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(担当S)
※本記事は2017/01/26に投稿した記事に、修正を加えて再投稿したものです。
なんだかMV-22オスプレイが危険な飛行機としてマスコミやネットで大人気ですけども、客観的なデータに基づいてMV-22オスプレイの危険性を冷静に評価したら、大騒ぎするほどの危険な飛行機とは言い難いんですね。
しかし過去には、MV-22オスプレイなんかが顔面蒼白になる程の、超ド級な危険な旅客機と言うものが実在していました。
そこで今回は、危険な欠陥機として認定された旅客機5機を、担当Sの独断と偏見で選んで紹介していきたいと思います。
(1)マクドネル・ダグラス DC-10
DC-10は、飛行機の名門老舗メーカーとして世界に君臨していたダグラス社(当時)が設計・開発を行った、3発のジェットエンジンを持つ大型旅客機です。
この頃のダグラス社(当時)は、ライバルメーカーであるボーイング社やロッキード社と熾烈な開発競争を繰り広げており、このライバル2社は丁度おなじ時期にそれぞれボーイング747(通称:ジャンボジェット)とトライスターと言う大型旅客機を開発中でした。
DC-10の開発の最中、ダグラス社(当時)は1967年に軍用機メーカのマクドネル社と合併して、マクドネル・ダグラス社になります。
当初、ライバルとして目していたボーイング社のボーイング747はDC-10よりも1年ほど早く世に出た上に機体サイズも向こうの方が大きく、そのためマクドネル・ダグラス社は、自社で開発中のDC-10と良く似た旅客機であったロッキード社のトライスターを、直接のライバルとして見做すようになります。
このマクドネル・ダグラス社とロッキード社のライバル争いは熾烈を極め、まだDC-10もトライスターも世に出ていない開発段階の時から、両社は将来の顧客確保の為に賄賂のばら撒きなどを行い、日本でも収賄事件として問題になったロッキード疑惑の原因を、この時に作っています。
賄賂のばら撒きだけに留まらず、ライバルであるロッキード社との差をつけようと焦ったマクドネル・ダグラス社は、DC-10の貨物室の扉に欠陥があったのに、それを知りながら時間の掛かる設計変更や改修を実施せず、欠陥を放置したままトライスターよりも1年早い1971年にDC-10を初就航させます。
しかし、この時に欠陥を放置した事が、後に重大な結果を招きます。
DC-10が就航してから3年後の1974年3月3日、トルコ航空981便のDC-10がパリ近郊に墜落し、乗員乗客346名の全員が帰らぬ人となります。
この事故の原因は、欠陥を放置した貨物室の扉にありました。
トルコ航空981便は、パリのシャルル・ドゴール空港を離陸してから10分後に高度12,000フィート(3,600メートル)まで達し、更に上空へと上昇しようとしましたが、その時に何の前触れもなく突然、貨物室の扉が吹き飛びました。
旅客機と言うのは空気の薄い航空でも乗客が快適に過ごせるように、飛んでいる時は常に室内を与圧しているのですが、飛行機が空気の薄い高い空を飛べば当然、室内と外の気圧の差が大きくなり、貨物室の扉には外へ吹き飛ぼうとする過大な力がかかります。
通常の飛行機なら、貨物室の扉にこのような力かかかっても問題はないのですが、DC-10の場合は貨物室の扉に欠陥があった為にこの力に耐え切れなくなり、遂には吹き飛んでしまったのです。
貨物室の扉が吹き飛んだ際に操縦系統を寸断してしまった事から、トルコ航空981便は操縦不能に陥り、なす術の無いまま地面に激突してしまいました。
実はこの事故の2年前にもアメリカン航空のDC-10が同様の事故を起こしており、その事故の時は優秀なパイロットの機転の効いた操縦テクニックにより幸いにも死傷者は出なかったものの、下手をすれば墜落してもおかしくなかった重大事故でした。
アメリカン航空のこの事故についてはNTSB(国家運輸安全委員会)が詳しい調査を実施しており、この時の事故調査官の一人だったチャック・ミラー氏により、事故原因が貨物室の扉の欠陥にある事が究明されていました。
NTSBは調査官のチャック・ミラー氏の調査報告を受け、マクドネル・ダグラス社に対して改善勧告を行います。
しかしマクドネル・ダグラス社は「DC-10は欠陥機だ」と言う噂が立つのを恐れ、貨物室の扉に対して何も改善策を実施せず、NTSBからの勧告を無視する事に決めました。
こうして将来起こるかもしれない大事故を未然に防ぐチャンスがあったのにも関わらず、欠陥がそのまま放置されてしまい、そして引き起こされてしまったのが、このトルコ航空981便の墜落事故なのです。
前述したチャック・ミラー氏が、フランスの航空事故調査委員局である建物がショボいBEAと共にトルコ航空981便墜落の事故調査に当たりますが、調査の過程でミラー氏は、彼自身が以前提出した調査(※アメリカン航空のDC-10の事故調査の事)報告に基づき、2年前にNTSBが勧告したはずのDC-10の改善要求をマクドネル・ダグラス社が無視し、その結果として346名の尊い命が失われてしまった事実を知ると、激しい怒りに駆られました。
怒りが収まらないミラー氏は、遠回しにマスコミに対してこの事実をリークする事を決心します。
ミラー氏は事故現場にいたジャーナリストの一人に「私なら2年前のアメリカン航空の事故(※貨物扉の破損で起きたDC-10の重大事故)を当たるね」とヒントだけを与えたのですが、このヒントが契機となってマクドネル・ダグラス社の隠蔽体質までがスッパ抜かれてしまい、乗客の安全よりも自社の利益を優先する企業として大きく報道される事となりました。
この報道はDC-10の販売に大きな影を落とし、マクドネル・ダグラス社がDC-10の採算ラインとしていた500機に僅かに届かない446機が生産された所で、DC-10は製造を打ち切られました。
(2)マクドネル・ダグラス MD-11
姿形はDC-10と似ていますが中身は全くの別物で、フライ・バイ・ワイヤ操縦システムによって安全性の向上とパイロットの操縦に関する負担を軽減しています。
またコクピット周辺も、「グラス・コクピット」と呼ばれる現在主流になっているハイテク・コクピットへと変わり、DC-10に比べると大幅な改良が進められています。
マクドネル・ダグラス社としては、欠陥機の烙印を押されたせいで販売が振るわなかったDC-10での汚名を雪ぐべく、このMD-11では大幅なセールス拡大を狙っていましたが、結果的にDC-10の半分にも届かない200機で生産が打ち切られてしまいました。
どうしてこう言う結果になってしまったかと言うと、ぶっちゃけMD-11の性能が悪すぎたからです。
燃費を向上する為にMD-11は水平尾翼の面積をDC-10に比べ30%減少させたのですが、これが裏目に出てしまいました。
この変更によりMD-11は安定性の悪い旅客機となり、乱気流に遭遇するとその安定性の悪さから機体が大きく揺さぶられ、乗務員が死亡する事故まで起こしてしまいます。
死者が出る程の安定性の低下に目を瞑り、燃費向上の為にマクドネル・ダグラス社の技術者は水平尾翼の面積を減少させましたが、実際に燃費を計測すると思ったほど良くなっておらず、MD-11は「経済性が大したことが無いのに安定性が非常に悪い旅客機」と言うレッテルが貼られてしまいます。
既にMD-11の開発段階からこの旅客機を発注していた航空会社も、徐々にMD-11の完成が近づき芳しく無い性能の実態が明るみに出てくると、性能不全を理由にして発注のキャンセルを相次いで行い、当初見込んでいた販売機数が大幅に減ってしまったマクドネル・ダグラス社は窮地に立たされてしまいます。
安定性の悪さについては飛行機全体の重心の位置をズラしてみたり、フライ・バイ・ワイヤ操縦システムによって補ってみたものの、それらの処置を講じても航空会社が満足するようなレベルには達しませんでした。
諸事情により、どうしてもMD-11をキャンセルできずに購入してしまった運の悪い航空会社は、旅客機としては使い物にならないMD-11を貨物機へ転用するか、あるいは貨物機として他の航空会社に転売したりしますが、安定性の悪さが災いし貨物機になってからも何度も重大事故を引き起こしてしまいます。
その内の一件は2009年に日本の成田空港で発生したフェデックス80便の着陸失敗による横転事故で、乗員2名が死亡し、成田空港にとって開港以来はじめての全損死亡事故になってしまいました。
結局、マクドネル・ダグラス社はMD-11の販売不振を挽回できずに経営が傾き、1996年にはボーイング社に吸収合併されてしまいます。
(3)コンベア880/990
ちなみにコンベア880には後継機であるコンベア990も存在しますが、世に出た時期が近い事と基本的に同じ設計を流用した飛行機なので、この記事では主にコンベア880を取り上げて話を進めていきたいと思います。
コンベア880は「世界一速い(当時)旅客機」を謳い文句に、シャレにならない飛行機バカ大空を飛ぶことが大好きな大富豪ハワード・ヒューズ氏の強い意向によって開発され、1960年に初就航を果たしたジェット旅客機です。
普通は戦闘機の開発にしか用いられないエリア・ルールと言う設計手法を使ってまでコンベア880は速度性能を追求しましたが、目標としていた速度については技術的な諸事情から結局達成できず、速度を優先するあまり偏った設計を取ってしまった事が仇となって、経済性や操縦性能が非常に悪い旅客機になってしまいました。
操縦性の悪さは「じゃじゃ馬」と呼ばれて現場から嫌われる程の扱いにくさであり、それと並行して安定性も悪かったので、訓練中の墜落事故で3機を喪失、1機を大破と言う損害を出しています。
このように経済性・安全性の両面で大きな問題があったことから販売面で振るわず、僅か67機が製造された段階でコンベア880は製造中止へと追い込まれました。
コンベア880が初就航した僅か1年後に改良型のコンベア990が初飛行を果たしますが、改良型と言いながらコンベア880と同じ重大な欠点を幾つも引き継いでおり、こちらはコンベア880よりも更に少ない僅か37機で製造中止になりました。
コンベア880とコンベア990は合計しても僅か104機しか製造されなかったので、事故の件数自体は少ないものの、生産機数がもっと多ければ安全性の低い旅客機だった為に、事故の件数も増えたのでは無いかと予想されます。
(4)ツポレフ144
あんまりにもコンコルドに似ていることから、登場した当初からスパイ活動によるコピー説が疑われましたが、こちらの方がコンコルドよりも早く初飛行(1968年)を果たしており、機体のサイズも一回り大きくなっています。
このツポレフ144が登場した1960年代後半から1970年代前半にかけては、未来の旅客機は全て超音速機になると予測されており、旧ソ連もその波に乗り遅れまいと国家の威信をかけて、超音速旅客機の開発に乗り出しました。
しかし開発には難航し、旧ソ連のエライ人が一方的に決めた期日までには、ツポレフ144はとても完成しそうにはありませんでした。
これが旧ソ連以外の国だったら、開発が当初の予定よりも遅れてしまったとしても、開発チームや責任者には何らかの責任が問われはするものの、結局は開発スケジュールを再調整して開発を継続します。
しかし旧ソ連の場合は政府が決めた開発スケジュールは絶対で、そのスケジュールに1日でも遅れたら文字どおり「シベリアで木の数を数える仕事」に就かされてしまいます。
その為、旧ソ連の科学者や技術者は開発スケジュールの遅れを極度に恐れ、自分が開発に携わっている製品や武器、ロケットや飛行機が完成には程遠い状態でも、見切り発車で世に送り出す事がありました。
それは超音速旅客機についても一緒で、当時は超音速旅客機に関しての開発のノウハウなんて誰一人知らなくて、全て手探りで一から開発しなければならなかったのに、そういう状況を理解せずに旧ソ連のエライ人が一方的に開発スケジュールを決めてしまった事から、ツポレフ144の開発チームは決められた開発スケジュールを守ろうと焦り、安全性に対する配慮がどうしても疎かになってしまいました。
旧ソ連のエライ人も、自分達がライバル視していたコンコルドが開発に難航し、当初の予定通りに開発が進んでいなかった事をちゃんと理解していれば、もう少し現実的な開発スケジュールを組めたはずです。
そのような過酷な状況でも、「シベリアで木の数を数える仕事」に就かされたくない科学者と技術者の必死の努力によって、なんとか開発スケジュール通りにツポレフ144は完成しますが、これに気を良くした旧ソ連のエライ人は自国の威信をライバルのコンコルドの開発チームに見せつける為に、1973年に行われたパリ航空ショーにツポレフ144を展示飛行で参加させる事を決めます。
しかし、この展示飛行の最中にツポレフ144はまさかの空中分解事故を起こし、乗っていた乗員6名と墜落に巻き込まれた地上の7名が帰らぬ人になってしまいます。
冷戦中に起きた事故の為、政治的な理由によって原因はハッキリしていませんが、コンコルドを出し抜く事ばかりに重点が置かれて開発を急ぎすぎたせいで、どうしても安全性に対しての配慮が後回しにされてしまい、それが重大事故に繋がったのでは無いかと思われます。
政治的な威信ばかりが優先されて焦って開発されてしまった為に、ツポレフ144は旅客機としての信頼性が乏しく、本来の姿である超音速旅客機として運用される事が殆どないまま、1985年にひっそりと旧ソ連の空から姿を消します。
(5)デ・ハビランド・コメット
出現当時はいかなる旅客機よりも速い時速725キロメートルを誇り、それまでの旅客機よりも遥かに高い高度30,000フィート(10,000メートル)の高空を飛び、将来の空の旅はジェット旅客機が担うだろうと予感させる高い性能をコメットは持っていました。
この当時のコメットのライバルと言えば、時速500キロメートルくらいが出れば精々のプロペラ旅客機ばかりだったので、性能面では大きくライバルを引き離していました。
一時は日本航空も導入を検討し、世界の空を制覇するかに見えたコメットでしたが、そんな独走状態は長くは続きませんでした。
1954年1月10日午前10時51分頃、英国海外航空781便のコメットがイタリアのエルバ島上空で突如、消息を絶ちます。
当時は現在のような発達したレーダー網なんてありませんでしたから、781便に一体何が起きたのか全く分かりませんでした。しかし、たまたま近くを飛んでいた別の旅客機と交信中に突然、消息を絶ったことから、781便の身に何か良くないことが起こったのは明らかでした。
781便が消息を絶ったのと同じ頃。エルバ島の漁師達が空から炎を上げて何かが落ちてくるのを目撃しました。
それは消息を絶った781便の機体でした。
11時15分、781便の身を案じていたローマの航空管制室に、エルバ島の漁師から飛行機が墜落していくのを目撃したと言う連絡が入り、この連絡によって781便が墜落し消息を絶った事が判明しました。
エルバ島の漁師達により、生存者の救出が行われましたが、それは全くの徒労に終わってしまいました。非常に悲劇的な事故だった為に、生存者は一人もいなかったのです。この事故により781便の乗客乗員35名、全員が犠牲になりました。
早速、事故調査が開始されますが、当時は航空事故を調査するためのノウハウがまだ乏しく、また、事故直前までの飛行機の状態を記憶しているフライト・データーレコーダーやコックピット・ボイスレコーダーが実用化される前の事故だったので、残骸などの物的証拠から事故原因を推定するしかありませんでしたが、調査の結果、781便が空中分解を起こして墜落したことは分かったものの、何故、就航して間がない新鋭機であるコメットが、空中分解を起こしたのかまでは分かりませんでした。
この781便が空中分解事故により、コメットは全機、運行停止の処置が取られました。すべての機体に対して精密検査が実施されましたが、この時の検査では特に異常は発見されませんでした。
精密検査で何も異常がなかった事から、3月23日にコメットの運行停止は解かれますが、それから16日後の4月8日に再び悲劇が起こります。
コメットがまたもやイタリア上空で同様の空中分解事故を起こし、この事故により乗員乗客21名全員が命を落とします。
1度ならず2度までも同じような重大事故が連続して発生してしまった事から、事態を重く見たイギリス政府は事故原因が分かるまでコメットは全機、運行停止にする事を決定します。
先の781便の事故が起きてから継続して行われていた事故調査に、チャーチル首相(当時)の命を受けた王立航空研究所が新たに加わることとなります。
こうして事故調査はイギリスの威信をかけたものとなり、コメットの実機を使った大規模な実験により、設計では5万4,000回のフライトにも耐えうるとされていたコメットの機体寿命が、実は約3,000回のフライトで金属疲労により機体にヒビが入ると言う、新たな事実が判明します。
しかし、この実験によってコメットの機体が想定よりも遥かに脆い事は証明されたものの、2度の連続事故が本当に金属疲労によって引き起こされたと言う直接的な証明にはなりませんでした。
それを証明するには、どうしても確かな物的証拠が必要です。
懸命な調査の結果、その物的証拠も遂に見つかり、8月12日にイタリア沖の海底から回収されたコメットの残骸に、金属疲労によって機体が寸断された痕跡が発見された事から、2度の墜落事故が金属疲労によって引き起こされた事が証明されたのです。
10月19日に事故原因の最終報告書が調査委員会に提出され、この報告書に書かれた事故原因が、今でもコメットの正式な事故原因となっています。
コメットは2度の度重なる事故の影響により商業的には失敗してしまいましたが、この連続事故によって近代的な航空事故の調査手法が確立され、今でも空の安全を支え続けている事を考えると、失われた命は戻ってこないものの、非常に意義深い事故だったと言えるでしょう。
…と、言うわけでMV-22オスプレイよりも遥かに危険な旅客機5機でした。
事故率なんかの客観的なデーターを見る限り、MV-22オスプレイは決して危険な航空機じゃないんですけどねぇ…
(2)で紹介した危険な旅客機、MD-11(※現在はすべてのMD-11が貨物機として運用されている)なんかは、日本の空港に毎日飛来してるんですけど、事故が起こらない事を切に祈ります。
++++アプリの宣伝です+++++
ゲームのジャンル的には落ちもの系ゲーム(いわゆる、落ちげー)になります。
指一本で遊べるとても簡単な操作性ながら、ぷよぷよの様な「連鎖反応消し」等のテクニックも使えます。
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[gooブログ]【オスプレイ先生が】旅客機なのに危険すぎ!!シャレにならない欠陥機5選【顔面蒼白】