生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)ヒト・人間・人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。
shikanneiko
「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」
(※註 記載致しました内容に就きまして…。)
何たる不謹慎と警戒心-憎悪感情を御抱き?滅亡-絶滅イコール悪-わるい、の先入観念。否、思考の囚われ-構え-かたさ-強張りであります。全くの拙文で御座いますが、よく御覧になってみて下さい。(※逆問致しますが、私の提言内容以外に救済策など果たしてあるとでも…?)
(尚、付言致しますと、以下に御示しさせて頂きます用語に御留意頂いた上で、本文を御閲覧下さりますと、助かります。
当方が個人的に注目致しております用語群の一部でも御座います。)
人類 地球 絶滅 滅亡 道徳 倫理 哲学 生きる意味 自我 提起 提言 提唱 人間扱い 徳 道理 道義 徳義 正義 人道 存在価値 存在意義 消滅 消失 人間 ヒト 生きる意義 自然環境 生態系 人間以外 他者存在 生物の権利 生命の尊厳 いのちの尊重 概念的考察 正道 思い遣り 全人類 原理的思考 被害者 実体験 追体験 真理 らしさ 本音と建前 対象化 優先事項 緊急課題 急務 謙譲 謙虚 謙遜 誠実 篤実 誠心誠意 主体性 節度 罪悪感 罪障感 領分 分際 自然破壊 自分がされたら 加害行為 虐待 大量虐殺 大量殺戮 思い上がり 形式主義 独善 傲慢 野放図 皺寄せ とばっちり 実験台生物 お門違い 犠牲 集団妄想 自戒 自律 自制 羞恥心 廉恥心 うしろめたさ 自責の念 諸悪の根源 形骸化 我慢 思考のとらわれ
「食肉・肉食の思想」
「人権思想の限界」
「民主主義の限界性」
「人権思想-民主主義-…、の、不充分さ-不充足」
「人間だけを保障-保証の範囲-対象とする人権思想-民主主義の、限定性-不寛容さ-致命的欠陥-決定的不全」
「人間だけを対象とする思考方法の、限界性-欠落性-欠失性-詰めの甘さ」
「人だけに限定する「愛」というものの、不充足さ-欠陥性」
「「平和思想」というものの不徹底さ-不備性(への、不満-絶望)」
「人間ヒト優先優越思想」
「他生物たちの権利」
「思考の囚われ」
「人間中心主義」
「人間-人類-ヒト、の所為-所作としての、強欲-貪欲-独善-尊大-傲慢-横柄-暴威-過剰-偏向-害他、の、醜悪-醜怪-俗悪-卑劣-狂態-凶暴-下等-非道、なありさま」
「限界性の自覚」
「「領土」思想」
「「領土」概念」
「「境界」思想」
「「線引き」意識」
「「縄張り」の明確化-実体化」
「地球返還」
「自然(環境)の償還」
「「解答」(?)までの最短距離の探索」
「法のための法」
「法規律の為の法規律」
「マニュアル主義」
「「論理」が全てかという問題性」
「「論理」への偏向」
「自己目的化した哲学」
「「証拠・実証・根拠」といったものに偏向する在り方の是非」
「「制度」先に在りきの矛盾-悪弊」
「「法律」先に在りきの弊害性」
「必ずしも、法律-法規律-制度、は、絶対か?決定的か?、の懐疑-疑惑」
「自己目的化した、法律-規則-制度、(の、悪弊-弊害-矛盾-撞着-本末転倒-…)」
「前例-先例、重視-偏向、社会-社会システム-社会構造・の,風習-習俗(?)-風潮」
「生物多様性に対する独善的暴力」
「専門分化の既存-既定-前提」
「人間社会の癌ガン細胞(及びその動態)との酷似」
「もはや統制統御統合不可能」
「原点への遡行」
「諸科学者の冷徹になる余りの冷酷への帰着」
「外見-外観は宗教に非ずして、その、実体-本質-実質-真相-実相-本性-…、は宗教そのものである怪現象」
「もはや高度に洗練された観のある現代を地平-舞台にしての、宗教的なものの巧妙な紛れ込み(「宗教」化の多発事態)」
「記法・述法・結構様式・諸表現展開・…、の画一化」
「神格化-「伝説」化の興隆・流行」
「「~神話」「~幻想」「~幻覚」の氾濫」
「「社会存在」として、外界-外部からの多種多様な、「~神話」「~幻想」「~幻覚」「惑わし」、に、常にいつも、振り回されて-掻き回されて-攪乱されて、訳もわからずにいつのまにか一生を終焉する事の、あだなさ-無意味さ-無意義」
「鋳型に嵌められて、飼い馴らされて、生きることの、不自由性-「夢の無さ…」」
「法規律の絶対化」
「「原則」の絶対化」
「「私」「我」「個」の具現としての「国家」「社会」(という、集団-集合体-組織体-構成具象)」
「実体験と追体験との、圧倒的な-歴然たる-決定的な、落差-差異」
「分画を生きるだけの在り方」
「「原則」の本分」
「人類滅亡消失を「予定」すること、への-にまつわる、課題設定・重要性の全般への普遍的な認知-理解-自覚-受容・取り組み・推進」
「加害者優越(優勝)・被害者劣後(劣敗)、の、不条理・理不尽・非道」
「富と幸福感との非相関」
「「畑違い」(の、領野-方面-事案-…)への安直な、侵出-侵入-侵犯」
「軽挙妄動への「謹慎」の在り方(の不在…)」
「「~らしさ」「~の部分」「~の一分画」「~の役割」…といった限定的な諸々-自己に限定性を与えるもの(or社会的な期待-要請-要求-強制)に、とらわれる-縛られる-拘束される、事」
「既定された-規定済みの-押し付けられた-他から勝手に決められた-主体性を奪われたものとしての、「らしさ」「部分」「分画」「役割」「理想像」…だけを生きる(なぞる)ことの、むなしさ・「夢の無さ…」」
「「優先事項」「緊急性を帯びた課題」…の理知的取捨選択」
「「生死(レベルの問題)」「自分がされたら」「他者存在(自己以外)(※「人間以外」も無論絶対に含む)へ配慮してこその健全な「自由」」…、へのまなざしと社会的焦点当ての重要性・への迅速な取り組み・早急の向かい合い」
「生と死との不可逆、そしてその、決定的差異・絶対性・断絶性・極限性・重大性」
「前提の前提、その又の前提、更にそのまたの前提、そして更にその…~」
「いまや(社会の構造-国際関係、がほぼ大体は構築されるに到った現時点となっては)およそ全ての人間の心に存するものとは後天的に身に付けた妄念・妄想である」
「「らしさ」の合理性の考察・検討」
「「らしさ」の強要」
「(人間存在の)抜本塞源」
「一線を越え過ぎた人類」
「終末-終焉-終幕-終極、を、覚悟-決起、すべき」
「文脈曲解(≠誤解)の愚-弊-不毛性」
「「揚げ足取り」(ばかり)に、励む-勤しむ-固執する-執着する、ことの、愚蒙-妄執-迷妄-悪辣-あだなさ」
「「日和見主義」・大勢(タイセイ)迎合、の姿勢が結局は、無難策であり、引いては、優越勝利してしまう…という、正義の不在の一面」
「強者必勝-弱者必敗、の、理不尽-不条理-無慈悲-非合理-非情」
「やみくもの盲目的な「進歩」「発達」「前進」とその歯止め」
「文明-文化に(逆に)「使われる」ことの愚かさ」
「「寄らば大樹の陰」への傾斜-傾倒」
「反「人間中心主義」」
「反「人間優越主義」」
「反「人間優先主義」」
「反「ヒト、中心-優越-優先、主義」」
「反「人類、中心-優越-優先、主義」」
「人類愛という集団妄想」
「「人類愛」という名の集団妄想」
「生態系の攪乱」
「「眼高手低」の氾濫」
「他者存在への配慮」
「人類の独善による被害者-犠牲者たる人間以外(の存在)」
「独善-傲慢-刹那主義-快楽主義-享楽主義-恣意的所為所作-キワモノ追い-好奇心-(諸々の)無責任(行為)(な、知的欲求-…等々)-…、の、被害-加害-害他、としての皺寄せ-波及(「お門違い」の迷惑行為)」
「人間による、被害者-犠牲者、たち」
「人類の義務」
「人類絶滅という逆説的な救済」
「正義-理想-真実-…、(といったもの)、へ(向けて)の-に対する、ニヒリズムの不毛性」
「諷刺-冷笑-品評趣味-皮肉-嘲弄、(を)して生きるだけの-ばかりが能の-だけ(の連続-連綿)で一生を終える、あだなさ-空虚さ-お粗末な空疎さ」
「冷静さ-落ち着き無しでの深い洞察を欠く、感情-フィーリング-恣意-気分-…、まかせ-本位、の愚劣迷妄さ」
「協調-共同-調和-平衡をしない・「共生-共棲」すること-という事、が、不可の-無理な-出来ない、生物種、ヒト」
「(例えば、「長期」「大局」「将来」「未来」…等々の側面を加味-考慮しての、)「急がば回れ」に本当に真理は存在するか?の惑い…(そこには、時間的次元-ときの流れの位相、が前提されているが…)」
「一方的な、「監視」「管理」、の横行-公認の、不公平-不平等」
「「警察」(という名前-名称-名義の、組織体-行政機能-武装集団-強圧機構-威力団体-国家機関-国家権力)批判-議論が、盛り上がらない-巻き起こらない-湧き返らない-隆興しない-沸騰しない-活性化しない、ことの不思議-謎((不文律的な-暗黙のルールとしての)禁忌事案?禁止事項?タブー視?)」
尚、更に、前々より心中でいろいろと思案致しておりました私自身の個人的な諸々の随想の一部分を、ここに自己開示として付け加えるように掲示を致しておきます。
但し、断章的であり順番序列にしても前後連関が調整はされてはおりません…。
内容的にも曖昧あやふやな調子で大変雑駁としたものになっており、誠に理解し難いようなぶざまで取り留めも無いような様相を呈してしまってはおりますが、そこはどうか御容赦下さい…。
先ず初めの前置きとして申し上げたい事には、飽くまでも、私的な事案にしか過ぎないのであるということに、なにぶんにも御留意下さい。
余りにも奇妙-奇怪な記法で、異常なまでに独特過ぎる文体で御座いまして、凡そどなたの目から見ましても「変文」で御座います事には全く相違ありますまい…。
大変恐縮の思いでありますと共に、甚だ恥たる思いも多分に御座いますのですが、これが私のどうにも抜け切れない(観のある…)ような習性の一つなので御座います…。
由りまして、必ずしも御期待に沿えるような代物では御座いません事、どうか御承知置き下さい…。
余りにも、お粗末な体裁(酷過ぎる悪文-整理の成っていない醜文-きっと意味不明と取られるであろう筈の書式-…)で御座いますので、この部分はすっかり飛ばしてしまっても一向に構い御座いません。
然し乍ら私にとりましては、それぞれが切実なる、苦悩-懊悩-煩悶、の対象事項で御座いまして、目下に於きましてもこうした案件を(「(何という)ヒマジン…」とかバカみたいに御思いになられるかも知れませんが…)至極真面目に悩み続けているような状況に御座います。
敢えての想いにより付記致しましたこれらは、御願いとして「もし宜しければ…、どうぞ御閲覧の程を…」と申し上げますくらいの程度の謙虚-謙遜の気構えでの文言で御座います。
本文の閲覧者様の御厚志-御寛容の想いにてで、参考までに御覧戴けましたらば誠に光栄ですし、発信者側としてはとてもうれしく助かります様な思いで御座います…。
そして、何らかにも思いを共有するような事が適いましたらば、まさに望外の幸せ、幸甚の限りという言に尽きますので御座います。
それでは、下述下記で御座います…↓。
「言語的次元を前提とする「社会」存在としての人間、又、その自意識化-自覚化の貫徹を継続的実行をする事。
何気ない日常に於いては、殆どこうしたことがらは、意識するような事が無い…・意識などはされてはいない…、というような場合が多い感じであることを鑑みれば、自己に対しての自身からの注意喚起として、大いに意義性を持つのではないのだろうか?」
「少なくとも、一回性だけにしか過ぎない-一回性としてのものの-「一回生涯」のみ保証されているものである、自己存在の確認」
「一生涯というものは、歴史的経緯-人類史、の中の、限定的な-部分的な-断片的な-断章的な、ひと区画-一区画、としてだけにしか過ぎないのか…、という大いなる懐疑」
「記録-履歴-…、及び、その-それ(ら)の、保存-保管-保存管理-伝承-継承-…、を念頭に入れての、生き方-在り方、とは果たして必ずしも「良い」と言う事が出来るのか…、の(転回的な)懐疑」
「自然体での生きざまに対する、抵抗感-違和感-侮蔑感-…、といった、のちのちに備わったものとしての、とらわれの後天的意識や先入観念」
「取り分け人為系のなにものかにもとらわれたりせずに、自然-環境-生態系-人間以外-人類以外-…、と共に、協調的-調和的-整合的、に、我が、一生-生涯-畢生、を、(ごく普通な様子で)「自然体」に・「自然体」としての形態で、生きることに徹する生活の営みの形態。
そうしたスタイルに関して、「多様性」という、視点-視座-観点、から鑑みても、認容-許可-容認-認可-許容、されようものである…、と強く思うのである。
むしろ-却って-逆に、こうした在り方の方が、穏健性-平和性-安寧性-健常性-健全性-…、が所在-存置しているように見受けられるようではあるのだが…。」
「「記録」(ということ-するという事)(系)に固執-執着する「人間」存在の姿勢ばかりが、果たして本当に、正当-正統-正道、と言えるのかという疑念」
「一回性の身に在ってみれば、全体の部分-部品としてで、つましく-つつましく-つつましやかに、生きることだけが限界である…、というのは只単なる、「思い込み」「錯覚」「洗脳」「教化」…からの、或いは、「同調強要」「同調強制」「同調圧力」…に由るものとしての、慣行-慣れ合い-馴れ合い-惰性-冗漫-漫然継続(永続)-とりこ-とらわれ-…としての結実-産物-幻想-幻覚である、のではないのか…?にしか過ぎないのではないか…?」
(※尚、ここ↑で「全体」というのは、例えば、人間社会・集団組織体・共同体・コミュニティ・時間-とき-時代-時期・空間-ば-場所-地平・時間空間(時空)・時系列・人類史・…などが挙げられよう…。)
「「天上天下唯我独尊」(テンジョウテンゲユイガドクソン)と「我、沈思黙考す、ゆえに、我、存在す。我を確認す。」との思想的通底性」
「諸「問題意識」系が、
衰弱-衰退-減退-減耗-消耗-沈滞-沈静-鎮静-…
or
衰亡-衰滅-消失-消沈-死滅-膠着-途絶-断絶-…
して行く事への、懸念-危惧-憶測-不穏」
「鵜呑み-言いなり-言われるがまま-唯唯諾諾-…、の「常識」化-常態化を、基点-起点-転機-契機-起爆性、として、そこから徐々に「社会瓦解」へと、通じて行く-相成る、事というような、道筋-経路-連絡-連結-連続、という想定はどうであろうか…。
この想定、果たして、本格性に欠ける・荒唐無稽である、等々とはっきりと言えよう事であろうか…?」
「(ぬるま湯的な・「喉元過ぎれば熱さを忘れる」然としての・「当たり前」意識から由来する)
「平和感」「安心感」(「安全感」)の、悠長さ-おめでたさ-オメデタサ-…。
そして、危機意識の、欠失-欠如-欠落-喪失-逸失。」
「柔軟性・融通性・アバウト感・…、の、無い~少ない-稀薄な、学問世界-学術分野、及び、経済方面-ビジネス界、の原理的側面。
そして、その両者の各お互い同士の、結託-癒着-…、の関係に就いても、社会問題として取り沙汰すべき-問題視すべき-疑問視すべき、(怪しさ-疑義、いっぱいの-満載の)事案-案件であると思われる。
(因みに、更にこれに付け加えるならば、諸「制度」系-諸「法規律」系、の領域も相互関係要素の大いなる一角として浮かび上がる筈であろう。)」
…
…
以上です…。
そして、ここからの下記下述↓が一応の、本文-本題-本項としての内容に相当致します。
生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)ヒト・人間・人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。
shikanneiko
「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」
(自然発生的に誰しもが考えることだと思われますが、)「人」としての最重要課題、(以下に示しました矢印「⇄」は敷衍の遷移、順序を示すものでは決してありません。考えの原初からの順序列は今となっては最早定かではないと思います。しかし推移の順位、順番などこの際特別段に問題とはならない筈です。只言える事は対象それぞれには紛れもなく深く強い密接な相互関連性が存在している事(相即不離)は自明、という事です。「自」と「他」の截然たる区分けは社会化が前提の現代では、どうしても出来ぬ事なのかも知れません…。)即ち、「私」⇄「人間、ヒト」⇄「全人類」の存在のor生きる意味及び意義並びに根拠とは何でしょうか?
(ところで、私自身の「ばか丸出し」然、無知を曝露呈する様で御恥かしい限りですが、私の漠然とした認識では、哲学は「意味」の分野を思考察、片や倫理は「意義」の方面を思考察するものと思っております。自信がありません、とんだ誤釈でしょうか?)
個人⇄集団の内面、何たるか、主体、概念、の充全な洞察、考究は緊張感・責任感・切実感・切迫感・羞恥心・謙虚精神・罪悪感・謝罪感、を以て臨むべきことであると強く思います。
グローバルな地球的な国際化・社会化した現代に於いては、尚更にも増して人間として考えなければならぬ最重要課題でしょう(然し私、個人的にはその方面の談論風発の見聞、いまだかつて覚え無し)。
又更に利己的「意義」(の追究)はわかりますが、利他的「意義」という代物は何らかあるのでしょうか?
私、例が思い浮かびません…。
然しながら以上、結論を先に言ってしまえば、(予想して今後将来的にも)蓋し凡そその答えは、無い、或いは見つける事は不可能、というのがほぼ決定的な真相かと思われます。
少なくとも有史以前以後にも先達諸々が論究せんとして来た事ですが確実な証明、完成の功相成るに至っていないのが現実です(何故ならば、直観的に現実の各様各態のカオスの山積を概観するだけでも、物心ついた人ならば即座にも判じ得る事だからです)。
達観して悟りの境地に至った人等、果たしているorいたのでしょうか?
(ところで、ちょっとした余談です…。梁塵秘抄の有名な歌、「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」があります(殆ど周知ですよね…)。誠に僭越ながら私なりの我田引水、牽強付会な私的解釈を致せば、生きる意義とは何かとの哲学的問いかけであったのでは?、との読み替えを致しました。最重要課題、大切なものを、なおざりに、置き去りにして、個々が勝手気ままに、自由に、遊び(=諸々の何らかの行為・所作・行動)に耽っています、御執心です。「遊び」イコール各主体それぞれの何らかの欲求願望の充足…と解釈致しました。(かと言って、この場合に於いて、「あそび」とは何も必ずしも娯楽、遊興、享楽、快楽、的な事象に限った事ではありません。人為、ヒトの所業を全て「あそび」として総括。「生きる事の「意義」を考える事、解明する事、無くして「あそ」んでばかり居ていていいのか」との警句…。との読み替えです)つまりは、寄与・貢献・慈善・愛他・利他・学究・研究・勤労・仕事・作業・献身・苦行・ストイシシズム関連・等でさえも究極的には、絶対的には、本質的には利己的欲求願望の一種に過ぎません。)
このような状況から鑑みまして、私の個人的な(且つ極論・酷評的な?)言い方をすれば「惰性で駄齢を重ねてきた人類史」と表現せざるを得ません(生意気を申し上げます様ですが…)。
さて、自己、自我とは何か?そして果ては社会や世界全体とは何か?に就いて。
これらが何故だか世間的に盲目的気味になっている事、逃避・遁走されがちで遠慮・忌憚扱いを呈している状況の要素・因子を、雑然とですが自分なりに考えてみました。
元来からして、各人各様どのような形であれヒト主導の国際社会の蓋然的な揺るぎ無い存続の「確信」を本気で妄信→考える必要性・切迫感を感じない。
受動的に虚像を妄信させられている、被妄信。
わざと、故意に、意図的に、知らぬふり、かまとと、確信犯的無難志向・事勿れ主義、の道・方略を選択する。
多忙。
考えている暇など無し。
外界からの各種何らかの刺激・入力が多過ぎて対処・集中が出来ない、困難。→注意・関心が散逸、分散してしまう。
関心が起こらない。
別の事物象に関心を向けている(夢中になっている)。
或いは向けさせられている。
もしや「関心寄せ」の巧妙な操作(?)をも被っているのでしょうか?
どうしても具象的とか直観的とか感覚的な、比較的認識・判断の容易な物事が偏愛、嗜好されがちである事。
(挙例として不適当かも知れませんが…、)かの有名な「杜子春」的、生き方・人生設計への転換→落着・帰結。
世渡りに於いて、華美豪奢では非ずに、かと言って卑下零細の道を辿る訳でもなく、「中庸」の人生方略を執るべき事こそ最上最良最高なのであると自己を説得してしまうとか…。
特殊な「専門分野」のひとつと解釈して割り切ってしまう(心の中で斯界、斯道の権威に委託)。
「どこかのだれかがやってくれているさ…」とか…。
哲学(的思想関連諸々)など実の無い贅沢な有閑人、閑居者、暇人のくだらない「思索」の産物である、空論だ、との偏見・決め付け。
その他の例としては…。
寡黙、むっつりを決め込む。
そして更には何の流儀か知らぬが、自己愛、自己陶酔的に孤高を「地で行く」向きも多数存在。
「能ある鷹は爪を隠す」(実際は、肝腎かなめの「爪」自体そのものが存在しなかったりする人も少なくない様で…。)を気取る御仁たち。
言外に(非言語的コミュニケーションにてで)自身の高尚さ高邁さをそれとなく匂わす、アピールする(しかしその内相実体は何ともお粗末だったりする…。いわば単なる見掛け倒し)。
等々が思い浮かびました(もし以上以外のその他の要因について存知なさっておられますようでしたらば御教示の程、されたく思います…)。
そしてまた更には、哲学的思考をいざしようものなら、その大抵が直接的にも間接的にも、外界的要因からも「禁忌の事項・行為」として抑圧・阻害・妨害を被る事になる様に思えます。
その兆しを、歓迎ないし放置(中立的対応)するどころか由々しきものとして冷遇する、攻撃対象とする暗黙裡の符牒でも存在しているかの様です。
例えば、
モラトリアム人間のステレオタイプとしてラベリングされ、誠実に、本気で、真面目に取り合ってくれない。
或いは「小人閑居して不善をなす」の先在、既存パターン・鋳型を連想、→借用して当て嵌めてしまう。
創始・進取の気概の萌芽を社会的圧殺を以て諦念させる。
外的要因の各関係性を鑑みた上での(疑似的シミュレーション的な)学習性無力感による想起から諦めに至ってしまう。
イノベーター、革新者は良い意味でも悪い意味でも統制を乱す存在として、その多くが由々しき曲者として何かと煙たがられる(特に為政者側、保守的傾向人間、権威主義的性格の者、等からは目の敵にされ易い(自分の地位の安泰・盤石・太平を脅かす存在として忌み嫌う)様な感じがします。尚この事は、自由主義の諸刃の剣の様な感じがしないでもありません。哲学的教育課程の画期新規組み入れ・組み込みは、主導者・権威者・為政者側にとっての意図せぬ、計らざる「造反者」「謀叛人」「革新家」「イノベーター」の養育・発生のリスクをも包含する事になるからです)。
遂行せんが為に(主体性を以てして)暗中模索或いは試行錯誤に奔走した、その当該者自身も「角が取れて丸くなってしまった」人々と成り果て「あれは若気の至りであった…」と悔悟してしまう。
人生の過程で様々な紆余曲折を経て、ようやっと持論・自説が凝結、結実をみて、いざ外界に向かって提言したく思うようになりしも、気付いた時には自分は既にもう干からびた老人…。
誰も話に耳を貸さない。
世の習いで、せいぜい「年寄りのうるさい、つまらない繰り言」扱いを受けるようになってしまう。
「集団・大勢・多数派からの逸脱への恐怖→同調志向、無難志向」という人生設計転向・方針転換パターン。
…等。
斉一性、斉合性、整合性、を重んじるお国柄、国民性の影響も無視出来ない様に思われます(この国固有独特のいわゆる「村八分」思想もこれと関連している感じです)。
以上これらが、珍しくもない顕著、蓋然実態であるのではないでしょうか?
かくいう私も、いわゆる「モラトリアム(人間)」或いは「アダルトチルドレン」のそしりを免れぬかもしれません。
しかしそのそしる・けなす・ののしる御当人方々は一体全体この問題をどう克服して大のおとなになったのか?
所詮「現実逃避」「責任放棄」「妥協」「我慢」「事なかれ主義」「現状満足」「安住志向」「和を以て貴しとなす」「損得の面などから打算して敢えて直視しようとしない」「集団同調」…等々のいずれかを決め込んでいるのが関の山なのでは?
やる前から達成の困難さに怯え即座に諦めてしまった短絡への恥、壁を越えられなかった悔しさ、自己自身の勇気の無さ、…等々どうして自己嫌悪に陥らないのでしょうか?
摩訶不思議でなりません…。
蓋し謎は深まるばかりで理解に苦しみます…。
以上諸々のようなスタンス・態度を是と、している、させられている方々や哲学的思考、の断念を決意、を断念した、を断念している、人々→即ち斯界については寡黙状態の向き・諸人、そして更には哲学的思想関連の、権威、(学)識者、研究者、並びに(市井に存する人に於いても)哲学的な思考関連の情報系統の自分自己自身への入力行為にばかりいそしんでいる傾向の各人たちにも私、強調して提起したいです。
自己内の信念なり主張なり言い分なりを外界に向かって発信・出力・表現・「対話」しなきゃあ、てんで意味が無いんだよ!と云いたいのです。
(尚、自己の内因的制限要素(無学ものであります…)から、少なくとも私だけに限っては「ハムレット型」よりかは(当たって砕けろ式、猪突猛進然として…)「ドンキホーテ型」(陽明学然とも?)を踏襲する、地で行くしかないのがいささか悔やしい所です…。)
更にこうも言いたいです。
外的存在として超弩級巨大膨張広範化している決して無視できぬもの、即ちマスメディア・マスコミュなどの送り手から発信される情報、即ち政治、経済、社会問題、事件、等にとらわれ過ぎてはいませんか?と。
その殆どが、その場その時限り、当座的、短期的、(確からしい事実ではあるのですが、疑似的であるという意味で…→)空想・錯覚(←例えば、あたかも自分は世界や社会としっかりと繋がっているのだという幻想とか…)・別世界的、虚像・虚構的、民間性・庶民性の無さ、個人の力ではほぼ統制は不可能な点、恣意・偏向的、等の側面に特徴付けられている感じです。
しかして、考察すべき事の優先順位を真剣に考えてみれば、(そのようなほぼ無駄な雑念を生起させるものにとらわれる事無しに、)哲学的思考こそがその一番初めに来るべきものであり、且つ課せられた絶対的責務だと思います。
自然を制覇掌握凌駕するというひとつの価値観念、克服への念願、欲求、願望を以てして科学は今の今まで推進されてきました。
事物象を明確に「対象化」する事を端緒とする事は論を俟つまでもない「科学」の営みの基本的特徴かと思います。
現今まで科学ばかりが盛んに伸びました(細密化、精緻化、分化、新生)が、この方面(哲学的思想関連、周辺)の議論の(微々たるものでもいいし或いは画期的な)進捗はあったでしょうか?
諸「科学」分野は目まぐるしい隆盛をきたして目覚ましいものがありますが、肝腎の道徳、正義、正道、道義、倫理、聖性の精神、がおろそかにされている感じ…。
尚注意しなければならないのは「科学それ自体は厳然と存在しているのみ。」という事だと思います。
(その意味に於いては進捗途上(或いは「発見予定」的な科学)のものはおろか、未成立、未知、未開拓、未踏、未然、の科学(隠れて・隠されて、いまだ見果てぬ・見えない・見えていない・見る事が出来ない科学)もまだまだある筈です。「潜在科学」?)
只、それ自体には何の罪業性も無いです(科学の無害性)。
紛らわしい、ややこしいのですが、厳密には科学の功罪を問う事自体は全くのナンセンスであると思います。
但し、志学の傾向や「知識」「学」の取捨選択の、(情緒的・恣意的な)「偏向性」が問題として取り沙汰されると思います。
科学は推進、進捗させるにあたり目的が同時に発生すると思うのですが、その根底にあるものは返報・見返り・報酬等といった利益・利得に対する何らかの欲求願望(←私情、主観、個人的or固有or特定の嗜好・趣味・価値観念、を含意したものとして…)にまつわる要素因子であり、これを自動的に包含する、兼ね備える事になってしまうと思います。
外的な要因として時代・世相・社会に由来する要請・需要・機運・採用のされ易さ、等もある種の変数・関係性として大いに考えられるかと思います。
これらの関係性が介在、絡んでくる事に由り、始めて、これを運用する側に対してこそ、問題点が所在(私情、欲望、価値観念、感情、好悪、恣意、…等を以てして科学を良い意味でも悪い意味でも利用する)して来るのであると思います。
哲学はもっと万人(万「生物」にも)に門戸を開け放たれているべきです。
哲学自体に「悪気」(?)は無いのでしょうが、飽くなき精緻化を求め続けたがあまりに、複雑・難解(・怪奇)化してしまい、もはや実用的とは言えなくなってしまっている観があります(よく似たいい例が「広辞苑」でしょうか?内容の、精緻さ、広範さ、正確さ、情報量の多さ、等の面に於いて、紛れもなく非常に優秀、秀逸。その功績は殆ど誰もが認める所です。然し直截に言ってしまえば、重い!小回りが利かない!即ち、そのあまりの膨大な情報量を詰め込み過ぎたが為に、自重(ジジュウ)の重過ぎさがあだとなって、果たして便利、実用的と言えるかどうかははなはだ疑問…。という点です)。
例えば緊急時、暴動時、巨大異変時、等の場面に於ける長考熟慮高学識を必要とされる様になってしまった哲学の実用性とは?と考えました。
つまり長広膨大な「理論」が咄嗟、突差に何の役に立つのか?という素朴な疑問をかねてより、懐疑的な私は抱いております。
ですから、机上の空論呼ばわりされる事態が判らぬでもありません。
そのほかには、個々別々の、関係性、特徴、差異、等を加味した上で問題として顕在化される「汎用性」とかも考慮するべきに値するのでは?
(例えば、国別・地域別等の場の素因、人種別・性格別・世代(「世代間のギャップ、壁」とか)別等の人間的素因、時代・時期等の時間の素因、等。)
哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは国連が考えられますが、実際のその進捗状況がどの程度なのかは全く謎に包まれています(もしかして、この方面の議論など軽視されているのが実情では?)。
しかも、国連の組織としての実質的真相、即ち実効力・拘束力の無さ、見掛け倒しの弱体的勢力に過ぎない事、道徳・倫理面に於いての完璧性とはまだまだほど遠くいまだ考究・整備が発展途上にある事、威厳が今ひとつ欠如している事、平等とは言い難く偏向性・階層性・差別性・恣意性が内在している事、等を考え合わせれば大きく夢・希望・期待を託す程までには、残念ながらとても出来ないように思えます。
非常に不安定的、危なっかしい感じ、印象を受けてしまいますのです。
他に哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは大学あたりでしょうか…。
具体的にどのような授業が行われているのかは、私は全く知るべくもありませんので、せいぜい想像の域を出ぬのが何とも拙いのですが、例えば、その現場に於いては、哲学と哲学史とをはき違えていやしまいませんでしょうか。
他の偉大な先駆者達の、軌跡、わだち、功績、記録、資料、文献、をなぞる、模倣する、踏襲する、学習する、…。
これだけでは真の哲学とは言えないのでは?
無論自説の創始・展開の為の、参考資料やヒントとする分には大いに有意義でありましょうが、そこに主体的な私情や自己からの思考察を含意した編集的行為が必要なのではないですか?
あと、私的、個人的牙城(限定的な空間、例えば、研究室、教室、議場、講壇場所、議会、講演会、等)に立て籠もって、引き籠もって、閉じ籠もって、内輪で同志間であれやこれやと議論・談論・意見交換してみてもそとに向けて出力しなければ何の意義も無いです。
これでは、ほんの少数の限られた学者連達だけのみに許容認可されている所詮は、独善的、自己満足的、快楽享楽悦楽的、衒学欲求的、な→「知的遊戯」・「お遊び」・私的趣味・道楽・娯楽・ゲーム・学知識の発揚or誇示の場、といった所ではないでしょうか。
そして、せいぜい為政者層・権力層或いは富裕層の諮問機関どまりに成り下がっているのが実態かと。
知的興奮を満喫し、教えを垂れる事に悦楽感を得、尚且つも高給取りで…。
こんなうまい商売は無いのではないでしょうか…。
自称「学者」「識者」の→実質「オタク」どまりなのでは?
孤高を決め込んでいる、特権化・専売特許化した、形式的哲学に堕した、ブラックボックス化してしまった、象牙の塔化した、敷居の高くなってしまった、哲学及びその周辺の「知」関連に未来はあるでしょうか?
(昔も今も)(学)識者もさることながら哲学者関連の人々に、緊迫した課題を先送り、棚上げしている自我に対して良心の咎め、呵責は無いor無かったのでしょうか?
無力感に自己嫌悪に陥ってはいないのでしょうか?
哲学的思考の始まりの時代はいまだ制圧制御しきれない自然の脅威にさらされていました。
然しそれは今は昔の事、自然を気が済むまで征服、凌駕しまくってきた現今は価値観念の画期的革新が必須、迫られていると思います。
国際的情報化の進展により学際的活動もそれに伴って活発を見せていると思います。
盛んな議論の展開、意見交換も、IT化がなおも行き渡り続けている現代に於いて、より増して可能になってくる筈です。
取り分け哲学・倫理学の分野方面に於いては一体どうでしょうか?
哲学と科学の類似点は万人(万生物)に更に時代・空間をも超えて共有され得るという事でしょうか?
(尚私は科学も哲学も時間、時代、時系列、空間、場所を(一過性では非ずして)超越している点では類似性有りと思っています。)
共有されるべき「確からしさ」「認知・判断の手掛かり」の淵源として重要です。
「実証」された事、それが固定的なものなのか変動的なものなのかは、私悔やしくも残念ながらつまびらかには理解出来ません…。
多大なる勉強、練習熟達が必要かも知れませんね…。
ここで一応漠然雑然とではありますが、私の「哲学」というものに対する私見、一家言を以下↓に示しておきます…。
(斯界の権威、専門家には適うべくもない浅見でしょうが…。従いまして自信は全然御座いません…。これらは、雑然漠然曖昧模糊としたものであり「信念」という程くらいにまでには、完全な凝固凝結をみてはおりません…。未だ途上の思案に過ぎぬものです…。)
時空超越の哲学
不偏・普遍(・不変(←ある意味に於いては少し語弊及び誤解の発生があるかもしれません…))の哲学
最大公約数的な哲学
汎用性のある哲学
万人はおろか万生物に共有されるべき、哲学
人種、生物種の垣根、境界線を取り払った哲学
「フィロソフィー→知(智)を愛する。愛知。愛智。」にははなはだ疑問。懐疑的態度をとっております。「「自」と「他」からの、「主」と「客」からの、「私」と「公」からの、(公私、自他、主客、の各併存としての、)概念思考察の、行為・いとなみ・知」あたりが適当or妥当or穏当なのでは?
伏線・示唆・布石、的な企図・狙いを込めます意味で、以下に私の所感・随想・雑考・主張…等々の諸々を記述させて頂きます。
雑然且つ漠然としてしまうのを助長してしまいます事が懸念材料として気になってしまいますが、そこは御高察を以てして文脈絡を判じ戴けますと助かります…。
私の、作文(幼少の頃より苦手、不得手で御座いました…)・構文・講述・論説、の能力の低劣さに起因する事を素直に認めます。
済みませんが御容赦下さい…。
私の意見・主張・所信として兼ねてより発信・提言したかった事を述べてみます。
親愛和性の生成喚起の素因として、どう考えても直観的な「類似性」こそが最重要候補なのでは?
これは、哲学の見地から、道徳・倫理・正当性の確からしさ、を思考察する際にかなり、重要な、優先的な、明解し易い、ヒトという生物種として正統性の高い、要素因子事項のひとつとするべき事であるとの信念を、個人的に私は持つようになっております。
(私の考えを判り易く説明致しますと、例えば、愛する、親近感を抱く対象としては大方が先ずは同類たるヒトでしょう。そこには、無論明確な偏り、偏向性があります。他方、その逆というか凡そヒトとは特徴的に全然似通っていないもの(生物も、非・無生物も)に対してはさほどの親愛和性を抱くことは、無し~稀でしょう。その習いから推知できよう事でしょうが、生物学的に近縁の哺乳類に対して愛着を抱き易い傾向であるのを説明出来るのではないでしょうか?引いてはやや分派たるものであれども、やはり近縁の脊椎動物系統各種各様に対しても、量的・質的にグラデーション然ではあると思いますが、当該対象に愛情を感じてそれを注ぐ傾向があるのではないのでしょうか?(尚、似通っているが為にかえって気に食わないという例外もありますね…。例えば、サルや同生物種たるヒトの「ライバル」とか他集団系、等。競争心・闘争感・葛藤、が生じるのは大変頻繁に散見される事です。))
先在知識、先有傾向、に就いて。
先有・先在・既有・既存の固定的な価値観念と客観的概念との、新事物象・潜在的「知」に対する、盲点化、シーリング、注意妨害、対象化の阻害、視野・感覚の狭小化、思考のかたさ・とらわれ・こわばり。
規範や「常識」が一旦成立してしまうと(あたかも硬性憲法のようなかんじで)柔軟に意識・認知を変容する事が出来なくなり、認識・判断の手がかりとしてそればかりに依存、拘泥してしまいがちのように見受けられます。
「常識」「通念」自体を疑うべきです。
例えば、政治家・公務員・学識経験者・学界権威イコール優遇措置且つ高給取りの図式。
これらの人々はその大概が、その存在の詭弁性を露見、顕在化させないように巧妙に立ち回る、渡世術に於けるしたたかなスペシャリスト・偽善者たちであると思うのですが如何がでしょうか?
付言すると「なんとまあ、ここまでぬかすか…」と思われる、いわれるかも知れませんが究極的には、「知」至上主義、「「知」イコール、高尚。尊ぶべきもの。愛すべきもの。の図式、構図」こそをも疑うべきかもしれません…。
「智」をこいねがう事や愛する事、「智」「知」「学」こそ最上、崇高という一辺倒な一般的認知、一種の思い込み、金科玉条的硬直信仰をも、熟慮・反省・今一度の再考・検討・検証・証明しなければならない画期に来ているのかも知れません(というよりかは遅れ馳せ過ぎます)。
ここで、個人的に昔から珍妖怪奇異変妙、疑問・謎と思っております「常識」及びその周辺的事象の具体的な例を以下に列挙してみる事に致します。↓
先述も致しました通り、為政者、政治家、公務員、公僕、が高給取り且つ厚遇をされている事(この事象は何故か殆ど全世界万国共通になっています。(歴史的)経験則からの正当性、或いは何らかの合理的根拠があっての事だから…、ということなのでしょうか?)。
法の番人、警察(の例えば横暴、公私混同行為、職権濫用、威力を以ての「御役得」の不当接収)に対するお目付け役、監査役、牽制機関・組織はしっかりと整備されているのか?
その不祥事実があったとしても、かばい合い、もみ消し、証拠隠滅工作などで公けに露呈しない、闇に葬り去られているのが実態では?
アイヌ民族へ北海道をなぜ返還しないのか?
アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)アメリカンインディアンにも何故アメリカ大陸を返還しないのか?
(その他にも斯様な類例はいくらでもあるでしょう…。)
理想としての直接選挙はいまだの(当時の)社会システムでは到底不可能→間接選挙に妥協。
間接選挙は飽くまで直接選挙実現へ向けての暫定的施行であった筈(?)。
しかし現在時点に於いてはそれが実現不可能かといえばそうでもなさそうな感じです。
どうして旧態依然なのでしょうか?
憂慮すべきものである事件、社会問題、犯罪、その他不祥的事案諸々が最早興味本位の、エンターテインメント、ショー化している事を薄々自覚しておきながら好奇心(猟奇心)旺盛に野次馬根性でそれらに異常なまでに関心、注目を寄せ、外界に向けては然も善人・健常者ぶって、刺激に飢えているその内心を公言、告白しようとしない事。
事件が起こるのを、送り手側も受け手側も、期待している、待ち望んでいる、のが本当の実態ですよね…。
食品表示に於いて何故か原材料欄に「水」の表記がなされぬ事…。
デモ、ストライキ、(リンチング、リンチ)モッブ、暴徒、テロリズム、一揆、社会的抗議活動としての暴動、実力行使、クーデター、など何か物騒なイメージが往々にして存在すると思われますが、関与当事者の善悪を審議するにあたっては、その見かけ・形式、先入観念、偏見、決め付けに拘泥するのでは非ずに、その本質たる道義面・正当性の方をこそが問題として取り沙汰されなければならないのでは?
(「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉は少しく関係性有りかなと思います。)
少なくともこの日本国に於いてはデモ活動の成功を見た例が殆どありません。
これは引いては政治的無関心の増長につながると思います。
為政者側の国民、民衆、庶民、に対する軽侮蔑、「ナメ切った」感情・態度も増長させるものと思います。
被政者・民間からの直接の示威行為や暴力的攻撃や威力行使で牽制する事は、温床・ぬるま湯に浸ってやりたい放題尽くしの、これらの御仁達の道徳関連の「引き締め」に有効、有意義なのかも知れません…。
しかしこんなことを発言しようものならば、すぐにもやれ「凶悪な危険思想だ」、「許されぬテロリズムだ」だのとの自己防衛的見地からの糾弾が、まさに「この手の人々たち」自身から殺到してくるのは想像に難くありません…。
政治を執り行うにあたり「おとなしい奴ら(庶民・民衆)には何をやっても許される」という傲岸不遜な軽侮蔑が慣行化しており、その自己本位の錯覚から産生される諸々の横暴の断行がほぼ常態・固定化してしまっている事。
背景には日本特有の事情・風土・因習・素地、即ち「お上に楯突く」者・事は殆ど必ずや何らかの損害を被る結果となる事が歴史的経験則然として認知されており、物申す事だけでも憚られる傾向にあり、何でもかんでも唯唯諾諾の姿勢をとってしまいがちにある事だと思います。
「政治に携わる者(為政者関連にとどまらず、公務員、そして学界関連の人々も含めて)、公僕たるべし、清貧たるべし、謙虚誠実たるべし」であると、私強く思うのですが、そうでは無かったのでしょうか?
現状は「本末転倒」の様相を呈してはいませんか?
他方、経済界・商業界・産業界、系統に携わる人が人生のゲームルール(なお余談ですが、正当さ、誠実さ、道徳の高雅さ、等といったものだけでは世間を昇り詰める事が出来ないのが現実。出世するには、学歴誇示、対人コミュニケーションの巧みさ、狡猾な渡世術、詭弁、カリスマ性、虚偽、臨機応変の適応性、権謀術数、非合法まがいの合法、等々を駆使する事が必須とされ、そして又許容認可されている様であります)にきちんと沿って、功利を得、財を成し、幸福を満喫・謳歌する事には特段の異論はさほどにはありませんが(ゲームの勝者としての正当な報酬・利得なのですから仕方が無いのでしょう…)、職務に「公共性」を包含する、内包している者達にあっては、その方面によりもっとの慎重性が求められるものと思います。
公私混同、お役所仕事、たらい回し、搾取、自己中心的なありさま・エゴイズム、融通の利かぬ「杓子定規」行為、各種の税金賦課・徴収の正当性・根拠の不明確さ、等々の職務怠慢行為が跳梁跋扈しているのもいかがわしいものです。
(次記事へ続きます)
shikanneiko
「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」
(※註 記載致しました内容に就きまして…。)
何たる不謹慎と警戒心-憎悪感情を御抱き?滅亡-絶滅イコール悪-わるい、の先入観念。否、思考の囚われ-構え-かたさ-強張りであります。全くの拙文で御座いますが、よく御覧になってみて下さい。(※逆問致しますが、私の提言内容以外に救済策など果たしてあるとでも…?)
(尚、付言致しますと、以下に御示しさせて頂きます用語に御留意頂いた上で、本文を御閲覧下さりますと、助かります。
当方が個人的に注目致しております用語群の一部でも御座います。)
人類 地球 絶滅 滅亡 道徳 倫理 哲学 生きる意味 自我 提起 提言 提唱 人間扱い 徳 道理 道義 徳義 正義 人道 存在価値 存在意義 消滅 消失 人間 ヒト 生きる意義 自然環境 生態系 人間以外 他者存在 生物の権利 生命の尊厳 いのちの尊重 概念的考察 正道 思い遣り 全人類 原理的思考 被害者 実体験 追体験 真理 らしさ 本音と建前 対象化 優先事項 緊急課題 急務 謙譲 謙虚 謙遜 誠実 篤実 誠心誠意 主体性 節度 罪悪感 罪障感 領分 分際 自然破壊 自分がされたら 加害行為 虐待 大量虐殺 大量殺戮 思い上がり 形式主義 独善 傲慢 野放図 皺寄せ とばっちり 実験台生物 お門違い 犠牲 集団妄想 自戒 自律 自制 羞恥心 廉恥心 うしろめたさ 自責の念 諸悪の根源 形骸化 我慢 思考のとらわれ
「食肉・肉食の思想」
「人権思想の限界」
「民主主義の限界性」
「人権思想-民主主義-…、の、不充分さ-不充足」
「人間だけを保障-保証の範囲-対象とする人権思想-民主主義の、限定性-不寛容さ-致命的欠陥-決定的不全」
「人間だけを対象とする思考方法の、限界性-欠落性-欠失性-詰めの甘さ」
「人だけに限定する「愛」というものの、不充足さ-欠陥性」
「「平和思想」というものの不徹底さ-不備性(への、不満-絶望)」
「人間ヒト優先優越思想」
「他生物たちの権利」
「思考の囚われ」
「人間中心主義」
「人間-人類-ヒト、の所為-所作としての、強欲-貪欲-独善-尊大-傲慢-横柄-暴威-過剰-偏向-害他、の、醜悪-醜怪-俗悪-卑劣-狂態-凶暴-下等-非道、なありさま」
「限界性の自覚」
「「領土」思想」
「「領土」概念」
「「境界」思想」
「「線引き」意識」
「「縄張り」の明確化-実体化」
「地球返還」
「自然(環境)の償還」
「「解答」(?)までの最短距離の探索」
「法のための法」
「法規律の為の法規律」
「マニュアル主義」
「「論理」が全てかという問題性」
「「論理」への偏向」
「自己目的化した哲学」
「「証拠・実証・根拠」といったものに偏向する在り方の是非」
「「制度」先に在りきの矛盾-悪弊」
「「法律」先に在りきの弊害性」
「必ずしも、法律-法規律-制度、は、絶対か?決定的か?、の懐疑-疑惑」
「自己目的化した、法律-規則-制度、(の、悪弊-弊害-矛盾-撞着-本末転倒-…)」
「前例-先例、重視-偏向、社会-社会システム-社会構造・の,風習-習俗(?)-風潮」
「生物多様性に対する独善的暴力」
「専門分化の既存-既定-前提」
「人間社会の癌ガン細胞(及びその動態)との酷似」
「もはや統制統御統合不可能」
「原点への遡行」
「諸科学者の冷徹になる余りの冷酷への帰着」
「外見-外観は宗教に非ずして、その、実体-本質-実質-真相-実相-本性-…、は宗教そのものである怪現象」
「もはや高度に洗練された観のある現代を地平-舞台にしての、宗教的なものの巧妙な紛れ込み(「宗教」化の多発事態)」
「記法・述法・結構様式・諸表現展開・…、の画一化」
「神格化-「伝説」化の興隆・流行」
「「~神話」「~幻想」「~幻覚」の氾濫」
「「社会存在」として、外界-外部からの多種多様な、「~神話」「~幻想」「~幻覚」「惑わし」、に、常にいつも、振り回されて-掻き回されて-攪乱されて、訳もわからずにいつのまにか一生を終焉する事の、あだなさ-無意味さ-無意義」
「鋳型に嵌められて、飼い馴らされて、生きることの、不自由性-「夢の無さ…」」
「法規律の絶対化」
「「原則」の絶対化」
「「私」「我」「個」の具現としての「国家」「社会」(という、集団-集合体-組織体-構成具象)」
「実体験と追体験との、圧倒的な-歴然たる-決定的な、落差-差異」
「分画を生きるだけの在り方」
「「原則」の本分」
「人類滅亡消失を「予定」すること、への-にまつわる、課題設定・重要性の全般への普遍的な認知-理解-自覚-受容・取り組み・推進」
「加害者優越(優勝)・被害者劣後(劣敗)、の、不条理・理不尽・非道」
「富と幸福感との非相関」
「「畑違い」(の、領野-方面-事案-…)への安直な、侵出-侵入-侵犯」
「軽挙妄動への「謹慎」の在り方(の不在…)」
「「~らしさ」「~の部分」「~の一分画」「~の役割」…といった限定的な諸々-自己に限定性を与えるもの(or社会的な期待-要請-要求-強制)に、とらわれる-縛られる-拘束される、事」
「既定された-規定済みの-押し付けられた-他から勝手に決められた-主体性を奪われたものとしての、「らしさ」「部分」「分画」「役割」「理想像」…だけを生きる(なぞる)ことの、むなしさ・「夢の無さ…」」
「「優先事項」「緊急性を帯びた課題」…の理知的取捨選択」
「「生死(レベルの問題)」「自分がされたら」「他者存在(自己以外)(※「人間以外」も無論絶対に含む)へ配慮してこその健全な「自由」」…、へのまなざしと社会的焦点当ての重要性・への迅速な取り組み・早急の向かい合い」
「生と死との不可逆、そしてその、決定的差異・絶対性・断絶性・極限性・重大性」
「前提の前提、その又の前提、更にそのまたの前提、そして更にその…~」
「いまや(社会の構造-国際関係、がほぼ大体は構築されるに到った現時点となっては)およそ全ての人間の心に存するものとは後天的に身に付けた妄念・妄想である」
「「らしさ」の合理性の考察・検討」
「「らしさ」の強要」
「(人間存在の)抜本塞源」
「一線を越え過ぎた人類」
「終末-終焉-終幕-終極、を、覚悟-決起、すべき」
「文脈曲解(≠誤解)の愚-弊-不毛性」
「「揚げ足取り」(ばかり)に、励む-勤しむ-固執する-執着する、ことの、愚蒙-妄執-迷妄-悪辣-あだなさ」
「「日和見主義」・大勢(タイセイ)迎合、の姿勢が結局は、無難策であり、引いては、優越勝利してしまう…という、正義の不在の一面」
「強者必勝-弱者必敗、の、理不尽-不条理-無慈悲-非合理-非情」
「やみくもの盲目的な「進歩」「発達」「前進」とその歯止め」
「文明-文化に(逆に)「使われる」ことの愚かさ」
「「寄らば大樹の陰」への傾斜-傾倒」
「反「人間中心主義」」
「反「人間優越主義」」
「反「人間優先主義」」
「反「ヒト、中心-優越-優先、主義」」
「反「人類、中心-優越-優先、主義」」
「人類愛という集団妄想」
「「人類愛」という名の集団妄想」
「生態系の攪乱」
「「眼高手低」の氾濫」
「他者存在への配慮」
「人類の独善による被害者-犠牲者たる人間以外(の存在)」
「独善-傲慢-刹那主義-快楽主義-享楽主義-恣意的所為所作-キワモノ追い-好奇心-(諸々の)無責任(行為)(な、知的欲求-…等々)-…、の、被害-加害-害他、としての皺寄せ-波及(「お門違い」の迷惑行為)」
「人間による、被害者-犠牲者、たち」
「人類の義務」
「人類絶滅という逆説的な救済」
「正義-理想-真実-…、(といったもの)、へ(向けて)の-に対する、ニヒリズムの不毛性」
「諷刺-冷笑-品評趣味-皮肉-嘲弄、(を)して生きるだけの-ばかりが能の-だけ(の連続-連綿)で一生を終える、あだなさ-空虚さ-お粗末な空疎さ」
「冷静さ-落ち着き無しでの深い洞察を欠く、感情-フィーリング-恣意-気分-…、まかせ-本位、の愚劣迷妄さ」
「協調-共同-調和-平衡をしない・「共生-共棲」すること-という事、が、不可の-無理な-出来ない、生物種、ヒト」
「(例えば、「長期」「大局」「将来」「未来」…等々の側面を加味-考慮しての、)「急がば回れ」に本当に真理は存在するか?の惑い…(そこには、時間的次元-ときの流れの位相、が前提されているが…)」
「一方的な、「監視」「管理」、の横行-公認の、不公平-不平等」
「「警察」(という名前-名称-名義の、組織体-行政機能-武装集団-強圧機構-威力団体-国家機関-国家権力)批判-議論が、盛り上がらない-巻き起こらない-湧き返らない-隆興しない-沸騰しない-活性化しない、ことの不思議-謎((不文律的な-暗黙のルールとしての)禁忌事案?禁止事項?タブー視?)」
尚、更に、前々より心中でいろいろと思案致しておりました私自身の個人的な諸々の随想の一部分を、ここに自己開示として付け加えるように掲示を致しておきます。
但し、断章的であり順番序列にしても前後連関が調整はされてはおりません…。
内容的にも曖昧あやふやな調子で大変雑駁としたものになっており、誠に理解し難いようなぶざまで取り留めも無いような様相を呈してしまってはおりますが、そこはどうか御容赦下さい…。
先ず初めの前置きとして申し上げたい事には、飽くまでも、私的な事案にしか過ぎないのであるということに、なにぶんにも御留意下さい。
余りにも奇妙-奇怪な記法で、異常なまでに独特過ぎる文体で御座いまして、凡そどなたの目から見ましても「変文」で御座います事には全く相違ありますまい…。
大変恐縮の思いでありますと共に、甚だ恥たる思いも多分に御座いますのですが、これが私のどうにも抜け切れない(観のある…)ような習性の一つなので御座います…。
由りまして、必ずしも御期待に沿えるような代物では御座いません事、どうか御承知置き下さい…。
余りにも、お粗末な体裁(酷過ぎる悪文-整理の成っていない醜文-きっと意味不明と取られるであろう筈の書式-…)で御座いますので、この部分はすっかり飛ばしてしまっても一向に構い御座いません。
然し乍ら私にとりましては、それぞれが切実なる、苦悩-懊悩-煩悶、の対象事項で御座いまして、目下に於きましてもこうした案件を(「(何という)ヒマジン…」とかバカみたいに御思いになられるかも知れませんが…)至極真面目に悩み続けているような状況に御座います。
敢えての想いにより付記致しましたこれらは、御願いとして「もし宜しければ…、どうぞ御閲覧の程を…」と申し上げますくらいの程度の謙虚-謙遜の気構えでの文言で御座います。
本文の閲覧者様の御厚志-御寛容の想いにてで、参考までに御覧戴けましたらば誠に光栄ですし、発信者側としてはとてもうれしく助かります様な思いで御座います…。
そして、何らかにも思いを共有するような事が適いましたらば、まさに望外の幸せ、幸甚の限りという言に尽きますので御座います。
それでは、下述下記で御座います…↓。
「言語的次元を前提とする「社会」存在としての人間、又、その自意識化-自覚化の貫徹を継続的実行をする事。
何気ない日常に於いては、殆どこうしたことがらは、意識するような事が無い…・意識などはされてはいない…、というような場合が多い感じであることを鑑みれば、自己に対しての自身からの注意喚起として、大いに意義性を持つのではないのだろうか?」
「少なくとも、一回性だけにしか過ぎない-一回性としてのものの-「一回生涯」のみ保証されているものである、自己存在の確認」
「一生涯というものは、歴史的経緯-人類史、の中の、限定的な-部分的な-断片的な-断章的な、ひと区画-一区画、としてだけにしか過ぎないのか…、という大いなる懐疑」
「記録-履歴-…、及び、その-それ(ら)の、保存-保管-保存管理-伝承-継承-…、を念頭に入れての、生き方-在り方、とは果たして必ずしも「良い」と言う事が出来るのか…、の(転回的な)懐疑」
「自然体での生きざまに対する、抵抗感-違和感-侮蔑感-…、といった、のちのちに備わったものとしての、とらわれの後天的意識や先入観念」
「取り分け人為系のなにものかにもとらわれたりせずに、自然-環境-生態系-人間以外-人類以外-…、と共に、協調的-調和的-整合的、に、我が、一生-生涯-畢生、を、(ごく普通な様子で)「自然体」に・「自然体」としての形態で、生きることに徹する生活の営みの形態。
そうしたスタイルに関して、「多様性」という、視点-視座-観点、から鑑みても、認容-許可-容認-認可-許容、されようものである…、と強く思うのである。
むしろ-却って-逆に、こうした在り方の方が、穏健性-平和性-安寧性-健常性-健全性-…、が所在-存置しているように見受けられるようではあるのだが…。」
「「記録」(ということ-するという事)(系)に固執-執着する「人間」存在の姿勢ばかりが、果たして本当に、正当-正統-正道、と言えるのかという疑念」
「一回性の身に在ってみれば、全体の部分-部品としてで、つましく-つつましく-つつましやかに、生きることだけが限界である…、というのは只単なる、「思い込み」「錯覚」「洗脳」「教化」…からの、或いは、「同調強要」「同調強制」「同調圧力」…に由るものとしての、慣行-慣れ合い-馴れ合い-惰性-冗漫-漫然継続(永続)-とりこ-とらわれ-…としての結実-産物-幻想-幻覚である、のではないのか…?にしか過ぎないのではないか…?」
(※尚、ここ↑で「全体」というのは、例えば、人間社会・集団組織体・共同体・コミュニティ・時間-とき-時代-時期・空間-ば-場所-地平・時間空間(時空)・時系列・人類史・…などが挙げられよう…。)
「「天上天下唯我独尊」(テンジョウテンゲユイガドクソン)と「我、沈思黙考す、ゆえに、我、存在す。我を確認す。」との思想的通底性」
「諸「問題意識」系が、
衰弱-衰退-減退-減耗-消耗-沈滞-沈静-鎮静-…
or
衰亡-衰滅-消失-消沈-死滅-膠着-途絶-断絶-…
して行く事への、懸念-危惧-憶測-不穏」
「鵜呑み-言いなり-言われるがまま-唯唯諾諾-…、の「常識」化-常態化を、基点-起点-転機-契機-起爆性、として、そこから徐々に「社会瓦解」へと、通じて行く-相成る、事というような、道筋-経路-連絡-連結-連続、という想定はどうであろうか…。
この想定、果たして、本格性に欠ける・荒唐無稽である、等々とはっきりと言えよう事であろうか…?」
「(ぬるま湯的な・「喉元過ぎれば熱さを忘れる」然としての・「当たり前」意識から由来する)
「平和感」「安心感」(「安全感」)の、悠長さ-おめでたさ-オメデタサ-…。
そして、危機意識の、欠失-欠如-欠落-喪失-逸失。」
「柔軟性・融通性・アバウト感・…、の、無い~少ない-稀薄な、学問世界-学術分野、及び、経済方面-ビジネス界、の原理的側面。
そして、その両者の各お互い同士の、結託-癒着-…、の関係に就いても、社会問題として取り沙汰すべき-問題視すべき-疑問視すべき、(怪しさ-疑義、いっぱいの-満載の)事案-案件であると思われる。
(因みに、更にこれに付け加えるならば、諸「制度」系-諸「法規律」系、の領域も相互関係要素の大いなる一角として浮かび上がる筈であろう。)」
…
…
以上です…。
そして、ここからの下記下述↓が一応の、本文-本題-本項としての内容に相当致します。
生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)ヒト・人間・人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。
shikanneiko
「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」
(自然発生的に誰しもが考えることだと思われますが、)「人」としての最重要課題、(以下に示しました矢印「⇄」は敷衍の遷移、順序を示すものでは決してありません。考えの原初からの順序列は今となっては最早定かではないと思います。しかし推移の順位、順番などこの際特別段に問題とはならない筈です。只言える事は対象それぞれには紛れもなく深く強い密接な相互関連性が存在している事(相即不離)は自明、という事です。「自」と「他」の截然たる区分けは社会化が前提の現代では、どうしても出来ぬ事なのかも知れません…。)即ち、「私」⇄「人間、ヒト」⇄「全人類」の存在のor生きる意味及び意義並びに根拠とは何でしょうか?
(ところで、私自身の「ばか丸出し」然、無知を曝露呈する様で御恥かしい限りですが、私の漠然とした認識では、哲学は「意味」の分野を思考察、片や倫理は「意義」の方面を思考察するものと思っております。自信がありません、とんだ誤釈でしょうか?)
個人⇄集団の内面、何たるか、主体、概念、の充全な洞察、考究は緊張感・責任感・切実感・切迫感・羞恥心・謙虚精神・罪悪感・謝罪感、を以て臨むべきことであると強く思います。
グローバルな地球的な国際化・社会化した現代に於いては、尚更にも増して人間として考えなければならぬ最重要課題でしょう(然し私、個人的にはその方面の談論風発の見聞、いまだかつて覚え無し)。
又更に利己的「意義」(の追究)はわかりますが、利他的「意義」という代物は何らかあるのでしょうか?
私、例が思い浮かびません…。
然しながら以上、結論を先に言ってしまえば、(予想して今後将来的にも)蓋し凡そその答えは、無い、或いは見つける事は不可能、というのがほぼ決定的な真相かと思われます。
少なくとも有史以前以後にも先達諸々が論究せんとして来た事ですが確実な証明、完成の功相成るに至っていないのが現実です(何故ならば、直観的に現実の各様各態のカオスの山積を概観するだけでも、物心ついた人ならば即座にも判じ得る事だからです)。
達観して悟りの境地に至った人等、果たしているorいたのでしょうか?
(ところで、ちょっとした余談です…。梁塵秘抄の有名な歌、「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」があります(殆ど周知ですよね…)。誠に僭越ながら私なりの我田引水、牽強付会な私的解釈を致せば、生きる意義とは何かとの哲学的問いかけであったのでは?、との読み替えを致しました。最重要課題、大切なものを、なおざりに、置き去りにして、個々が勝手気ままに、自由に、遊び(=諸々の何らかの行為・所作・行動)に耽っています、御執心です。「遊び」イコール各主体それぞれの何らかの欲求願望の充足…と解釈致しました。(かと言って、この場合に於いて、「あそび」とは何も必ずしも娯楽、遊興、享楽、快楽、的な事象に限った事ではありません。人為、ヒトの所業を全て「あそび」として総括。「生きる事の「意義」を考える事、解明する事、無くして「あそ」んでばかり居ていていいのか」との警句…。との読み替えです)つまりは、寄与・貢献・慈善・愛他・利他・学究・研究・勤労・仕事・作業・献身・苦行・ストイシシズム関連・等でさえも究極的には、絶対的には、本質的には利己的欲求願望の一種に過ぎません。)
このような状況から鑑みまして、私の個人的な(且つ極論・酷評的な?)言い方をすれば「惰性で駄齢を重ねてきた人類史」と表現せざるを得ません(生意気を申し上げます様ですが…)。
さて、自己、自我とは何か?そして果ては社会や世界全体とは何か?に就いて。
これらが何故だか世間的に盲目的気味になっている事、逃避・遁走されがちで遠慮・忌憚扱いを呈している状況の要素・因子を、雑然とですが自分なりに考えてみました。
元来からして、各人各様どのような形であれヒト主導の国際社会の蓋然的な揺るぎ無い存続の「確信」を本気で妄信→考える必要性・切迫感を感じない。
受動的に虚像を妄信させられている、被妄信。
わざと、故意に、意図的に、知らぬふり、かまとと、確信犯的無難志向・事勿れ主義、の道・方略を選択する。
多忙。
考えている暇など無し。
外界からの各種何らかの刺激・入力が多過ぎて対処・集中が出来ない、困難。→注意・関心が散逸、分散してしまう。
関心が起こらない。
別の事物象に関心を向けている(夢中になっている)。
或いは向けさせられている。
もしや「関心寄せ」の巧妙な操作(?)をも被っているのでしょうか?
どうしても具象的とか直観的とか感覚的な、比較的認識・判断の容易な物事が偏愛、嗜好されがちである事。
(挙例として不適当かも知れませんが…、)かの有名な「杜子春」的、生き方・人生設計への転換→落着・帰結。
世渡りに於いて、華美豪奢では非ずに、かと言って卑下零細の道を辿る訳でもなく、「中庸」の人生方略を執るべき事こそ最上最良最高なのであると自己を説得してしまうとか…。
特殊な「専門分野」のひとつと解釈して割り切ってしまう(心の中で斯界、斯道の権威に委託)。
「どこかのだれかがやってくれているさ…」とか…。
哲学(的思想関連諸々)など実の無い贅沢な有閑人、閑居者、暇人のくだらない「思索」の産物である、空論だ、との偏見・決め付け。
その他の例としては…。
寡黙、むっつりを決め込む。
そして更には何の流儀か知らぬが、自己愛、自己陶酔的に孤高を「地で行く」向きも多数存在。
「能ある鷹は爪を隠す」(実際は、肝腎かなめの「爪」自体そのものが存在しなかったりする人も少なくない様で…。)を気取る御仁たち。
言外に(非言語的コミュニケーションにてで)自身の高尚さ高邁さをそれとなく匂わす、アピールする(しかしその内相実体は何ともお粗末だったりする…。いわば単なる見掛け倒し)。
等々が思い浮かびました(もし以上以外のその他の要因について存知なさっておられますようでしたらば御教示の程、されたく思います…)。
そしてまた更には、哲学的思考をいざしようものなら、その大抵が直接的にも間接的にも、外界的要因からも「禁忌の事項・行為」として抑圧・阻害・妨害を被る事になる様に思えます。
その兆しを、歓迎ないし放置(中立的対応)するどころか由々しきものとして冷遇する、攻撃対象とする暗黙裡の符牒でも存在しているかの様です。
例えば、
モラトリアム人間のステレオタイプとしてラベリングされ、誠実に、本気で、真面目に取り合ってくれない。
或いは「小人閑居して不善をなす」の先在、既存パターン・鋳型を連想、→借用して当て嵌めてしまう。
創始・進取の気概の萌芽を社会的圧殺を以て諦念させる。
外的要因の各関係性を鑑みた上での(疑似的シミュレーション的な)学習性無力感による想起から諦めに至ってしまう。
イノベーター、革新者は良い意味でも悪い意味でも統制を乱す存在として、その多くが由々しき曲者として何かと煙たがられる(特に為政者側、保守的傾向人間、権威主義的性格の者、等からは目の敵にされ易い(自分の地位の安泰・盤石・太平を脅かす存在として忌み嫌う)様な感じがします。尚この事は、自由主義の諸刃の剣の様な感じがしないでもありません。哲学的教育課程の画期新規組み入れ・組み込みは、主導者・権威者・為政者側にとっての意図せぬ、計らざる「造反者」「謀叛人」「革新家」「イノベーター」の養育・発生のリスクをも包含する事になるからです)。
遂行せんが為に(主体性を以てして)暗中模索或いは試行錯誤に奔走した、その当該者自身も「角が取れて丸くなってしまった」人々と成り果て「あれは若気の至りであった…」と悔悟してしまう。
人生の過程で様々な紆余曲折を経て、ようやっと持論・自説が凝結、結実をみて、いざ外界に向かって提言したく思うようになりしも、気付いた時には自分は既にもう干からびた老人…。
誰も話に耳を貸さない。
世の習いで、せいぜい「年寄りのうるさい、つまらない繰り言」扱いを受けるようになってしまう。
「集団・大勢・多数派からの逸脱への恐怖→同調志向、無難志向」という人生設計転向・方針転換パターン。
…等。
斉一性、斉合性、整合性、を重んじるお国柄、国民性の影響も無視出来ない様に思われます(この国固有独特のいわゆる「村八分」思想もこれと関連している感じです)。
以上これらが、珍しくもない顕著、蓋然実態であるのではないでしょうか?
かくいう私も、いわゆる「モラトリアム(人間)」或いは「アダルトチルドレン」のそしりを免れぬかもしれません。
しかしそのそしる・けなす・ののしる御当人方々は一体全体この問題をどう克服して大のおとなになったのか?
所詮「現実逃避」「責任放棄」「妥協」「我慢」「事なかれ主義」「現状満足」「安住志向」「和を以て貴しとなす」「損得の面などから打算して敢えて直視しようとしない」「集団同調」…等々のいずれかを決め込んでいるのが関の山なのでは?
やる前から達成の困難さに怯え即座に諦めてしまった短絡への恥、壁を越えられなかった悔しさ、自己自身の勇気の無さ、…等々どうして自己嫌悪に陥らないのでしょうか?
摩訶不思議でなりません…。
蓋し謎は深まるばかりで理解に苦しみます…。
以上諸々のようなスタンス・態度を是と、している、させられている方々や哲学的思考、の断念を決意、を断念した、を断念している、人々→即ち斯界については寡黙状態の向き・諸人、そして更には哲学的思想関連の、権威、(学)識者、研究者、並びに(市井に存する人に於いても)哲学的な思考関連の情報系統の自分自己自身への入力行為にばかりいそしんでいる傾向の各人たちにも私、強調して提起したいです。
自己内の信念なり主張なり言い分なりを外界に向かって発信・出力・表現・「対話」しなきゃあ、てんで意味が無いんだよ!と云いたいのです。
(尚、自己の内因的制限要素(無学ものであります…)から、少なくとも私だけに限っては「ハムレット型」よりかは(当たって砕けろ式、猪突猛進然として…)「ドンキホーテ型」(陽明学然とも?)を踏襲する、地で行くしかないのがいささか悔やしい所です…。)
更にこうも言いたいです。
外的存在として超弩級巨大膨張広範化している決して無視できぬもの、即ちマスメディア・マスコミュなどの送り手から発信される情報、即ち政治、経済、社会問題、事件、等にとらわれ過ぎてはいませんか?と。
その殆どが、その場その時限り、当座的、短期的、(確からしい事実ではあるのですが、疑似的であるという意味で…→)空想・錯覚(←例えば、あたかも自分は世界や社会としっかりと繋がっているのだという幻想とか…)・別世界的、虚像・虚構的、民間性・庶民性の無さ、個人の力ではほぼ統制は不可能な点、恣意・偏向的、等の側面に特徴付けられている感じです。
しかして、考察すべき事の優先順位を真剣に考えてみれば、(そのようなほぼ無駄な雑念を生起させるものにとらわれる事無しに、)哲学的思考こそがその一番初めに来るべきものであり、且つ課せられた絶対的責務だと思います。
自然を制覇掌握凌駕するというひとつの価値観念、克服への念願、欲求、願望を以てして科学は今の今まで推進されてきました。
事物象を明確に「対象化」する事を端緒とする事は論を俟つまでもない「科学」の営みの基本的特徴かと思います。
現今まで科学ばかりが盛んに伸びました(細密化、精緻化、分化、新生)が、この方面(哲学的思想関連、周辺)の議論の(微々たるものでもいいし或いは画期的な)進捗はあったでしょうか?
諸「科学」分野は目まぐるしい隆盛をきたして目覚ましいものがありますが、肝腎の道徳、正義、正道、道義、倫理、聖性の精神、がおろそかにされている感じ…。
尚注意しなければならないのは「科学それ自体は厳然と存在しているのみ。」という事だと思います。
(その意味に於いては進捗途上(或いは「発見予定」的な科学)のものはおろか、未成立、未知、未開拓、未踏、未然、の科学(隠れて・隠されて、いまだ見果てぬ・見えない・見えていない・見る事が出来ない科学)もまだまだある筈です。「潜在科学」?)
只、それ自体には何の罪業性も無いです(科学の無害性)。
紛らわしい、ややこしいのですが、厳密には科学の功罪を問う事自体は全くのナンセンスであると思います。
但し、志学の傾向や「知識」「学」の取捨選択の、(情緒的・恣意的な)「偏向性」が問題として取り沙汰されると思います。
科学は推進、進捗させるにあたり目的が同時に発生すると思うのですが、その根底にあるものは返報・見返り・報酬等といった利益・利得に対する何らかの欲求願望(←私情、主観、個人的or固有or特定の嗜好・趣味・価値観念、を含意したものとして…)にまつわる要素因子であり、これを自動的に包含する、兼ね備える事になってしまうと思います。
外的な要因として時代・世相・社会に由来する要請・需要・機運・採用のされ易さ、等もある種の変数・関係性として大いに考えられるかと思います。
これらの関係性が介在、絡んでくる事に由り、始めて、これを運用する側に対してこそ、問題点が所在(私情、欲望、価値観念、感情、好悪、恣意、…等を以てして科学を良い意味でも悪い意味でも利用する)して来るのであると思います。
哲学はもっと万人(万「生物」にも)に門戸を開け放たれているべきです。
哲学自体に「悪気」(?)は無いのでしょうが、飽くなき精緻化を求め続けたがあまりに、複雑・難解(・怪奇)化してしまい、もはや実用的とは言えなくなってしまっている観があります(よく似たいい例が「広辞苑」でしょうか?内容の、精緻さ、広範さ、正確さ、情報量の多さ、等の面に於いて、紛れもなく非常に優秀、秀逸。その功績は殆ど誰もが認める所です。然し直截に言ってしまえば、重い!小回りが利かない!即ち、そのあまりの膨大な情報量を詰め込み過ぎたが為に、自重(ジジュウ)の重過ぎさがあだとなって、果たして便利、実用的と言えるかどうかははなはだ疑問…。という点です)。
例えば緊急時、暴動時、巨大異変時、等の場面に於ける長考熟慮高学識を必要とされる様になってしまった哲学の実用性とは?と考えました。
つまり長広膨大な「理論」が咄嗟、突差に何の役に立つのか?という素朴な疑問をかねてより、懐疑的な私は抱いております。
ですから、机上の空論呼ばわりされる事態が判らぬでもありません。
そのほかには、個々別々の、関係性、特徴、差異、等を加味した上で問題として顕在化される「汎用性」とかも考慮するべきに値するのでは?
(例えば、国別・地域別等の場の素因、人種別・性格別・世代(「世代間のギャップ、壁」とか)別等の人間的素因、時代・時期等の時間の素因、等。)
哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは国連が考えられますが、実際のその進捗状況がどの程度なのかは全く謎に包まれています(もしかして、この方面の議論など軽視されているのが実情では?)。
しかも、国連の組織としての実質的真相、即ち実効力・拘束力の無さ、見掛け倒しの弱体的勢力に過ぎない事、道徳・倫理面に於いての完璧性とはまだまだほど遠くいまだ考究・整備が発展途上にある事、威厳が今ひとつ欠如している事、平等とは言い難く偏向性・階層性・差別性・恣意性が内在している事、等を考え合わせれば大きく夢・希望・期待を託す程までには、残念ながらとても出来ないように思えます。
非常に不安定的、危なっかしい感じ、印象を受けてしまいますのです。
他に哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは大学あたりでしょうか…。
具体的にどのような授業が行われているのかは、私は全く知るべくもありませんので、せいぜい想像の域を出ぬのが何とも拙いのですが、例えば、その現場に於いては、哲学と哲学史とをはき違えていやしまいませんでしょうか。
他の偉大な先駆者達の、軌跡、わだち、功績、記録、資料、文献、をなぞる、模倣する、踏襲する、学習する、…。
これだけでは真の哲学とは言えないのでは?
無論自説の創始・展開の為の、参考資料やヒントとする分には大いに有意義でありましょうが、そこに主体的な私情や自己からの思考察を含意した編集的行為が必要なのではないですか?
あと、私的、個人的牙城(限定的な空間、例えば、研究室、教室、議場、講壇場所、議会、講演会、等)に立て籠もって、引き籠もって、閉じ籠もって、内輪で同志間であれやこれやと議論・談論・意見交換してみてもそとに向けて出力しなければ何の意義も無いです。
これでは、ほんの少数の限られた学者連達だけのみに許容認可されている所詮は、独善的、自己満足的、快楽享楽悦楽的、衒学欲求的、な→「知的遊戯」・「お遊び」・私的趣味・道楽・娯楽・ゲーム・学知識の発揚or誇示の場、といった所ではないでしょうか。
そして、せいぜい為政者層・権力層或いは富裕層の諮問機関どまりに成り下がっているのが実態かと。
知的興奮を満喫し、教えを垂れる事に悦楽感を得、尚且つも高給取りで…。
こんなうまい商売は無いのではないでしょうか…。
自称「学者」「識者」の→実質「オタク」どまりなのでは?
孤高を決め込んでいる、特権化・専売特許化した、形式的哲学に堕した、ブラックボックス化してしまった、象牙の塔化した、敷居の高くなってしまった、哲学及びその周辺の「知」関連に未来はあるでしょうか?
(昔も今も)(学)識者もさることながら哲学者関連の人々に、緊迫した課題を先送り、棚上げしている自我に対して良心の咎め、呵責は無いor無かったのでしょうか?
無力感に自己嫌悪に陥ってはいないのでしょうか?
哲学的思考の始まりの時代はいまだ制圧制御しきれない自然の脅威にさらされていました。
然しそれは今は昔の事、自然を気が済むまで征服、凌駕しまくってきた現今は価値観念の画期的革新が必須、迫られていると思います。
国際的情報化の進展により学際的活動もそれに伴って活発を見せていると思います。
盛んな議論の展開、意見交換も、IT化がなおも行き渡り続けている現代に於いて、より増して可能になってくる筈です。
取り分け哲学・倫理学の分野方面に於いては一体どうでしょうか?
哲学と科学の類似点は万人(万生物)に更に時代・空間をも超えて共有され得るという事でしょうか?
(尚私は科学も哲学も時間、時代、時系列、空間、場所を(一過性では非ずして)超越している点では類似性有りと思っています。)
共有されるべき「確からしさ」「認知・判断の手掛かり」の淵源として重要です。
「実証」された事、それが固定的なものなのか変動的なものなのかは、私悔やしくも残念ながらつまびらかには理解出来ません…。
多大なる勉強、練習熟達が必要かも知れませんね…。
ここで一応漠然雑然とではありますが、私の「哲学」というものに対する私見、一家言を以下↓に示しておきます…。
(斯界の権威、専門家には適うべくもない浅見でしょうが…。従いまして自信は全然御座いません…。これらは、雑然漠然曖昧模糊としたものであり「信念」という程くらいにまでには、完全な凝固凝結をみてはおりません…。未だ途上の思案に過ぎぬものです…。)
時空超越の哲学
不偏・普遍(・不変(←ある意味に於いては少し語弊及び誤解の発生があるかもしれません…))の哲学
最大公約数的な哲学
汎用性のある哲学
万人はおろか万生物に共有されるべき、哲学
人種、生物種の垣根、境界線を取り払った哲学
「フィロソフィー→知(智)を愛する。愛知。愛智。」にははなはだ疑問。懐疑的態度をとっております。「「自」と「他」からの、「主」と「客」からの、「私」と「公」からの、(公私、自他、主客、の各併存としての、)概念思考察の、行為・いとなみ・知」あたりが適当or妥当or穏当なのでは?
伏線・示唆・布石、的な企図・狙いを込めます意味で、以下に私の所感・随想・雑考・主張…等々の諸々を記述させて頂きます。
雑然且つ漠然としてしまうのを助長してしまいます事が懸念材料として気になってしまいますが、そこは御高察を以てして文脈絡を判じ戴けますと助かります…。
私の、作文(幼少の頃より苦手、不得手で御座いました…)・構文・講述・論説、の能力の低劣さに起因する事を素直に認めます。
済みませんが御容赦下さい…。
私の意見・主張・所信として兼ねてより発信・提言したかった事を述べてみます。
親愛和性の生成喚起の素因として、どう考えても直観的な「類似性」こそが最重要候補なのでは?
これは、哲学の見地から、道徳・倫理・正当性の確からしさ、を思考察する際にかなり、重要な、優先的な、明解し易い、ヒトという生物種として正統性の高い、要素因子事項のひとつとするべき事であるとの信念を、個人的に私は持つようになっております。
(私の考えを判り易く説明致しますと、例えば、愛する、親近感を抱く対象としては大方が先ずは同類たるヒトでしょう。そこには、無論明確な偏り、偏向性があります。他方、その逆というか凡そヒトとは特徴的に全然似通っていないもの(生物も、非・無生物も)に対してはさほどの親愛和性を抱くことは、無し~稀でしょう。その習いから推知できよう事でしょうが、生物学的に近縁の哺乳類に対して愛着を抱き易い傾向であるのを説明出来るのではないでしょうか?引いてはやや分派たるものであれども、やはり近縁の脊椎動物系統各種各様に対しても、量的・質的にグラデーション然ではあると思いますが、当該対象に愛情を感じてそれを注ぐ傾向があるのではないのでしょうか?(尚、似通っているが為にかえって気に食わないという例外もありますね…。例えば、サルや同生物種たるヒトの「ライバル」とか他集団系、等。競争心・闘争感・葛藤、が生じるのは大変頻繁に散見される事です。))
先在知識、先有傾向、に就いて。
先有・先在・既有・既存の固定的な価値観念と客観的概念との、新事物象・潜在的「知」に対する、盲点化、シーリング、注意妨害、対象化の阻害、視野・感覚の狭小化、思考のかたさ・とらわれ・こわばり。
規範や「常識」が一旦成立してしまうと(あたかも硬性憲法のようなかんじで)柔軟に意識・認知を変容する事が出来なくなり、認識・判断の手がかりとしてそればかりに依存、拘泥してしまいがちのように見受けられます。
「常識」「通念」自体を疑うべきです。
例えば、政治家・公務員・学識経験者・学界権威イコール優遇措置且つ高給取りの図式。
これらの人々はその大概が、その存在の詭弁性を露見、顕在化させないように巧妙に立ち回る、渡世術に於けるしたたかなスペシャリスト・偽善者たちであると思うのですが如何がでしょうか?
付言すると「なんとまあ、ここまでぬかすか…」と思われる、いわれるかも知れませんが究極的には、「知」至上主義、「「知」イコール、高尚。尊ぶべきもの。愛すべきもの。の図式、構図」こそをも疑うべきかもしれません…。
「智」をこいねがう事や愛する事、「智」「知」「学」こそ最上、崇高という一辺倒な一般的認知、一種の思い込み、金科玉条的硬直信仰をも、熟慮・反省・今一度の再考・検討・検証・証明しなければならない画期に来ているのかも知れません(というよりかは遅れ馳せ過ぎます)。
ここで、個人的に昔から珍妖怪奇異変妙、疑問・謎と思っております「常識」及びその周辺的事象の具体的な例を以下に列挙してみる事に致します。↓
先述も致しました通り、為政者、政治家、公務員、公僕、が高給取り且つ厚遇をされている事(この事象は何故か殆ど全世界万国共通になっています。(歴史的)経験則からの正当性、或いは何らかの合理的根拠があっての事だから…、ということなのでしょうか?)。
法の番人、警察(の例えば横暴、公私混同行為、職権濫用、威力を以ての「御役得」の不当接収)に対するお目付け役、監査役、牽制機関・組織はしっかりと整備されているのか?
その不祥事実があったとしても、かばい合い、もみ消し、証拠隠滅工作などで公けに露呈しない、闇に葬り去られているのが実態では?
アイヌ民族へ北海道をなぜ返還しないのか?
アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)アメリカンインディアンにも何故アメリカ大陸を返還しないのか?
(その他にも斯様な類例はいくらでもあるでしょう…。)
理想としての直接選挙はいまだの(当時の)社会システムでは到底不可能→間接選挙に妥協。
間接選挙は飽くまで直接選挙実現へ向けての暫定的施行であった筈(?)。
しかし現在時点に於いてはそれが実現不可能かといえばそうでもなさそうな感じです。
どうして旧態依然なのでしょうか?
憂慮すべきものである事件、社会問題、犯罪、その他不祥的事案諸々が最早興味本位の、エンターテインメント、ショー化している事を薄々自覚しておきながら好奇心(猟奇心)旺盛に野次馬根性でそれらに異常なまでに関心、注目を寄せ、外界に向けては然も善人・健常者ぶって、刺激に飢えているその内心を公言、告白しようとしない事。
事件が起こるのを、送り手側も受け手側も、期待している、待ち望んでいる、のが本当の実態ですよね…。
食品表示に於いて何故か原材料欄に「水」の表記がなされぬ事…。
デモ、ストライキ、(リンチング、リンチ)モッブ、暴徒、テロリズム、一揆、社会的抗議活動としての暴動、実力行使、クーデター、など何か物騒なイメージが往々にして存在すると思われますが、関与当事者の善悪を審議するにあたっては、その見かけ・形式、先入観念、偏見、決め付けに拘泥するのでは非ずに、その本質たる道義面・正当性の方をこそが問題として取り沙汰されなければならないのでは?
(「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉は少しく関係性有りかなと思います。)
少なくともこの日本国に於いてはデモ活動の成功を見た例が殆どありません。
これは引いては政治的無関心の増長につながると思います。
為政者側の国民、民衆、庶民、に対する軽侮蔑、「ナメ切った」感情・態度も増長させるものと思います。
被政者・民間からの直接の示威行為や暴力的攻撃や威力行使で牽制する事は、温床・ぬるま湯に浸ってやりたい放題尽くしの、これらの御仁達の道徳関連の「引き締め」に有効、有意義なのかも知れません…。
しかしこんなことを発言しようものならば、すぐにもやれ「凶悪な危険思想だ」、「許されぬテロリズムだ」だのとの自己防衛的見地からの糾弾が、まさに「この手の人々たち」自身から殺到してくるのは想像に難くありません…。
政治を執り行うにあたり「おとなしい奴ら(庶民・民衆)には何をやっても許される」という傲岸不遜な軽侮蔑が慣行化しており、その自己本位の錯覚から産生される諸々の横暴の断行がほぼ常態・固定化してしまっている事。
背景には日本特有の事情・風土・因習・素地、即ち「お上に楯突く」者・事は殆ど必ずや何らかの損害を被る結果となる事が歴史的経験則然として認知されており、物申す事だけでも憚られる傾向にあり、何でもかんでも唯唯諾諾の姿勢をとってしまいがちにある事だと思います。
「政治に携わる者(為政者関連にとどまらず、公務員、そして学界関連の人々も含めて)、公僕たるべし、清貧たるべし、謙虚誠実たるべし」であると、私強く思うのですが、そうでは無かったのでしょうか?
現状は「本末転倒」の様相を呈してはいませんか?
他方、経済界・商業界・産業界、系統に携わる人が人生のゲームルール(なお余談ですが、正当さ、誠実さ、道徳の高雅さ、等といったものだけでは世間を昇り詰める事が出来ないのが現実。出世するには、学歴誇示、対人コミュニケーションの巧みさ、狡猾な渡世術、詭弁、カリスマ性、虚偽、臨機応変の適応性、権謀術数、非合法まがいの合法、等々を駆使する事が必須とされ、そして又許容認可されている様であります)にきちんと沿って、功利を得、財を成し、幸福を満喫・謳歌する事には特段の異論はさほどにはありませんが(ゲームの勝者としての正当な報酬・利得なのですから仕方が無いのでしょう…)、職務に「公共性」を包含する、内包している者達にあっては、その方面によりもっとの慎重性が求められるものと思います。
公私混同、お役所仕事、たらい回し、搾取、自己中心的なありさま・エゴイズム、融通の利かぬ「杓子定規」行為、各種の税金賦課・徴収の正当性・根拠の不明確さ、等々の職務怠慢行為が跳梁跋扈しているのもいかがわしいものです。
(次記事へ続きます)