そして、この非常事態にこの有様ですから、根本的にメンタリティーが日本人とは違いますよ!!という事を彼ら自身が証明してくれているのです。

そして何より重大な事は、彼らは常に非常時、緊急時、混乱期には同じ事を繰り返してきたし、この次もまた同じ事をする!!という事です。

パチンコ屋の金が北朝鮮に流れるのも、焼き肉屋にハングルが多いのも、カルト宗教の教祖が半島出身者であるのも全て理由は同じです。

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6358121?fbclid=IwAR0z-ztuARJJwe811-YJIq2FJbV08hPFsdj4oFz_TeYmucOUxkehjbzvvXU


先の大震災の時も電力が枯渇する中で、彼らは全力で営業していましたね!!
我々が彼らに求めるべきものは「協調」でなければ「共生」でもありません。

高知の武漢ウイルス、実は大阪と同じぐらい酷い状況です!!そしてその訳は!!

2020-04-12 00:31:21 | 日記

【実はかなりヤバい高知県】
令和2年4月11日の『高知県』の武漢ウイルス感染者は52人で都道府県別で見ると上から15番目になるのですが、実はこれ人口に対する感染者の比率で見ると全国で5番目に高い感染率となります。
●一位・東京 人口13,942,856人 感染者1717人 感染率『0.0123%』
●五位・高知 人口697,674人 感染者52人 感染率『0・0074%』
そしてこれは既に緊急事態宣言対象となっている神奈川(0.0046%)千葉(0.0059%)埼玉(0.0044%)兵庫(0.0057%)より高い数字で、二位の福井(0.0098%)三位の石川(0.0081%)四位の大阪(0.0078%)に続く数字で、早い話が現在の高知は「人口8,823,453人で感染者が697人いて非常事態宣言対象となっている大阪」とほぼ同じ状態にあるという事です。

しかしそれにしても国際空港のある関西から海を隔てた四国の山を越えた南にある高知に何故これほどの感染者が発生してしまうのか。
地元の政治家は一体何をやっているのか、そして何をやっていたのか。
調べてみたところ理由が分かりました。
ちょうど一年前、当時の尾崎県知事と高知衆議院比例の福井てるが二階様御一行として支那の習近平に会いに行っていたのです。
思わず超悪い意味で納得してしまいました。

平成31年4月25日の高知新聞


もうすぐまた選挙です。有権者はこの事実を知った上で投票に行くべきです。

令和2年4月11日の感染者数



令和2年4月1日の都道府県別人口




●昨年の高知市長選出馬の中島やすはる氏が情報発信中!!
https://www.youtube.com/watch?v=-TRXDWkdq8o&feature=youtu.be&fbclid=IwAR25zZbh-Xz8ZJIg2jlPJU45vzDTkA09L5Q33DtDRqK86K3O275MawG_ym4









安芸・令和二年の春「影野 明夜 古井 スドウ 裏政谷」

2020-04-07 03:49:37 | 安芸の学校跡地
久しぶりに伊尾木に向かう

【伊尾木林用軌道跡】の訪問より4年半
http://shgogo65006854.livedoor.blog/archives/cat_53977.html


【安芸の学校跡・集落跡】
http://shgogo65006854.livedoor.blog/archives/cat_53300.html


目的は影野の集落跡訪問
【地理院地図 1/50000】


【地理院地図1/25000】

影野の橋を渡り登った先に集落跡があるようだ



・現在の地図でも集落跡が確認されている
(と言っても実際に地図に反映されているのは車で移動し靴を履いて普通に歩いて調査のできる場所のみで、その先は過去のデータをそのまま利用している、、、事がとても多い)



伊尾木森林鉄道(伊尾木林用軌道)跡の調査で幾度となく通い詰めた道

当時と比べ道も改善され、土砂崩れで迂回路となっていた奈比賀小学校の運動場を通る事もなく快適な道を進むのもつかの間!!

大井を過ぎるあたりから一気に「ヤバい」場所が目立つようになってくる


そして古井小学校も、明夜も、島も、スドウも、同じような状況であった


目的地の「影野」に到着

それでも「橋」を渡って山の上にある集落跡を目指そう!!!

と、、、次の瞬間!!
「なんてこった・・・」


橋が崩壊している


あの林用軌道跡も


そして当然、それは影野だけの事ではなかった・・・


明夜でも


当時は「安京」でも現在は「明夜」

あの林用軌道の橋の跡が、




橋が流されている


島のつり橋も






反対から




スドウのつり橋も・・・
(と言ってもまだ渡れるけどね)









伊尾木の最終地点「別役」もこの5年で大きく雰囲気が変わっていた


携帯の圏外に入って数時間、その日の案件であった「ケンタッキー・フライド・チキン」差し入れを断る事にする!!理由は日没までに高知市内に帰る事ができないからだ!!(笑)



当時はここまでバス路線が走っていたが


現在は古井小中学校跡までのようである


そしてその古井小中学校跡も


運動場は土砂で埋め尽くされ



校舎も






かつての学び舎の敷地も時代と状況が変われば「土砂捨て場」となる、あまりあり得る話ではないが、それでもそうなってしまう実例の一つである。

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予定していた訪問を断念したため、その方向は第三も目的地であった「裏政谷」に向けられた。


あの障子藪の北にあり、既に民家後の記載さえ存在していないのに現在まで残る地名「裏政谷」だ。

到着す


と言っても当時は「裏正谷」

また地理院地図では当初、「裏政口」だったり「裏政」だったりする。



橋が作られたのは昭和38年



地図にはない川の北側の民家後から





川を右に左に渡りながわ川を登る



何故なら地図にある破線の道はすでに存在しないから


また破線の通りに「道」があったとしても地形的に見ても崖っぷちに造られた人工的な構造物であった事だろう


しかしすでに地図に民家跡の記載もなく(過去の地理院地図にもなかったと思う・・・)

特に伝えられている具体的な話にも遭遇する事のできないこの場所に何故、表に対する「裏」から始まる「政」しかも昭和38年度「正」、、、の谷という呼称がつけられているのか

明治末期から昭和40年頃まで存在した「伊尾木林用軌道」による伊尾木川沿いの繁栄のそばに、この裏正谷は一体どのような存在であったのか・・・


具体的なものを何一つ見つける事が出来ずに、時間的な制限、そしてその地形の困難さにより引き返す事となった


【川の北にある民家跡の登り板】


しかしそれでも現在令和2年。この状況からして平成の時代にもこの「裏政谷」に人々の生活があった事は肯定できるだろう。

そしてまた同時に、現在はおろか過去の地図にさえ民家の記号の記載もなく、それでいて「裏政谷」という何やら数ある地名の中で相対的にも「意味深」な「地名」に分類され、「伊尾木林用軌道」という安芸の歴代の大事業のそばで、その主役たる場所でもないにも関わらず、「軌道」が廃止となって半世紀以上、いまだにその「地名」を残し続けている事自体が、その「裏正(正)谷」と呼ばれているその場所の歴史の長さ、重さを、現在に伝え続けているのではないのだろうか!!

その川の南に作業道が出来ている
そこを少し登ると「杣道」の入り口がある


植林の中を進むその道は、その後できた道ではなく、当時からあった道のようだ


その先に咲く三椏の花

かつてそう遠くない過去に、ここにこの三椏の花さ咲き乱れる時代があった可能性は無限大!!



また裏政谷川を引き返す時に水中を下流に向かって泳ぐ見たこともない魚のように泳ぐ魚みたいな動きを見た!!

そしてその魚の様な動きの正体は10m程先で鳥の様な動きをしながら岸に上がった。


それが所謂、現在「裏政谷」と呼ばれている場所の日常茶飯事、、という事だったのかもしれない!!

『考えるな、感じろ』!!!というやつかな!!