shikanneiko20170419
生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)ヒト・人間・人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。
「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」
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(自然発生的に誰しもが考えることだと思われますが、)「人」としての最重要課題、(以下に示しました矢印「⇄」は敷衍の遷移、順序を示すものでは決してありません。考えの原初からの順序列は今となっては最早定かではないと思います。しかし推移の順位、順番などこの際特別段に問題とはならない筈です。只言える事は対象それぞれには紛れもなく深く強い密接な相互関連性が存在している事(相即不離)は自明、という事です。「自」と「他」の截然たる区分けは社会化が前提の現代では、どうしても出来ぬ事なのかも知れません…。)即ち、「私」⇄「人間、ヒト」⇄「全人類」の存在のor生きる意味及び意義並びに根拠とは何でしょうか?
(ところで、私自身の「ばか丸出し」然、無知を曝露呈する様で御恥かしい限りですが、私の漠然とした認識では、哲学は「意味」の分野を思考察、片や倫理は「意義」の方面を思考察するものと思っております。自信がありません、とんだ誤釈でしょうか?)
個人⇄集団の内面、何たるか、主体、概念、の充全な洞察、考究は緊張感・責任感・切実感・切迫感・羞恥心・謙虚精神・罪悪感・謝罪感、を以て臨むべきことであると強く思います。
グローバルな地球的な国際化・社会化した現代に於いては、尚更にも増して人間として考えなければならぬ最重要課題でしょう(然し私、個人的にはその方面の談論風発の見聞、いまだかつて覚え無し)。
又更に利己的「意義」(の追究)はわかりますが、利他的「意義」という代物は何らかあるのでしょうか?
私、例が思い浮かびません…。
然しながら以上、結論を先に言ってしまえば、(予想して今後将来的にも)蓋し凡そその答えは、無い、或いは見つける事は不可能、というのがほぼ決定的な真相かと思われます。
少なくとも有史以前以後にも先達諸々が論究せんとして来た事ですが確実な証明、完成の功相成るに至っていないのが現実です(何故ならば、直観的に現実の各様各態のカオスの山積を概観するだけでも、物心ついた人ならば即座にも判じ得る事だからです)。
達観して悟りの境地に至った人等、果たしているorいたのでしょうか?
(ところで、ちょっとした余談です…。梁塵秘抄の有名な歌、「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」があります(殆ど周知ですよね…)。誠に僭越ながら私なりの我田引水、牽強付会な私的解釈を致せば、生きる意義とは何かとの哲学的問いかけであったのでは?、との読み替えを致しました。最重要課題、大切なものを、なおざりに、置き去りにして、個々が勝手気ままに、自由に、遊び(=諸々の何らかの行為・所作・行動)に耽っています、御執心です。「遊び」イコール各主体それぞれの何らかの欲求願望の充足…と解釈致しました。(かと言って、この場合に於いて、「あそび」とは何も必ずしも娯楽、遊興、享楽、快楽、的な事象に限った事ではありません。人為、ヒトの所業を全て「あそび」として総括。「生きる事の「意義」を考える事、解明する事、無くして「あそ」んでばかり居ていていいのか」との警句…。との読み替えです)つまりは、寄与・貢献・慈善・愛他・利他・学究・研究・勤労・仕事・作業・献身・苦行・ストイシシズム関連・等でさえも究極的には、絶対的には、本質的には利己的欲求願望の一種に過ぎません。)
このような状況から鑑みまして、私の個人的な(且つ極論・酷評的な?)言い方をすれば「惰性で駄齢を重ねてきた人類史」と表現せざるを得ません(生意気を申し上げます様ですが…)。
さて、自己、自我とは何か?そして果ては社会や世界全体とは何か?に就いて。
これらが何故だか世間的に盲目的気味になっている事、逃避・遁走されがちで遠慮・忌憚扱いを呈している状況の要素・因子を、雑然とですが自分なりに考えてみました。
元来からして、各人各様どのような形であれヒト主導の国際社会の蓋然的な揺るぎ無い存続の「確信」を本気で妄信→考える必要性・切迫感を感じない。
受動的に虚像を妄信させられている、被妄信。
わざと、故意に、意図的に、知らぬふり、かまとと、確信犯的無難志向・事勿れ主義、の道・方略を選択する。
多忙。
考えている暇など無し。
外界からの各種何らかの刺激・入力が多過ぎて対処・集中が出来ない、困難。→注意・関心が散逸、分散してしまう。
関心が起こらない。
別の事物象に関心を向けている(夢中になっている)。
或いは向けさせられている。
もしや「関心寄せ」の巧妙な操作(?)をも被っているのでしょうか?
どうしても具象的とか直観的とか感覚的な、比較的認識・判断の容易な物事が偏愛、嗜好されがちである事。
(挙例として不適当かも知れませんが…、)かの有名な「杜子春」的、生き方・人生設計への転換→落着・帰結。
世渡りに於いて、華美豪奢では非ずに、かと言って卑下零細の道を辿る訳でもなく、「中庸」の人生方略を執るべき事こそ最上最良最高なのであると自己を説得してしまうとか…。
特殊な「専門分野」のひとつと解釈して割り切ってしまう(心の中で斯界、斯道の権威に委託)。
「どこかのだれかがやってくれているさ…」とか…。
哲学(的思想関連諸々)など実の無い贅沢な有閑人、閑居者、暇人のくだらない「思索」の産物である、空論だ、との偏見・決め付け。
その他の例としては…。
寡黙、むっつりを決め込む。
そして更には何の流儀か知らぬが、自己愛、自己陶酔的に孤高を「地で行く」向きも多数存在。
「能ある鷹は爪を隠す」(実際は、肝腎かなめの「爪」自体そのものが存在しなかったりする人も少なくない様で…。)を気取る御仁たち。
言外に(非言語的コミュニケーションにてで)自身の高尚さ高邁さをそれとなく匂わす、アピールする(しかしその内相実体は何ともお粗末だったりする…。いわば単なる見掛け倒し)。
等々が思い浮かびました(もし以上以外のその他の要因について存知なさっておられますようでしたらば御教示の程、されたく思います…)。
そしてまた更には、哲学的思考をいざしようものなら、その大抵が直接的にも間接的にも、外界的要因からも「禁忌の事項・行為」として抑圧・阻害・妨害を被る事になる様に思えます。
その兆しを、歓迎ないし放置(中立的対応)するどころか由々しきものとして冷遇する、攻撃対象とする暗黙裡の符牒でも存在しているかの様です。
例えば、
モラトリアム人間のステレオタイプとしてラベリングされ、誠実に、本気で、真面目に取り合ってくれない。
或いは「小人閑居して不善をなす」の先在、既存パターン・鋳型を連想、→借用して当て嵌めてしまう。
創始・進取の気概の萌芽を社会的圧殺を以て諦念させる。
外的要因の各関係性を鑑みた上での(疑似的シミュレーション的な)学習性無力感による想起から諦めに至ってしまう。
イノベーター、革新者は良い意味でも悪い意味でも統制を乱す存在として、その多くが由々しき曲者として何かと煙たがられる(特に為政者側、保守的傾向人間、権威主義的性格の者、等からは目の敵にされ易い(自分の地位の安泰・盤石・太平を脅かす存在として忌み嫌う)様な感じがします。尚この事は、自由主義の諸刃の剣の様な感じがしないでもありません。哲学的教育課程の画期新規組み入れ・組み込みは、主導者・権威者・為政者側にとっての意図せぬ、計らざる「造反者」「謀叛人」「革新家」「イノベーター」の養育・発生のリスクをも包含する事になるからです)。
遂行せんが為に(主体性を以てして)暗中模索或いは試行錯誤に奔走した、その当該者自身も「角が取れて丸くなってしまった」人々と成り果て「あれは若気の至りであった…」と悔悟してしまう。
人生の過程で様々な紆余曲折を経て、ようやっと持論・自説が凝結、結実をみて、いざ外界に向かって提言したく思うようになりしも、気付いた時には自分は既にもう干からびた老人…。
誰も話に耳を貸さない。
世の習いで、せいぜい「年寄りのうるさい、つまらない繰り言」扱いを受けるようになってしまう。
「集団・大勢・多数派からの逸脱への恐怖→同調志向、無難志向」という人生設計転向・方針転換パターン。
…等。
斉一性、斉合性、整合性、を重んじるお国柄、国民性の影響も無視出来ない様に思われます(この国固有独特のいわゆる「村八分」思想もこれと関連している感じです)。
以上これらが、珍しくもない顕著、蓋然実態であるのではないでしょうか?
かくいう私も、いわゆる「モラトリアム(人間)」或いは「アダルトチルドレン」のそしりを免れぬかもしれません。
しかしそのそしる・けなす・ののしる御当人方々は一体全体この問題をどう克服して大のおとなになったのか?
所詮「現実逃避」「責任放棄」「妥協」「我慢」「事なかれ主義」「現状満足」「安住志向」「和を以て貴しとなす」「損得の面などから打算して敢えて直視しようとしない」「集団同調」…等々のいずれかを決め込んでいるのが関の山なのでは?
やる前から達成の困難さに怯え即座に諦めてしまった短絡への恥、壁を越えられなかった悔しさ、自己自身の勇気の無さ、…等々どうして自己嫌悪に陥らないのでしょうか?
摩訶不思議でなりません…。
蓋し謎は深まるばかりで理解に苦しみます…。
以上諸々のようなスタンス・態度を是と、している、させられている方々や哲学的思考、の断念を決意、を断念した、を断念している、人々→即ち斯界については寡黙状態の向き・諸人、そして更には哲学的思想関連の、権威、(学)識者、研究者、並びに(市井に存する人に於いても)哲学的な思考関連の情報系統の自分自己自身への入力行為にばかりいそしんでいる傾向の各人たちにも私、強調して提起したいです。
自己内の信念なり主張なり言い分なりを外界に向かって発信・出力・表現・「対話」しなきゃあ、てんで意味が無いんだよ!と云いたいのです。
(尚、自己の内因的制限要素(無学ものであります…)から、少なくとも私だけに限っては「ハムレット型」よりかは(当たって砕けろ式、猪突猛進然として…)「ドンキホーテ型」(陽明学然とも?)を踏襲する、地で行くしかないのがいささか悔やしい所です…。)
更にこうも言いたいです。
外的存在として超弩級巨大膨張広範化している決して無視できぬもの、即ちマスメディア・マスコミュなどの送り手から発信される情報、即ち政治、経済、社会問題、事件、等にとらわれ過ぎてはいませんか?と。
その殆どが、その場その時限り、当座的、短期的、(確からしい事実ではあるのですが、疑似的であるという意味で…→)空想・錯覚(←例えば、あたかも自分は世界や社会としっかりと繋がっているのだという幻想とか…)・別世界的、虚像・虚構的、民間性・庶民性の無さ、個人の力ではほぼ統制は不可能な点、恣意・偏向的、等の側面に特徴付けられている感じです。
しかして、考察すべき事の優先順位を真剣に考えてみれば、(そのようなほぼ無駄な雑念を生起させるものにとらわれる事無しに、)哲学的思考こそがその一番初めに来るべきものであり、且つ課せられた絶対的責務だと思います。
自然を制覇掌握凌駕するというひとつの価値観念、克服への念願、欲求、願望を以てして科学は今の今まで推進されてきました。
事物象を明確に「対象化」する事を端緒とする事は論を俟つまでもない「科学」の営みの基本的特徴かと思います。
現今まで科学ばかりが盛んに伸びました(細密化、精緻化、分化、新生)が、この方面(哲学的思想関連、周辺)の議論の(微々たるものでもいいし或いは画期的な)進捗はあったでしょうか?
諸「科学」分野は目まぐるしい隆盛をきたして目覚ましいものがありますが、肝腎の道徳、正義、正道、道義、倫理、聖性の精神、がおろそかにされている感じ…。
尚注意しなければならないのは「科学それ自体は厳然と存在しているのみ。」という事だと思います。
(その意味に於いては進捗途上(或いは「発見予定」的な科学)のものはおろか、未成立、未知、未開拓、未踏、未然、の科学(隠れて・隠されて、いまだ見果てぬ・見えない・見えていない・見る事が出来ない科学)もまだまだある筈です。「潜在科学」?)
只、それ自体には何の罪業性も無いです(科学の無害性)。
紛らわしい、ややこしいのですが、厳密には科学の功罪を問う事自体は全くのナンセンスであると思います。
但し、志学の傾向や「知識」「学」の取捨選択の、(情緒的・恣意的な)「偏向性」が問題として取り沙汰されると思います。
科学は推進、進捗させるにあたり目的が同時に発生すると思うのですが、その根底にあるものは返報・見返り・報酬等といった利益・利得に対する何らかの欲求願望(←私情、主観、個人的or固有or特定の嗜好・趣味・価値観念、を含意したものとして…)にまつわる要素因子であり、これを自動的に包含する、兼ね備える事になってしまうと思います。
外的な要因として時代・世相・社会に由来する要請・需要・機運・採用のされ易さ、等もある種の変数・関係性として大いに考えられるかと思います。
これらの関係性が介在、絡んでくる事に由り、始めて、これを運用する側に対してこそ、問題点が所在(私情、欲望、価値観念、感情、好悪、恣意、…等を以てして科学を良い意味でも悪い意味でも利用する)して来るのであると思います。
哲学はもっと万人(万「生物」にも)に門戸を開け放たれているべきです。
哲学自体に「悪気」(?)は無いのでしょうが、飽くなき精緻化を求め続けたがあまりに、複雑・難解(・怪奇)化してしまい、もはや実用的とは言えなくなってしまっている観があります(よく似たいい例が「広辞苑」でしょうか?内容の、精緻さ、広範さ、正確さ、情報量の多さ、等の面に於いて、紛れもなく非常に優秀、秀逸。その功績は殆ど誰もが認める所です。然し直截に言ってしまえば、重い!小回りが利かない!即ち、そのあまりの膨大な情報量を詰め込み過ぎたが為に、自重(ジジュウ)の重過ぎさがあだとなって、果たして便利、実用的と言えるかどうかははなはだ疑問…。という点です)。
例えば緊急時、暴動時、巨大異変時、等の場面に於ける長考熟慮高学識を必要とされる様になってしまった哲学の実用性とは?と考えました。
つまり長広膨大な「理論」が咄嗟、突差に何の役に立つのか?という素朴な疑問をかねてより、懐疑的な私は抱いております。
ですから、机上の空論呼ばわりされる事態が判らぬでもありません。
そのほかには、個々別々の、関係性、特徴、差異、等を加味した上で問題として顕在化される「汎用性」とかも考慮するべきに値するのでは?
(例えば、国別・地域別等の場の素因、人種別・性格別・世代(「世代間のギャップ、壁」とか)別等の人間的素因、時代・時期等の時間の素因、等。)
哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは国連が考えられますが、実際のその進捗状況がどの程度なのかは全く謎に包まれています(もしかして、この方面の議論など軽視されているのが実情では?)。
しかも、国連の組織としての実質的真相、即ち実効力・拘束力の無さ、見掛け倒しの弱体的勢力に過ぎない事、道徳・倫理面に於いての完璧性とはまだまだほど遠くいまだ考究・整備が発展途上にある事、威厳が今ひとつ欠如している事、平等とは言い難く偏向性・階層性・差別性・恣意性が内在している事、等を考え合わせれば大きく夢・希望・期待を託す程までには、残念ながらとても出来ないように思えます。
非常に不安定的、危なっかしい感じ、印象を受けてしまいますのです。
他に哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは大学あたりでしょうか…。
具体的にどのような授業が行われているのかは、私は全く知るべくもありませんので、せいぜい想像の域を出ぬのが何とも拙いのですが、例えば、その現場に於いては、哲学と哲学史とをはき違えていやしまいませんでしょうか。
他の偉大な先駆者達の、軌跡、わだち、功績、記録、資料、文献、をなぞる、模倣する、踏襲する、学習する、…。
これだけでは真の哲学とは言えないのでは?
無論自説の創始・展開の為の、参考資料やヒントとする分には大いに有意義でありましょうが、そこに主体的な私情や自己からの思考察を含意した編集的行為が必要なのではないですか?
あと、私的、個人的牙城(限定的な空間、例えば、研究室、教室、議場、講壇場所、議会、講演会、等)に立て籠もって、引き籠もって、閉じ籠もって、内輪で同志間であれやこれやと議論・談論・意見交換してみてもそとに向けて出力しなければ何の意義も無いです。
これでは、ほんの少数の限られた学者連達だけのみに許容認可されている所詮は、独善的、自己満足的、快楽享楽悦楽的、衒学欲求的、な→「知的遊戯」・「お遊び」・私的趣味・道楽・娯楽・ゲーム・学知識の発揚or誇示の場、といった所ではないでしょうか。
そして、せいぜい為政者層・権力層或いは富裕層の諮問機関どまりに成り下がっているのが実態かと。
知的興奮を満喫し、教えを垂れる事に悦楽感を得、尚且つも高給取りで…。
こんなうまい商売は無いのでしょうか…。
自称「学者」「識者」の→実質「オタク」どまりなのでは?
孤高を決め込んでいる、特権化・専売特許化した、形式的哲学に堕した、ブラックボックス化してしまった、象牙の塔化した、敷居の高くなってしまった、哲学及びその周辺の「知」関連に未来はあるでしょうか?
(昔も今も)(学)識者もさることながら哲学者関連の人々に、緊迫した課題を先送り、棚上げしている自我に対して良心の咎め、呵責は無いor無かったのでしょうか?
無力感に自己嫌悪に陥ってはいないのでしょうか?
哲学的思考の始まりの時代はいまだ制圧制御しきれない自然の脅威にさらされていました。
然しそれは今は昔の事、自然を気が済むまで征服、凌駕しまくってきた現今は価値観念の画期的革新が必須、迫られていると思います。
国際的情報化の進展により学際的活動もそれに伴って活発を見せていると思います。
盛んな議論の展開、意見交換も、IT化がなおも行き渡り続けている現代に於いて、より増して可能になってくる筈です。
取り分け哲学・倫理学の分野方面に於いては一体どうでしょうか?
哲学と科学の類似点は万人(万生物)に更に時代・空間をも超えて共有され得るという事でしょうか?
(尚私は科学も哲学も時間、時代、時系列、空間、場所を(一過性では非ずして)超越している点では類似性有りと思っています。)
共有されるべき「確からしさ」「認知・判断の手掛かり」の淵源として重要です。
「実証」された事、それが固定的なものなのか変動的なものなのかは、私悔やしくも残念ながらつまびらかには理解出来ません…。
多大なる勉強、練習熟達が必要かも知れませんね…。
ここで一応漠然雑然とではありますが、私の「哲学」というものに対する私見、一家言を以下↓に示しておきます…。
(斯界の権威、専門家には適うべくもない浅見でしょうが…。従いまして自信は全然御座いません…。これらは、雑然漠然曖昧模糊としたものであり「信念」という程くらいにまでには、完全な凝固凝結をみてはおりません…。未だ途上の思案に過ぎぬものです…。)
時空超越の哲学
不偏・普遍(・不変(←ある意味に於いては少し語弊及び誤解の発生があるかもしれません…))の哲学
最大公約数的な哲学
汎用性のある哲学
万人はおろか万生物に共有されるべき、哲学
人種、生物種の垣根、境界線を取り払った哲学
「フィロソフィー→知(智)を愛する。愛知。愛智。」にははなはだ疑問。懐疑的態度をとっております。「「自」と「他」からの、「主」と「客」からの、「私」と「公」からの、(公私、自他、主客、の各併存としての、)概念思考察の、行為・いとなみ・知」あたりが適当or妥当or穏当なのでは?
伏線・示唆・布石、的な企図・狙いを込めます意味で、以下に私の所感・随想・雑考・主張…等々の諸々を記述させて頂きます。
雑然且つ漠然としてしまうのを助長してしまいます事が懸念材料として気になってしまいますが、そこは御高察を以てして文脈絡を判じ戴けますと助かります…。
私の、作文(幼少の頃より苦手、不得手で御座いました…)・構文・講述・論説、の能力の低劣さに起因する事を素直に認めます。
済みませんが御容赦下さい…。
私の意見・主張・所信として兼ねてより発信・提言したかった事を述べてみます。
親愛和性の生成喚起の素因として、どう考えても直観的な「類似性」こそが最重要候補なのでは?
これは、哲学の見地から、道徳・倫理・正当性の確からしさ、を思考察する際にかなり、重要な、優先的な、明解し易い、ヒトという生物種として正統性の高い、要素因子事項のひとつとするべき事であるとの信念を、個人的に私は持つようになっております。
(私の考えを判り易く説明致しますと、例えば、愛する、親近感を抱く対象としては大方が先ずは同類たるヒトでしょう。そこには、無論明確な偏り、偏向性があります。他方、その逆というか凡そヒトとは特徴的に全然似通っていないもの(生物も、非・無生物も)に対してはさほどの親愛和性を抱くことは、無し~稀でしょう。その習いから推知できよう事でしょうが、生物学的に近縁の哺乳類に対して愛着を抱き易い傾向であるのを説明出来るのではないでしょうか?引いてはやや分派たるものであれども、やはり近縁の脊椎動物系統各種各様に対しても、量的・質的にグラデーション然ではあると思いますが、当該対象に愛情を感じてそれを注ぐ傾向があるのではないのでしょうか?(尚、似通っているが為にかえって気に食わないという例外もありますね…。例えば、サルや同生物種たるヒトの「ライバル」とか他集団系、等。競争心・闘争感・葛藤、が生じるのは大変頻繁に散見される事です。))
先在知識、先有傾向、に就いて。
先有・先在・既有・既存の固定的な価値観念と客観的概念との、新事物象・潜在的「知」に対する、盲点化、シーリング、注意妨害、対象化の阻害、視野・感覚の狭小化、思考のかたさ・とらわれ・こわばり。
規範や「常識」が一旦成立してしまうと(あたかも硬性憲法のようなかんじで)柔軟に意識・認知を変容する事が出来なくなり、認識・判断の手がかりとしてそればかりに依存、拘泥してしまいがちのように見受けられます。
「常識」「通念」自体を疑うべきです。
例えば、政治家・公務員・学識経験者・学界権威イコール優遇措置且つ高給取りの図式。
これらの人々はその大概が、その存在の詭弁性を露見、顕在化させないように巧妙に立ち回る、渡世術に於けるしたたかなスペシャリスト・偽善者たちであると思うのですが如何がでしょうか?
付言すると「なんとまあ、ここまでぬかすか…」と思われる、いわれるかも知れませんが究極的には、「知」至上主義、「「知」イコール、高尚。尊ぶべきもの。愛すべきもの。の図式、構図」こそをも疑うべきかもしれません…。
「智」をこいねがう事や愛する事、「智」「知」「学」こそ最上、崇高という一辺倒な一般的認知、一種の思い込み、金科玉条的硬直信仰をも、熟慮・反省・今一度の再考・検討・検証・証明しなければならない画期に来ているのかも知れません(というよりかは遅れ馳せ過ぎます)。
ここで、個人的に昔から珍妖怪奇異変妙、疑問・謎と思っております「常識」及びその周辺的事象の具体的な例を以下に列挙してみる事に致します。↓
先述も致しました通り、為政者、政治家、公務員、公僕、が高給取り且つ厚遇をされている事(この事象は何故か殆ど全世界万国共通になっています。(歴史的)経験則からの正当性、或いは何らかの合理的根拠があっての事だから…、ということなのでしょうか?)。
法の番人、警察(の例えば横暴、公私混同行為、職権濫用、威力を以ての「御役得」の不当接収)に対するお目付け役、監査役、牽制機関・組織はしっかりと整備されているのか?
その不祥事実があったとしても、かばい合い、もみ消し、証拠隠滅工作などで公けに露呈しない、闇に葬り去られているのが実態では?
アイヌ民族へ北海道をなぜ返還しないのか?
アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)アメリカンインディアンにも何故アメリカ大陸を返還しないのか?
(その他にも斯様な類例はいくらでもあるでしょう…。)
理想としての直接選挙はいまだの(当時の)社会システムでは到底不可能→間接選挙に妥協。
間接選挙は飽くまで直接選挙実現へ向けての暫定的施行であった筈(?)。
しかし現在時点に於いてはそれが実現不可能かといえばそうでもなさそうな感じです。
どうして旧態依然なのでしょうか?
憂慮すべきものである事件、社会問題、犯罪、その他不祥的事案諸々が最早興味本位の、エンターテインメント、ショー化している事を薄々自覚しておきながら好奇心(猟奇心)旺盛に野次馬根性でそれらに異常なまでに関心、注目を寄せ、外界に向けては然も善人・健常者ぶって、刺激に飢えているその内心を公言、告白しようとしない事。
事件が起こるのを、送り手側も受け手側も、期待している、待ち望んでいる、のが本当の実態ですよね…。
食品表示に於いて何故か原材料欄に「水」の表記がなされぬ事…。
デモ、ストライキ、(リンチング、リンチ)モッブ、暴徒、テロリズム、一揆、社会的抗議活動としての暴動、実力行使、クーデター、など何か物騒なイメージが往々にして存在すると思われますが、関与当事者の善悪を審議するにあたっては、その見かけ・形式、先入観念、偏見、決め付けに拘泥するのでは非ずに、その本質たる道義面・正当性の方をこそが問題として取り沙汰されなければならないのでは?
(「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉は少しく関係性有りかなと思います。)
少なくともこの日本国に於いてはデモ活動の成功を見た例が殆どありません。
これは引いては政治的無関心の増長につながると思います。
為政者側の国民、民衆、庶民、に対する軽侮蔑、「ナメ切った」感情・態度も増長させるものと思います。
被政者・民間からの直接の示威行為や暴力的攻撃や威力行使で牽制する事は、温床・ぬるま湯に浸ってやりたい放題尽くしの、これらの御仁達の道徳関連の「引き締め」に有効、有意義なのかも知れません…。
しかしこんなことを発言しようものならば、すぐにもやれ「凶悪な危険思想だ」、「許されぬテロリズムだ」だのとの自己防衛的見地からの糾弾が、まさに「この手の人々たち」自身から殺到してくるのは想像に難くありません…。
政治を執り行うにあたり「おとなしい奴ら(庶民・民衆)には何をやっても許される」という傲岸不遜な軽侮蔑が慣行化しており、その自己本位の錯覚から産生される諸々の横暴の断行がほぼ常態・固定化してしまっている事。
背景には日本特有の事情・風土・因習・素地、即ち「お上に楯突く」者・事は殆ど必ずや何らかの損害を被る結果となる事が歴史的経験則然として認知されており、物申す事だけでも憚られる傾向にあり、何でもかんでも唯唯諾諾の姿勢をとってしまいがちにある事だと思います。
「政治に携わる者(為政者関連にとどまらず、公務員、そして学界関連の人々も含めて)、公僕たるべし、清貧たるべし、謙虚誠実たるべし」であると、私強く思うのですが、そうでは無かったのでしょうか?
現状は「本末転倒」の様相を呈してはいませんか?
他方、経済界・商業界・産業界、系統に携わる人が人生のゲームルール(なお余談ですが、正当さ、誠実さ、道徳の高雅さ、等といったものだけでは世間を昇り詰める事が出来ないのが現実。出世するには、学歴誇示、対人コミュニケーションの巧みさ、狡猾な渡世術、詭弁、カリスマ性、虚偽、臨機応変の適応性、権謀術数、非合法まがいの合法、等々を駆使する事が必須とされ、そして又許容認可されている様であります)にきちんと沿って、功利を得、財を成し、幸福を満喫・謳歌する事には特段の異論はさほどにはありませんが(ゲームの勝者としての正当な報酬・利得なのですから仕方が無いのでしょう…)、職務に「公共性」を包含する、内包している者達にあっては、その方面によりもっとの慎重性が求められるものと思います。
公私混同、お役所仕事、たらい回し、搾取、自己中心的なありさま・エゴイズム、融通の利かぬ「杓子定規」行為、各種の税金賦課・徴収の正当性・根拠の不明確さ、等々の職務怠慢行為が跳梁跋扈しているのもいかがわしいものです。
閑話休題で御座います。
私がこのような事(自分の生きる意義、ヒト・全人類の存在意義云々)を考えるようになったそもそものいきさつは、日常的に普通に行われている「動物食」について疑念を抱くようになった事が、恐らくその端緒、きっかけ、契機だと思います。
身近な例として、例えばですが動物一般の中でも取り分けて脊椎動物系全般を食するという事の思想について当惑・苦悩・念慮致す様になって来たのであります…。
「動物食」概念が、もはや何ら疑う余地の無い「常識」とされ「当然」化「当たり前」となっている事自体が不正でおかしいような、そして喫緊に再考・熟慮検討すべき重要課題・人類の絶対的責務だと思うのですが…。
そして他の動物に対しての殺戮・奴隷化・隷属・使役・搾取・奪取(例えば牛乳・(鶏)卵など(←これらのような直接的殺傷・殺害過程を経ないものについてもです!))は、果たして本当に正道なのかと。
これは集団妄想?或いは、新種の、新手の、新趣向の壮大な不文律的ジョーク?或いは暗黙の了解的な人生作法?
何かのトリックかと見まごうばかりの狂態ぶりに思えるのです。
かの有名な寓話「裸の王様」を連想起せずにはおれません…。
そして少なくとも現実に私はその渦中に生きている、真っ只中に存在している…。
根本的に考えて、信じられません…。
しかしこれは驚愕の現実そのものなのです…。
この問題を、今さら敢えて取り沙汰すのも野暮ったい、「ダサい」とでもいうのでしょうか…?
現代に於いては当然周知の事ながら、世界各地、全国津々浦々、どこででも動物(の死体)が平然と「普通常識」として、「展示」され、販売・交易されています。
尚、実験台として供される動物にしてみてもそうです。
「一将功なりて万骨枯る」という言葉がありますが、その万骨とは何か?
この場合に於いては言うまでもなく人間(功なりた「一将」)の何らかの諸々の利得目的(安全性確認、研究目的、人間の身代わり、等々)の為に「犠牲」「いけにえ」とされた実験台動物たちに他なりません!
もしこの状況が逆の立場であったらと考えた事はありませんか?
即ち、自身、家族、親類、友人、…等々が同じようにされたら、と自分たちの身になって考えてみたらどうでしょうか?
当然の事ながら、嫌でしょう、悲しい・哀しいでしょう、恐い・怖いでしょう、泣くでしょう、怒るでしょう、痛いでしょう、苦しいでしょう、辛いでしょう、不平不満不快不幸を感じるでしょう、危害殺傷を受ける恐ろしさに怯え慄くでしょう、憎悪するでしょう、怨恨の念を抱くでしょう!
そして果ては、復讐・報復・仕返しをしてやる、殺意(「ブッ殺してやる」)を抱く、までに発展するでしょう!
いざ自分(或いは自身に関与度の高い諸関係者)が同じことをされたらイヤなくせに…。
身勝手極まりますね。
私は少数派(1人だけ?)なれど自信・確信をもって言えます。
斯様な事が「平常」となっている世の中(膨大多数派)の方が、イカレている、狂っている、まるで狂気の沙汰そのものである、と。
殺害感・殺戮感・残虐感を味わいたくない、実感したくないが為に、残虐場面・グロテスクシーンは巧妙に(編集?)カット、シーリング、意識外への駆逐駆除、や「オブラートに包む」行為をされています。
消費者に「殺し」の生々しさを感じさせぬよう、感じにくくさせるよう、あの手この手を駆使して免罪的方略が案出され続けています。
例えば、丸々全体では無しの、切り身・「ミンチ」化・部分化・形状をとどめなく加工、…等々。
秘匿・秘密化・隠匿のテクニックの練熟練達は更なる増進長をし続けております。
現状実態(劣悪な環境に拘束収容監禁囲い込み、殺傷、殺害、等々)を直視しようとはせずに、目を背ける事を志向する卑怯劣な人間の術法策…。
汚い仕事には手を付けない或いはつけたがらず例えば屠畜、などを一部の人々に代行さす…。
そして、自己を悪玉・悪役・悪人化させたくない(戦略的、戦術的、打算的)意から修羅場を見たがらない、見ようとしない、見たくない、…を決め込む。
社会的分担の名のもとに業務を一部の人達だけに請け負わせています。
もしの執行者が自分本人だったら対象動物を目の前にして、まさにまのあたりにして、自らの手で以てして殺害を、果たして敢行出来ますでしょうか?
殺害の「現場」を「実際に」「見て」いないから、野放図な事(悪逆非道の実態の判りにくさ、認識の難しさより生ずる、際限の無い浅薄的・浅慮的・無計画的・ゲーム感覚的・「非情、無情、無機」的・仮想的大量殺戮など)になるのではありませんか?
(そこには現実感が存在していない…。)
これは明らかに間接的にせよ全員が全員、殺害幇助・殺害を「実行」している事は決定的だと思います(全人類が共犯者・かたわれ、→実質的殺害犯人。共犯犯罪の咎で)。
少なくとも生活上の基本且つ重要分野「食」に於いては「きれいごと」だけが独り歩きしている観があります。
他には、健康栄養の向上、増進や健康・長寿の礼讃・奨励(健康且つ長寿、両方共兼備しよう!とは何と贅沢、欲張りな…)を「大義名分」「錦の御旗」として掲げ、その為なら何をやっても良いのである、という(口に出しては言えない、言い辛い)パターン・図式。
「健康」も「長寿」も、きこえはマイルド、ソフトですがその実、立派な自己愛的独善的恣意的「強欲」に他なりません。
私、最近では「しあわせ」「幸福感」「福祉」といった概念でさえも「強欲」の一種に思えて来ました…。
例えば「魚を食べよう(IPA、DHA、良質タンパク質、等の摂取の目的)」とか「牛乳、乳製品を積極的に取ろう(目的は良質蛋白質源やカルシウムや乳酸菌等)」とかよく見かけますね…。
さて、逆に実質的な蜜月関係にある他生物の卑近な例としては、ゴキブリ、ハエ、カ、その他害虫類、カビ、感染源・病原細菌ウイルス関連、(少々躊躇しますが、カラスも?)、…等々凡そロクなものは無い…。
仲が良いのは皮肉な事に人間たちが唾棄・軽蔑・侮辱・逃避忌憚してやまぬいわゆるところの「害悪生物」関連系統ばかり。
ところで、昨今動物愛護の兆し機運がようやくにして生まれて来始めているようですが、その対象動物を何らかに特定する傾向が顕著。
蓋し恣意的で偏向性のあるまがいものですね。
こんなものは「まことの博愛主義」とは断じて程遠い。
以上のこの実態を更に敷衍すれば、人間社会以外即ち、他生物・自然環境・生態系に対しての、具体的な人間側が与えるインパクトの例としては、牧畜産・水産・酪農・狩猟・乱獲・飼養・汚染・養殖・運行用途・ゴミ大多量廃棄・破壊・ペット化・いわゆる「殺処分」(つまりは大多量虐殺戮。例、感染予防、公衆衛生・免疫の名目で正当性を掲げ、家畜を皆殺しにしたり…はよくある事です)・オゾン層破壊・砂漠の拡大化・地球温暖化・気候改変・環境汚染・大気汚染・海洋汚染・地球の惑星としての老朽疲弊化(余命の甚大な短縮化所作)・生殺与奪の掌握・伐採・実験台用・鑑賞対象・人類の汚点のはけ口・食餌としてのジャンク残渣の転嫁・絶滅に追いやる・絶滅させてしまった事・…等々(列挙の尽きる事が無い感じです…)。
尚以て人間以外は全て所有物化され、「人(?)格」無しの「物」或いは「商品」「私有物」扱い…。
私利我欲の為に人間外に犠牲を強いる。
その正当性・合理性を誇示・説得せんが為の「錦の御旗」「大義名分」の例としては「健康栄養に資するため(・乱獲・生態系の攪乱、等)」「医療の向上(実験台生物をいけにえとする、等)」「生活の質の向上(環境破壊・汚染、資源の濫費、等)」「科学の発展(環境破壊・汚染、資源の濫費、等)」「産業・工業の進歩(環境破壊・汚染、資源の濫費、等)」等が挙げられるかと思います。
問答無用で自分勝手、そして関与対象にコンセンサスすら一切無し。
全く強制無断での自然環境や貴重で尊い生命を持った他生物への、以上の極めて悪逆非道と思える人類の暴虐的諸行、果たして倫理・道徳的な真実の正当性は一体いずこにあるというのですか…。
哲学的且つ倫理学的に鑑みるに道義性に明らかに反しているように強く思います。
地球という惑星・世界はヒト一生物種の独占物などと誰が何の権限を以て決め付けたのでしょうか?
今現在地球は文字通りの、読んで字のごとくの、まさに「無法地帯」と化してしまっています。
(例えば先述も致しましたが、身近な判り易い、想像に難くない凄惨な例として特に家畜や養殖や実験台動物や愛玩動物業界、関連についてはまさに「現代にいまだ猶以て残存する奴隷制度」であります。)
私は人類よりもむしろ、ヒト以外即ち、他生物・自然環境こそ尊ぶべき高尚な存在のように思えてなりません…。
ずっと平和的・共存共生的・青き美しき地球の存続に貢献的で高貴であり、素晴らしく、賛美・称讃すべき存在であると強く思うのですが…。
何と循環型社会の対象化に成功しその永久存続の大切さを提唱して叫んでいる、その御当人御自身こそが諸悪の、根源・犯人・元凶なのですから、こんな皮肉で滑稽な冗談、茶番劇、喜劇は無いです。
そもそもヒト以外、人為・人工の対極、即ち自然・天然・生態系そのものこそが既に立派な完成されている循環型社会ではありませんか!
何か人類の諸々の所業、動態について、ガン細胞のそれ((その存在自体が生物種としての)突然変異(物,体,種)・造反(物,者,体)・もとより害悪源・他組織の破壊・増殖・転移・毒素産生・醜悪、不気味・果ては寄生対象の壊滅死滅と共に自滅・…等々)に非常に酷似していると思いませんか?
「ヒト、人間、全人類、」イコール、「ガン細胞」→図星。どうですか?悔やしくないですか?恥じ入りませんか?
「宇宙船地球号」をヒトという狂人が尊大ぶって尚且つ操作の方法・技術・能力・学識、等の点でド素人の体で、そして航路も分からぬままに気分本意で、何の許可もないままに舵取りを代表・率先している図…。
何とも滑稽です。
勿論「邪性」そのものであります。
私は、人間を慈しむのではなく、むしろ人間以外こそを慈しむべきであるとの信念を抱くに到りました。
そして、「次世代・子孫にこの美しい地球を残そう…云々」ではなく「(ヒト以外の)他生物・自然環境にこの緑多き青き清く美しい地球を残そう・託そう…」が真実の道理では?と思い至りました次第です…。
人類だけが一切全て消滅すればこの地球、きっともっとずっと永・長続き、永持ち、長生きしますよ…。
ここに「「ヒト、人間」としての誇り、ではなく「生物」としての誇り」を持つべき事の提唱を致します。
あと、ヒトにばかりに注視し「人権」ばかりが主張されておりますが、他生物たちのそれに当たるもの(「(他)生物権」?)の「対象化」及びその尊厳と尊重に就いての話題・情報、何故だか殆ど見聞した事がありません。
もう既にその必要性が判り切っている、議論せねばならない重要事項・課題である筈なのに世間の関心からは度外視されている状況…。
はなはだ謎です。
何も決して反語調に申し上げているわけでは御座いませんが、わたくしの思念・自説・持論、哲学的・倫理的・論理的等の側面に於いて、どこかおかしい、欠陥性あり、或いは間違っておりましょうか…?
以上申し上げた諸々の案件(長々と済みませんが…)に対する諸氏の御意向・スタンス・御見解の程、是非御伺い致したいところで御座います…。
尚、私がこのような考えを持つに至りました要因として以下のような因子も無視出来ませんのです…。
自己開示を致しますと、私自身が実体験として疑似的同様の監視(盗撮、盗聴)・拘束・監禁・拘禁・一切の情報の遮断・虐待・実習訓練台・プライバシーの剥奪・アイデンティティーや価値観念の変容の強要(さながら現代版「踏み絵」…)・「フォアグラ」扱い、等の暴虐行為諸々を受けし経緯、いきさつが御座いますので、迫害されているもの(視線の延長上の対象として着眼致しましたものはよくありがちな限られた範疇としての「人種」マイノリティ関連では非ずに、灯台下暗し(或いは世間は意図的に事なかれ、知らぬふりを決め込んで注視しようとしないのでしょうか?)、「人間以外」そのものに他なりません)たちの気持ちがよくわかる(つもりです…)。
(※尚敢えて名誉の為に申し添え、付言を致しておきますと私、「前科者」「服役者」「受刑人」といった類いの者ではありません。)
結果的に私は生存している。
まだましなのでしょう…。
ところが、猶以てそれらのものたちはその殆どがもっと酷い悲劇的結末、即ち「死」という末路を辿りゆく。
「死」という陰惨な暗淵が待ち受けている。
こんな事がまかり通っていて本当に良いのでしょうか。
ただ単純に常識的に(そして利己的・打算的要素も含意して…)「自分がされたら…」と(を)考えるだけでいい、と思いを馳せるだけでいい。
他者・相手の身になって物事を考えるという事、「共感」、「同感」、「同情」、「配慮」、「おもいやり」。
その当該対象は何も「人」に限ったことではあるまい事でしょう。
「人」としてでは無しに「生物」としての誇り、というものを考えるようになった次第です…。
人に限ったマイノリティは言うまでもない事ですが、それ以上の差別・侮蔑・屈辱・暴力・虐待的扱いを受け続けて来ているものたち、即ち、ヒト以外、他生物の「声」「気持ち」「感情」を疑似的に代弁すれば、「不安」「心配」「おそろしい」「こわい」「かなしい」「悲嘆」「つらい」「くるしい」「不快」「いたい」「ひどい」「怒り」「ムカつく」「存在しないでくれ」「いないでくれ」「消え失せてくれ」…等々。
人間に対して生喚起される思いの大半が負の感情である事は誰にでも推知できよう事です。
判り易く言ってしまえば、他生物たちからのヒトへの印象はまさに、かのおぞましい醜悪狂凶暴な、大多量の「ゾンビー」群そのものではありませんか?
(2ページ目に続きます)
生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)ヒト・人間・人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。
「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」
(1ページ目)
(自然発生的に誰しもが考えることだと思われますが、)「人」としての最重要課題、(以下に示しました矢印「⇄」は敷衍の遷移、順序を示すものでは決してありません。考えの原初からの順序列は今となっては最早定かではないと思います。しかし推移の順位、順番などこの際特別段に問題とはならない筈です。只言える事は対象それぞれには紛れもなく深く強い密接な相互関連性が存在している事(相即不離)は自明、という事です。「自」と「他」の截然たる区分けは社会化が前提の現代では、どうしても出来ぬ事なのかも知れません…。)即ち、「私」⇄「人間、ヒト」⇄「全人類」の存在のor生きる意味及び意義並びに根拠とは何でしょうか?
(ところで、私自身の「ばか丸出し」然、無知を曝露呈する様で御恥かしい限りですが、私の漠然とした認識では、哲学は「意味」の分野を思考察、片や倫理は「意義」の方面を思考察するものと思っております。自信がありません、とんだ誤釈でしょうか?)
個人⇄集団の内面、何たるか、主体、概念、の充全な洞察、考究は緊張感・責任感・切実感・切迫感・羞恥心・謙虚精神・罪悪感・謝罪感、を以て臨むべきことであると強く思います。
グローバルな地球的な国際化・社会化した現代に於いては、尚更にも増して人間として考えなければならぬ最重要課題でしょう(然し私、個人的にはその方面の談論風発の見聞、いまだかつて覚え無し)。
又更に利己的「意義」(の追究)はわかりますが、利他的「意義」という代物は何らかあるのでしょうか?
私、例が思い浮かびません…。
然しながら以上、結論を先に言ってしまえば、(予想して今後将来的にも)蓋し凡そその答えは、無い、或いは見つける事は不可能、というのがほぼ決定的な真相かと思われます。
少なくとも有史以前以後にも先達諸々が論究せんとして来た事ですが確実な証明、完成の功相成るに至っていないのが現実です(何故ならば、直観的に現実の各様各態のカオスの山積を概観するだけでも、物心ついた人ならば即座にも判じ得る事だからです)。
達観して悟りの境地に至った人等、果たしているorいたのでしょうか?
(ところで、ちょっとした余談です…。梁塵秘抄の有名な歌、「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」があります(殆ど周知ですよね…)。誠に僭越ながら私なりの我田引水、牽強付会な私的解釈を致せば、生きる意義とは何かとの哲学的問いかけであったのでは?、との読み替えを致しました。最重要課題、大切なものを、なおざりに、置き去りにして、個々が勝手気ままに、自由に、遊び(=諸々の何らかの行為・所作・行動)に耽っています、御執心です。「遊び」イコール各主体それぞれの何らかの欲求願望の充足…と解釈致しました。(かと言って、この場合に於いて、「あそび」とは何も必ずしも娯楽、遊興、享楽、快楽、的な事象に限った事ではありません。人為、ヒトの所業を全て「あそび」として総括。「生きる事の「意義」を考える事、解明する事、無くして「あそ」んでばかり居ていていいのか」との警句…。との読み替えです)つまりは、寄与・貢献・慈善・愛他・利他・学究・研究・勤労・仕事・作業・献身・苦行・ストイシシズム関連・等でさえも究極的には、絶対的には、本質的には利己的欲求願望の一種に過ぎません。)
このような状況から鑑みまして、私の個人的な(且つ極論・酷評的な?)言い方をすれば「惰性で駄齢を重ねてきた人類史」と表現せざるを得ません(生意気を申し上げます様ですが…)。
さて、自己、自我とは何か?そして果ては社会や世界全体とは何か?に就いて。
これらが何故だか世間的に盲目的気味になっている事、逃避・遁走されがちで遠慮・忌憚扱いを呈している状況の要素・因子を、雑然とですが自分なりに考えてみました。
元来からして、各人各様どのような形であれヒト主導の国際社会の蓋然的な揺るぎ無い存続の「確信」を本気で妄信→考える必要性・切迫感を感じない。
受動的に虚像を妄信させられている、被妄信。
わざと、故意に、意図的に、知らぬふり、かまとと、確信犯的無難志向・事勿れ主義、の道・方略を選択する。
多忙。
考えている暇など無し。
外界からの各種何らかの刺激・入力が多過ぎて対処・集中が出来ない、困難。→注意・関心が散逸、分散してしまう。
関心が起こらない。
別の事物象に関心を向けている(夢中になっている)。
或いは向けさせられている。
もしや「関心寄せ」の巧妙な操作(?)をも被っているのでしょうか?
どうしても具象的とか直観的とか感覚的な、比較的認識・判断の容易な物事が偏愛、嗜好されがちである事。
(挙例として不適当かも知れませんが…、)かの有名な「杜子春」的、生き方・人生設計への転換→落着・帰結。
世渡りに於いて、華美豪奢では非ずに、かと言って卑下零細の道を辿る訳でもなく、「中庸」の人生方略を執るべき事こそ最上最良最高なのであると自己を説得してしまうとか…。
特殊な「専門分野」のひとつと解釈して割り切ってしまう(心の中で斯界、斯道の権威に委託)。
「どこかのだれかがやってくれているさ…」とか…。
哲学(的思想関連諸々)など実の無い贅沢な有閑人、閑居者、暇人のくだらない「思索」の産物である、空論だ、との偏見・決め付け。
その他の例としては…。
寡黙、むっつりを決め込む。
そして更には何の流儀か知らぬが、自己愛、自己陶酔的に孤高を「地で行く」向きも多数存在。
「能ある鷹は爪を隠す」(実際は、肝腎かなめの「爪」自体そのものが存在しなかったりする人も少なくない様で…。)を気取る御仁たち。
言外に(非言語的コミュニケーションにてで)自身の高尚さ高邁さをそれとなく匂わす、アピールする(しかしその内相実体は何ともお粗末だったりする…。いわば単なる見掛け倒し)。
等々が思い浮かびました(もし以上以外のその他の要因について存知なさっておられますようでしたらば御教示の程、されたく思います…)。
そしてまた更には、哲学的思考をいざしようものなら、その大抵が直接的にも間接的にも、外界的要因からも「禁忌の事項・行為」として抑圧・阻害・妨害を被る事になる様に思えます。
その兆しを、歓迎ないし放置(中立的対応)するどころか由々しきものとして冷遇する、攻撃対象とする暗黙裡の符牒でも存在しているかの様です。
例えば、
モラトリアム人間のステレオタイプとしてラベリングされ、誠実に、本気で、真面目に取り合ってくれない。
或いは「小人閑居して不善をなす」の先在、既存パターン・鋳型を連想、→借用して当て嵌めてしまう。
創始・進取の気概の萌芽を社会的圧殺を以て諦念させる。
外的要因の各関係性を鑑みた上での(疑似的シミュレーション的な)学習性無力感による想起から諦めに至ってしまう。
イノベーター、革新者は良い意味でも悪い意味でも統制を乱す存在として、その多くが由々しき曲者として何かと煙たがられる(特に為政者側、保守的傾向人間、権威主義的性格の者、等からは目の敵にされ易い(自分の地位の安泰・盤石・太平を脅かす存在として忌み嫌う)様な感じがします。尚この事は、自由主義の諸刃の剣の様な感じがしないでもありません。哲学的教育課程の画期新規組み入れ・組み込みは、主導者・権威者・為政者側にとっての意図せぬ、計らざる「造反者」「謀叛人」「革新家」「イノベーター」の養育・発生のリスクをも包含する事になるからです)。
遂行せんが為に(主体性を以てして)暗中模索或いは試行錯誤に奔走した、その当該者自身も「角が取れて丸くなってしまった」人々と成り果て「あれは若気の至りであった…」と悔悟してしまう。
人生の過程で様々な紆余曲折を経て、ようやっと持論・自説が凝結、結実をみて、いざ外界に向かって提言したく思うようになりしも、気付いた時には自分は既にもう干からびた老人…。
誰も話に耳を貸さない。
世の習いで、せいぜい「年寄りのうるさい、つまらない繰り言」扱いを受けるようになってしまう。
「集団・大勢・多数派からの逸脱への恐怖→同調志向、無難志向」という人生設計転向・方針転換パターン。
…等。
斉一性、斉合性、整合性、を重んじるお国柄、国民性の影響も無視出来ない様に思われます(この国固有独特のいわゆる「村八分」思想もこれと関連している感じです)。
以上これらが、珍しくもない顕著、蓋然実態であるのではないでしょうか?
かくいう私も、いわゆる「モラトリアム(人間)」或いは「アダルトチルドレン」のそしりを免れぬかもしれません。
しかしそのそしる・けなす・ののしる御当人方々は一体全体この問題をどう克服して大のおとなになったのか?
所詮「現実逃避」「責任放棄」「妥協」「我慢」「事なかれ主義」「現状満足」「安住志向」「和を以て貴しとなす」「損得の面などから打算して敢えて直視しようとしない」「集団同調」…等々のいずれかを決め込んでいるのが関の山なのでは?
やる前から達成の困難さに怯え即座に諦めてしまった短絡への恥、壁を越えられなかった悔しさ、自己自身の勇気の無さ、…等々どうして自己嫌悪に陥らないのでしょうか?
摩訶不思議でなりません…。
蓋し謎は深まるばかりで理解に苦しみます…。
以上諸々のようなスタンス・態度を是と、している、させられている方々や哲学的思考、の断念を決意、を断念した、を断念している、人々→即ち斯界については寡黙状態の向き・諸人、そして更には哲学的思想関連の、権威、(学)識者、研究者、並びに(市井に存する人に於いても)哲学的な思考関連の情報系統の自分自己自身への入力行為にばかりいそしんでいる傾向の各人たちにも私、強調して提起したいです。
自己内の信念なり主張なり言い分なりを外界に向かって発信・出力・表現・「対話」しなきゃあ、てんで意味が無いんだよ!と云いたいのです。
(尚、自己の内因的制限要素(無学ものであります…)から、少なくとも私だけに限っては「ハムレット型」よりかは(当たって砕けろ式、猪突猛進然として…)「ドンキホーテ型」(陽明学然とも?)を踏襲する、地で行くしかないのがいささか悔やしい所です…。)
更にこうも言いたいです。
外的存在として超弩級巨大膨張広範化している決して無視できぬもの、即ちマスメディア・マスコミュなどの送り手から発信される情報、即ち政治、経済、社会問題、事件、等にとらわれ過ぎてはいませんか?と。
その殆どが、その場その時限り、当座的、短期的、(確からしい事実ではあるのですが、疑似的であるという意味で…→)空想・錯覚(←例えば、あたかも自分は世界や社会としっかりと繋がっているのだという幻想とか…)・別世界的、虚像・虚構的、民間性・庶民性の無さ、個人の力ではほぼ統制は不可能な点、恣意・偏向的、等の側面に特徴付けられている感じです。
しかして、考察すべき事の優先順位を真剣に考えてみれば、(そのようなほぼ無駄な雑念を生起させるものにとらわれる事無しに、)哲学的思考こそがその一番初めに来るべきものであり、且つ課せられた絶対的責務だと思います。
自然を制覇掌握凌駕するというひとつの価値観念、克服への念願、欲求、願望を以てして科学は今の今まで推進されてきました。
事物象を明確に「対象化」する事を端緒とする事は論を俟つまでもない「科学」の営みの基本的特徴かと思います。
現今まで科学ばかりが盛んに伸びました(細密化、精緻化、分化、新生)が、この方面(哲学的思想関連、周辺)の議論の(微々たるものでもいいし或いは画期的な)進捗はあったでしょうか?
諸「科学」分野は目まぐるしい隆盛をきたして目覚ましいものがありますが、肝腎の道徳、正義、正道、道義、倫理、聖性の精神、がおろそかにされている感じ…。
尚注意しなければならないのは「科学それ自体は厳然と存在しているのみ。」という事だと思います。
(その意味に於いては進捗途上(或いは「発見予定」的な科学)のものはおろか、未成立、未知、未開拓、未踏、未然、の科学(隠れて・隠されて、いまだ見果てぬ・見えない・見えていない・見る事が出来ない科学)もまだまだある筈です。「潜在科学」?)
只、それ自体には何の罪業性も無いです(科学の無害性)。
紛らわしい、ややこしいのですが、厳密には科学の功罪を問う事自体は全くのナンセンスであると思います。
但し、志学の傾向や「知識」「学」の取捨選択の、(情緒的・恣意的な)「偏向性」が問題として取り沙汰されると思います。
科学は推進、進捗させるにあたり目的が同時に発生すると思うのですが、その根底にあるものは返報・見返り・報酬等といった利益・利得に対する何らかの欲求願望(←私情、主観、個人的or固有or特定の嗜好・趣味・価値観念、を含意したものとして…)にまつわる要素因子であり、これを自動的に包含する、兼ね備える事になってしまうと思います。
外的な要因として時代・世相・社会に由来する要請・需要・機運・採用のされ易さ、等もある種の変数・関係性として大いに考えられるかと思います。
これらの関係性が介在、絡んでくる事に由り、始めて、これを運用する側に対してこそ、問題点が所在(私情、欲望、価値観念、感情、好悪、恣意、…等を以てして科学を良い意味でも悪い意味でも利用する)して来るのであると思います。
哲学はもっと万人(万「生物」にも)に門戸を開け放たれているべきです。
哲学自体に「悪気」(?)は無いのでしょうが、飽くなき精緻化を求め続けたがあまりに、複雑・難解(・怪奇)化してしまい、もはや実用的とは言えなくなってしまっている観があります(よく似たいい例が「広辞苑」でしょうか?内容の、精緻さ、広範さ、正確さ、情報量の多さ、等の面に於いて、紛れもなく非常に優秀、秀逸。その功績は殆ど誰もが認める所です。然し直截に言ってしまえば、重い!小回りが利かない!即ち、そのあまりの膨大な情報量を詰め込み過ぎたが為に、自重(ジジュウ)の重過ぎさがあだとなって、果たして便利、実用的と言えるかどうかははなはだ疑問…。という点です)。
例えば緊急時、暴動時、巨大異変時、等の場面に於ける長考熟慮高学識を必要とされる様になってしまった哲学の実用性とは?と考えました。
つまり長広膨大な「理論」が咄嗟、突差に何の役に立つのか?という素朴な疑問をかねてより、懐疑的な私は抱いております。
ですから、机上の空論呼ばわりされる事態が判らぬでもありません。
そのほかには、個々別々の、関係性、特徴、差異、等を加味した上で問題として顕在化される「汎用性」とかも考慮するべきに値するのでは?
(例えば、国別・地域別等の場の素因、人種別・性格別・世代(「世代間のギャップ、壁」とか)別等の人間的素因、時代・時期等の時間の素因、等。)
哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは国連が考えられますが、実際のその進捗状況がどの程度なのかは全く謎に包まれています(もしかして、この方面の議論など軽視されているのが実情では?)。
しかも、国連の組織としての実質的真相、即ち実効力・拘束力の無さ、見掛け倒しの弱体的勢力に過ぎない事、道徳・倫理面に於いての完璧性とはまだまだほど遠くいまだ考究・整備が発展途上にある事、威厳が今ひとつ欠如している事、平等とは言い難く偏向性・階層性・差別性・恣意性が内在している事、等を考え合わせれば大きく夢・希望・期待を託す程までには、残念ながらとても出来ないように思えます。
非常に不安定的、危なっかしい感じ、印象を受けてしまいますのです。
他に哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは大学あたりでしょうか…。
具体的にどのような授業が行われているのかは、私は全く知るべくもありませんので、せいぜい想像の域を出ぬのが何とも拙いのですが、例えば、その現場に於いては、哲学と哲学史とをはき違えていやしまいませんでしょうか。
他の偉大な先駆者達の、軌跡、わだち、功績、記録、資料、文献、をなぞる、模倣する、踏襲する、学習する、…。
これだけでは真の哲学とは言えないのでは?
無論自説の創始・展開の為の、参考資料やヒントとする分には大いに有意義でありましょうが、そこに主体的な私情や自己からの思考察を含意した編集的行為が必要なのではないですか?
あと、私的、個人的牙城(限定的な空間、例えば、研究室、教室、議場、講壇場所、議会、講演会、等)に立て籠もって、引き籠もって、閉じ籠もって、内輪で同志間であれやこれやと議論・談論・意見交換してみてもそとに向けて出力しなければ何の意義も無いです。
これでは、ほんの少数の限られた学者連達だけのみに許容認可されている所詮は、独善的、自己満足的、快楽享楽悦楽的、衒学欲求的、な→「知的遊戯」・「お遊び」・私的趣味・道楽・娯楽・ゲーム・学知識の発揚or誇示の場、といった所ではないでしょうか。
そして、せいぜい為政者層・権力層或いは富裕層の諮問機関どまりに成り下がっているのが実態かと。
知的興奮を満喫し、教えを垂れる事に悦楽感を得、尚且つも高給取りで…。
こんなうまい商売は無いのでしょうか…。
自称「学者」「識者」の→実質「オタク」どまりなのでは?
孤高を決め込んでいる、特権化・専売特許化した、形式的哲学に堕した、ブラックボックス化してしまった、象牙の塔化した、敷居の高くなってしまった、哲学及びその周辺の「知」関連に未来はあるでしょうか?
(昔も今も)(学)識者もさることながら哲学者関連の人々に、緊迫した課題を先送り、棚上げしている自我に対して良心の咎め、呵責は無いor無かったのでしょうか?
無力感に自己嫌悪に陥ってはいないのでしょうか?
哲学的思考の始まりの時代はいまだ制圧制御しきれない自然の脅威にさらされていました。
然しそれは今は昔の事、自然を気が済むまで征服、凌駕しまくってきた現今は価値観念の画期的革新が必須、迫られていると思います。
国際的情報化の進展により学際的活動もそれに伴って活発を見せていると思います。
盛んな議論の展開、意見交換も、IT化がなおも行き渡り続けている現代に於いて、より増して可能になってくる筈です。
取り分け哲学・倫理学の分野方面に於いては一体どうでしょうか?
哲学と科学の類似点は万人(万生物)に更に時代・空間をも超えて共有され得るという事でしょうか?
(尚私は科学も哲学も時間、時代、時系列、空間、場所を(一過性では非ずして)超越している点では類似性有りと思っています。)
共有されるべき「確からしさ」「認知・判断の手掛かり」の淵源として重要です。
「実証」された事、それが固定的なものなのか変動的なものなのかは、私悔やしくも残念ながらつまびらかには理解出来ません…。
多大なる勉強、練習熟達が必要かも知れませんね…。
ここで一応漠然雑然とではありますが、私の「哲学」というものに対する私見、一家言を以下↓に示しておきます…。
(斯界の権威、専門家には適うべくもない浅見でしょうが…。従いまして自信は全然御座いません…。これらは、雑然漠然曖昧模糊としたものであり「信念」という程くらいにまでには、完全な凝固凝結をみてはおりません…。未だ途上の思案に過ぎぬものです…。)
時空超越の哲学
不偏・普遍(・不変(←ある意味に於いては少し語弊及び誤解の発生があるかもしれません…))の哲学
最大公約数的な哲学
汎用性のある哲学
万人はおろか万生物に共有されるべき、哲学
人種、生物種の垣根、境界線を取り払った哲学
「フィロソフィー→知(智)を愛する。愛知。愛智。」にははなはだ疑問。懐疑的態度をとっております。「「自」と「他」からの、「主」と「客」からの、「私」と「公」からの、(公私、自他、主客、の各併存としての、)概念思考察の、行為・いとなみ・知」あたりが適当or妥当or穏当なのでは?
伏線・示唆・布石、的な企図・狙いを込めます意味で、以下に私の所感・随想・雑考・主張…等々の諸々を記述させて頂きます。
雑然且つ漠然としてしまうのを助長してしまいます事が懸念材料として気になってしまいますが、そこは御高察を以てして文脈絡を判じ戴けますと助かります…。
私の、作文(幼少の頃より苦手、不得手で御座いました…)・構文・講述・論説、の能力の低劣さに起因する事を素直に認めます。
済みませんが御容赦下さい…。
私の意見・主張・所信として兼ねてより発信・提言したかった事を述べてみます。
親愛和性の生成喚起の素因として、どう考えても直観的な「類似性」こそが最重要候補なのでは?
これは、哲学の見地から、道徳・倫理・正当性の確からしさ、を思考察する際にかなり、重要な、優先的な、明解し易い、ヒトという生物種として正統性の高い、要素因子事項のひとつとするべき事であるとの信念を、個人的に私は持つようになっております。
(私の考えを判り易く説明致しますと、例えば、愛する、親近感を抱く対象としては大方が先ずは同類たるヒトでしょう。そこには、無論明確な偏り、偏向性があります。他方、その逆というか凡そヒトとは特徴的に全然似通っていないもの(生物も、非・無生物も)に対してはさほどの親愛和性を抱くことは、無し~稀でしょう。その習いから推知できよう事でしょうが、生物学的に近縁の哺乳類に対して愛着を抱き易い傾向であるのを説明出来るのではないでしょうか?引いてはやや分派たるものであれども、やはり近縁の脊椎動物系統各種各様に対しても、量的・質的にグラデーション然ではあると思いますが、当該対象に愛情を感じてそれを注ぐ傾向があるのではないのでしょうか?(尚、似通っているが為にかえって気に食わないという例外もありますね…。例えば、サルや同生物種たるヒトの「ライバル」とか他集団系、等。競争心・闘争感・葛藤、が生じるのは大変頻繁に散見される事です。))
先在知識、先有傾向、に就いて。
先有・先在・既有・既存の固定的な価値観念と客観的概念との、新事物象・潜在的「知」に対する、盲点化、シーリング、注意妨害、対象化の阻害、視野・感覚の狭小化、思考のかたさ・とらわれ・こわばり。
規範や「常識」が一旦成立してしまうと(あたかも硬性憲法のようなかんじで)柔軟に意識・認知を変容する事が出来なくなり、認識・判断の手がかりとしてそればかりに依存、拘泥してしまいがちのように見受けられます。
「常識」「通念」自体を疑うべきです。
例えば、政治家・公務員・学識経験者・学界権威イコール優遇措置且つ高給取りの図式。
これらの人々はその大概が、その存在の詭弁性を露見、顕在化させないように巧妙に立ち回る、渡世術に於けるしたたかなスペシャリスト・偽善者たちであると思うのですが如何がでしょうか?
付言すると「なんとまあ、ここまでぬかすか…」と思われる、いわれるかも知れませんが究極的には、「知」至上主義、「「知」イコール、高尚。尊ぶべきもの。愛すべきもの。の図式、構図」こそをも疑うべきかもしれません…。
「智」をこいねがう事や愛する事、「智」「知」「学」こそ最上、崇高という一辺倒な一般的認知、一種の思い込み、金科玉条的硬直信仰をも、熟慮・反省・今一度の再考・検討・検証・証明しなければならない画期に来ているのかも知れません(というよりかは遅れ馳せ過ぎます)。
ここで、個人的に昔から珍妖怪奇異変妙、疑問・謎と思っております「常識」及びその周辺的事象の具体的な例を以下に列挙してみる事に致します。↓
先述も致しました通り、為政者、政治家、公務員、公僕、が高給取り且つ厚遇をされている事(この事象は何故か殆ど全世界万国共通になっています。(歴史的)経験則からの正当性、或いは何らかの合理的根拠があっての事だから…、ということなのでしょうか?)。
法の番人、警察(の例えば横暴、公私混同行為、職権濫用、威力を以ての「御役得」の不当接収)に対するお目付け役、監査役、牽制機関・組織はしっかりと整備されているのか?
その不祥事実があったとしても、かばい合い、もみ消し、証拠隠滅工作などで公けに露呈しない、闇に葬り去られているのが実態では?
アイヌ民族へ北海道をなぜ返還しないのか?
アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)アメリカンインディアンにも何故アメリカ大陸を返還しないのか?
(その他にも斯様な類例はいくらでもあるでしょう…。)
理想としての直接選挙はいまだの(当時の)社会システムでは到底不可能→間接選挙に妥協。
間接選挙は飽くまで直接選挙実現へ向けての暫定的施行であった筈(?)。
しかし現在時点に於いてはそれが実現不可能かといえばそうでもなさそうな感じです。
どうして旧態依然なのでしょうか?
憂慮すべきものである事件、社会問題、犯罪、その他不祥的事案諸々が最早興味本位の、エンターテインメント、ショー化している事を薄々自覚しておきながら好奇心(猟奇心)旺盛に野次馬根性でそれらに異常なまでに関心、注目を寄せ、外界に向けては然も善人・健常者ぶって、刺激に飢えているその内心を公言、告白しようとしない事。
事件が起こるのを、送り手側も受け手側も、期待している、待ち望んでいる、のが本当の実態ですよね…。
食品表示に於いて何故か原材料欄に「水」の表記がなされぬ事…。
デモ、ストライキ、(リンチング、リンチ)モッブ、暴徒、テロリズム、一揆、社会的抗議活動としての暴動、実力行使、クーデター、など何か物騒なイメージが往々にして存在すると思われますが、関与当事者の善悪を審議するにあたっては、その見かけ・形式、先入観念、偏見、決め付けに拘泥するのでは非ずに、その本質たる道義面・正当性の方をこそが問題として取り沙汰されなければならないのでは?
(「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉は少しく関係性有りかなと思います。)
少なくともこの日本国に於いてはデモ活動の成功を見た例が殆どありません。
これは引いては政治的無関心の増長につながると思います。
為政者側の国民、民衆、庶民、に対する軽侮蔑、「ナメ切った」感情・態度も増長させるものと思います。
被政者・民間からの直接の示威行為や暴力的攻撃や威力行使で牽制する事は、温床・ぬるま湯に浸ってやりたい放題尽くしの、これらの御仁達の道徳関連の「引き締め」に有効、有意義なのかも知れません…。
しかしこんなことを発言しようものならば、すぐにもやれ「凶悪な危険思想だ」、「許されぬテロリズムだ」だのとの自己防衛的見地からの糾弾が、まさに「この手の人々たち」自身から殺到してくるのは想像に難くありません…。
政治を執り行うにあたり「おとなしい奴ら(庶民・民衆)には何をやっても許される」という傲岸不遜な軽侮蔑が慣行化しており、その自己本位の錯覚から産生される諸々の横暴の断行がほぼ常態・固定化してしまっている事。
背景には日本特有の事情・風土・因習・素地、即ち「お上に楯突く」者・事は殆ど必ずや何らかの損害を被る結果となる事が歴史的経験則然として認知されており、物申す事だけでも憚られる傾向にあり、何でもかんでも唯唯諾諾の姿勢をとってしまいがちにある事だと思います。
「政治に携わる者(為政者関連にとどまらず、公務員、そして学界関連の人々も含めて)、公僕たるべし、清貧たるべし、謙虚誠実たるべし」であると、私強く思うのですが、そうでは無かったのでしょうか?
現状は「本末転倒」の様相を呈してはいませんか?
他方、経済界・商業界・産業界、系統に携わる人が人生のゲームルール(なお余談ですが、正当さ、誠実さ、道徳の高雅さ、等といったものだけでは世間を昇り詰める事が出来ないのが現実。出世するには、学歴誇示、対人コミュニケーションの巧みさ、狡猾な渡世術、詭弁、カリスマ性、虚偽、臨機応変の適応性、権謀術数、非合法まがいの合法、等々を駆使する事が必須とされ、そして又許容認可されている様であります)にきちんと沿って、功利を得、財を成し、幸福を満喫・謳歌する事には特段の異論はさほどにはありませんが(ゲームの勝者としての正当な報酬・利得なのですから仕方が無いのでしょう…)、職務に「公共性」を包含する、内包している者達にあっては、その方面によりもっとの慎重性が求められるものと思います。
公私混同、お役所仕事、たらい回し、搾取、自己中心的なありさま・エゴイズム、融通の利かぬ「杓子定規」行為、各種の税金賦課・徴収の正当性・根拠の不明確さ、等々の職務怠慢行為が跳梁跋扈しているのもいかがわしいものです。
閑話休題で御座います。
私がこのような事(自分の生きる意義、ヒト・全人類の存在意義云々)を考えるようになったそもそものいきさつは、日常的に普通に行われている「動物食」について疑念を抱くようになった事が、恐らくその端緒、きっかけ、契機だと思います。
身近な例として、例えばですが動物一般の中でも取り分けて脊椎動物系全般を食するという事の思想について当惑・苦悩・念慮致す様になって来たのであります…。
「動物食」概念が、もはや何ら疑う余地の無い「常識」とされ「当然」化「当たり前」となっている事自体が不正でおかしいような、そして喫緊に再考・熟慮検討すべき重要課題・人類の絶対的責務だと思うのですが…。
そして他の動物に対しての殺戮・奴隷化・隷属・使役・搾取・奪取(例えば牛乳・(鶏)卵など(←これらのような直接的殺傷・殺害過程を経ないものについてもです!))は、果たして本当に正道なのかと。
これは集団妄想?或いは、新種の、新手の、新趣向の壮大な不文律的ジョーク?或いは暗黙の了解的な人生作法?
何かのトリックかと見まごうばかりの狂態ぶりに思えるのです。
かの有名な寓話「裸の王様」を連想起せずにはおれません…。
そして少なくとも現実に私はその渦中に生きている、真っ只中に存在している…。
根本的に考えて、信じられません…。
しかしこれは驚愕の現実そのものなのです…。
この問題を、今さら敢えて取り沙汰すのも野暮ったい、「ダサい」とでもいうのでしょうか…?
現代に於いては当然周知の事ながら、世界各地、全国津々浦々、どこででも動物(の死体)が平然と「普通常識」として、「展示」され、販売・交易されています。
尚、実験台として供される動物にしてみてもそうです。
「一将功なりて万骨枯る」という言葉がありますが、その万骨とは何か?
この場合に於いては言うまでもなく人間(功なりた「一将」)の何らかの諸々の利得目的(安全性確認、研究目的、人間の身代わり、等々)の為に「犠牲」「いけにえ」とされた実験台動物たちに他なりません!
もしこの状況が逆の立場であったらと考えた事はありませんか?
即ち、自身、家族、親類、友人、…等々が同じようにされたら、と自分たちの身になって考えてみたらどうでしょうか?
当然の事ながら、嫌でしょう、悲しい・哀しいでしょう、恐い・怖いでしょう、泣くでしょう、怒るでしょう、痛いでしょう、苦しいでしょう、辛いでしょう、不平不満不快不幸を感じるでしょう、危害殺傷を受ける恐ろしさに怯え慄くでしょう、憎悪するでしょう、怨恨の念を抱くでしょう!
そして果ては、復讐・報復・仕返しをしてやる、殺意(「ブッ殺してやる」)を抱く、までに発展するでしょう!
いざ自分(或いは自身に関与度の高い諸関係者)が同じことをされたらイヤなくせに…。
身勝手極まりますね。
私は少数派(1人だけ?)なれど自信・確信をもって言えます。
斯様な事が「平常」となっている世の中(膨大多数派)の方が、イカレている、狂っている、まるで狂気の沙汰そのものである、と。
殺害感・殺戮感・残虐感を味わいたくない、実感したくないが為に、残虐場面・グロテスクシーンは巧妙に(編集?)カット、シーリング、意識外への駆逐駆除、や「オブラートに包む」行為をされています。
消費者に「殺し」の生々しさを感じさせぬよう、感じにくくさせるよう、あの手この手を駆使して免罪的方略が案出され続けています。
例えば、丸々全体では無しの、切り身・「ミンチ」化・部分化・形状をとどめなく加工、…等々。
秘匿・秘密化・隠匿のテクニックの練熟練達は更なる増進長をし続けております。
現状実態(劣悪な環境に拘束収容監禁囲い込み、殺傷、殺害、等々)を直視しようとはせずに、目を背ける事を志向する卑怯劣な人間の術法策…。
汚い仕事には手を付けない或いはつけたがらず例えば屠畜、などを一部の人々に代行さす…。
そして、自己を悪玉・悪役・悪人化させたくない(戦略的、戦術的、打算的)意から修羅場を見たがらない、見ようとしない、見たくない、…を決め込む。
社会的分担の名のもとに業務を一部の人達だけに請け負わせています。
もしの執行者が自分本人だったら対象動物を目の前にして、まさにまのあたりにして、自らの手で以てして殺害を、果たして敢行出来ますでしょうか?
殺害の「現場」を「実際に」「見て」いないから、野放図な事(悪逆非道の実態の判りにくさ、認識の難しさより生ずる、際限の無い浅薄的・浅慮的・無計画的・ゲーム感覚的・「非情、無情、無機」的・仮想的大量殺戮など)になるのではありませんか?
(そこには現実感が存在していない…。)
これは明らかに間接的にせよ全員が全員、殺害幇助・殺害を「実行」している事は決定的だと思います(全人類が共犯者・かたわれ、→実質的殺害犯人。共犯犯罪の咎で)。
少なくとも生活上の基本且つ重要分野「食」に於いては「きれいごと」だけが独り歩きしている観があります。
他には、健康栄養の向上、増進や健康・長寿の礼讃・奨励(健康且つ長寿、両方共兼備しよう!とは何と贅沢、欲張りな…)を「大義名分」「錦の御旗」として掲げ、その為なら何をやっても良いのである、という(口に出しては言えない、言い辛い)パターン・図式。
「健康」も「長寿」も、きこえはマイルド、ソフトですがその実、立派な自己愛的独善的恣意的「強欲」に他なりません。
私、最近では「しあわせ」「幸福感」「福祉」といった概念でさえも「強欲」の一種に思えて来ました…。
例えば「魚を食べよう(IPA、DHA、良質タンパク質、等の摂取の目的)」とか「牛乳、乳製品を積極的に取ろう(目的は良質蛋白質源やカルシウムや乳酸菌等)」とかよく見かけますね…。
さて、逆に実質的な蜜月関係にある他生物の卑近な例としては、ゴキブリ、ハエ、カ、その他害虫類、カビ、感染源・病原細菌ウイルス関連、(少々躊躇しますが、カラスも?)、…等々凡そロクなものは無い…。
仲が良いのは皮肉な事に人間たちが唾棄・軽蔑・侮辱・逃避忌憚してやまぬいわゆるところの「害悪生物」関連系統ばかり。
ところで、昨今動物愛護の兆し機運がようやくにして生まれて来始めているようですが、その対象動物を何らかに特定する傾向が顕著。
蓋し恣意的で偏向性のあるまがいものですね。
こんなものは「まことの博愛主義」とは断じて程遠い。
以上のこの実態を更に敷衍すれば、人間社会以外即ち、他生物・自然環境・生態系に対しての、具体的な人間側が与えるインパクトの例としては、牧畜産・水産・酪農・狩猟・乱獲・飼養・汚染・養殖・運行用途・ゴミ大多量廃棄・破壊・ペット化・いわゆる「殺処分」(つまりは大多量虐殺戮。例、感染予防、公衆衛生・免疫の名目で正当性を掲げ、家畜を皆殺しにしたり…はよくある事です)・オゾン層破壊・砂漠の拡大化・地球温暖化・気候改変・環境汚染・大気汚染・海洋汚染・地球の惑星としての老朽疲弊化(余命の甚大な短縮化所作)・生殺与奪の掌握・伐採・実験台用・鑑賞対象・人類の汚点のはけ口・食餌としてのジャンク残渣の転嫁・絶滅に追いやる・絶滅させてしまった事・…等々(列挙の尽きる事が無い感じです…)。
尚以て人間以外は全て所有物化され、「人(?)格」無しの「物」或いは「商品」「私有物」扱い…。
私利我欲の為に人間外に犠牲を強いる。
その正当性・合理性を誇示・説得せんが為の「錦の御旗」「大義名分」の例としては「健康栄養に資するため(・乱獲・生態系の攪乱、等)」「医療の向上(実験台生物をいけにえとする、等)」「生活の質の向上(環境破壊・汚染、資源の濫費、等)」「科学の発展(環境破壊・汚染、資源の濫費、等)」「産業・工業の進歩(環境破壊・汚染、資源の濫費、等)」等が挙げられるかと思います。
問答無用で自分勝手、そして関与対象にコンセンサスすら一切無し。
全く強制無断での自然環境や貴重で尊い生命を持った他生物への、以上の極めて悪逆非道と思える人類の暴虐的諸行、果たして倫理・道徳的な真実の正当性は一体いずこにあるというのですか…。
哲学的且つ倫理学的に鑑みるに道義性に明らかに反しているように強く思います。
地球という惑星・世界はヒト一生物種の独占物などと誰が何の権限を以て決め付けたのでしょうか?
今現在地球は文字通りの、読んで字のごとくの、まさに「無法地帯」と化してしまっています。
(例えば先述も致しましたが、身近な判り易い、想像に難くない凄惨な例として特に家畜や養殖や実験台動物や愛玩動物業界、関連についてはまさに「現代にいまだ猶以て残存する奴隷制度」であります。)
私は人類よりもむしろ、ヒト以外即ち、他生物・自然環境こそ尊ぶべき高尚な存在のように思えてなりません…。
ずっと平和的・共存共生的・青き美しき地球の存続に貢献的で高貴であり、素晴らしく、賛美・称讃すべき存在であると強く思うのですが…。
何と循環型社会の対象化に成功しその永久存続の大切さを提唱して叫んでいる、その御当人御自身こそが諸悪の、根源・犯人・元凶なのですから、こんな皮肉で滑稽な冗談、茶番劇、喜劇は無いです。
そもそもヒト以外、人為・人工の対極、即ち自然・天然・生態系そのものこそが既に立派な完成されている循環型社会ではありませんか!
何か人類の諸々の所業、動態について、ガン細胞のそれ((その存在自体が生物種としての)突然変異(物,体,種)・造反(物,者,体)・もとより害悪源・他組織の破壊・増殖・転移・毒素産生・醜悪、不気味・果ては寄生対象の壊滅死滅と共に自滅・…等々)に非常に酷似していると思いませんか?
「ヒト、人間、全人類、」イコール、「ガン細胞」→図星。どうですか?悔やしくないですか?恥じ入りませんか?
「宇宙船地球号」をヒトという狂人が尊大ぶって尚且つ操作の方法・技術・能力・学識、等の点でド素人の体で、そして航路も分からぬままに気分本意で、何の許可もないままに舵取りを代表・率先している図…。
何とも滑稽です。
勿論「邪性」そのものであります。
私は、人間を慈しむのではなく、むしろ人間以外こそを慈しむべきであるとの信念を抱くに到りました。
そして、「次世代・子孫にこの美しい地球を残そう…云々」ではなく「(ヒト以外の)他生物・自然環境にこの緑多き青き清く美しい地球を残そう・託そう…」が真実の道理では?と思い至りました次第です…。
人類だけが一切全て消滅すればこの地球、きっともっとずっと永・長続き、永持ち、長生きしますよ…。
ここに「「ヒト、人間」としての誇り、ではなく「生物」としての誇り」を持つべき事の提唱を致します。
あと、ヒトにばかりに注視し「人権」ばかりが主張されておりますが、他生物たちのそれに当たるもの(「(他)生物権」?)の「対象化」及びその尊厳と尊重に就いての話題・情報、何故だか殆ど見聞した事がありません。
もう既にその必要性が判り切っている、議論せねばならない重要事項・課題である筈なのに世間の関心からは度外視されている状況…。
はなはだ謎です。
何も決して反語調に申し上げているわけでは御座いませんが、わたくしの思念・自説・持論、哲学的・倫理的・論理的等の側面に於いて、どこかおかしい、欠陥性あり、或いは間違っておりましょうか…?
以上申し上げた諸々の案件(長々と済みませんが…)に対する諸氏の御意向・スタンス・御見解の程、是非御伺い致したいところで御座います…。
尚、私がこのような考えを持つに至りました要因として以下のような因子も無視出来ませんのです…。
自己開示を致しますと、私自身が実体験として疑似的同様の監視(盗撮、盗聴)・拘束・監禁・拘禁・一切の情報の遮断・虐待・実習訓練台・プライバシーの剥奪・アイデンティティーや価値観念の変容の強要(さながら現代版「踏み絵」…)・「フォアグラ」扱い、等の暴虐行為諸々を受けし経緯、いきさつが御座いますので、迫害されているもの(視線の延長上の対象として着眼致しましたものはよくありがちな限られた範疇としての「人種」マイノリティ関連では非ずに、灯台下暗し(或いは世間は意図的に事なかれ、知らぬふりを決め込んで注視しようとしないのでしょうか?)、「人間以外」そのものに他なりません)たちの気持ちがよくわかる(つもりです…)。
(※尚敢えて名誉の為に申し添え、付言を致しておきますと私、「前科者」「服役者」「受刑人」といった類いの者ではありません。)
結果的に私は生存している。
まだましなのでしょう…。
ところが、猶以てそれらのものたちはその殆どがもっと酷い悲劇的結末、即ち「死」という末路を辿りゆく。
「死」という陰惨な暗淵が待ち受けている。
こんな事がまかり通っていて本当に良いのでしょうか。
ただ単純に常識的に(そして利己的・打算的要素も含意して…)「自分がされたら…」と(を)考えるだけでいい、と思いを馳せるだけでいい。
他者・相手の身になって物事を考えるという事、「共感」、「同感」、「同情」、「配慮」、「おもいやり」。
その当該対象は何も「人」に限ったことではあるまい事でしょう。
「人」としてでは無しに「生物」としての誇り、というものを考えるようになった次第です…。
人に限ったマイノリティは言うまでもない事ですが、それ以上の差別・侮蔑・屈辱・暴力・虐待的扱いを受け続けて来ているものたち、即ち、ヒト以外、他生物の「声」「気持ち」「感情」を疑似的に代弁すれば、「不安」「心配」「おそろしい」「こわい」「かなしい」「悲嘆」「つらい」「くるしい」「不快」「いたい」「ひどい」「怒り」「ムカつく」「存在しないでくれ」「いないでくれ」「消え失せてくれ」…等々。
人間に対して生喚起される思いの大半が負の感情である事は誰にでも推知できよう事です。
判り易く言ってしまえば、他生物たちからのヒトへの印象はまさに、かのおぞましい醜悪狂凶暴な、大多量の「ゾンビー」群そのものではありませんか?
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