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【アホかぁぁ!④】世界の大失敗ビフォーアフター事例!【まぁ、なんと言う事でしょう…(涙目】 第4回(5回シリーズ)

2017-07-16 01:20:06 | 歴史

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※本記事は2016/12/23に投稿した記事に、修正を加えて再投稿したものです。


 某テレ朝の人気番組「劇的ビフォーアフター」が何だかよく分からない諸事情により打ち切りになったようですが、この番組には失敗したリフォーム事案と言うのが結構あったみたいです。
 それで打ち切りになったがどうかは分かりませんが、世界には更に凄すぎるビフォーアフターの失敗事例と言うのがあるようです。
 そこで今回は世界の大失敗ビフォーアフター事例を、担当Sの独断と偏見で選んで紹介していきたいと思います。
 
 ■「犯人は誰やぁ!?責任者でてこぉ~い!」世界のぶっ飛び大失敗ビフォーアフター事例 第4回(5回シリーズ)
 
●灯台だった頃の自由の女神像(ニューヨーク)
 アングルと光の当たり方の関係でなんだか恐ろしげな感じになっていますが、上の写真(※PCで閲覧している場合は左の写真)はかの有名なニューヨークの自由の女神像の、1984年以前の姿をカメラに収めたものです。
 パッと見た感じ、現在の自由の女神像と何も変わっていないように見えますが、大きく違う所が一箇所だけあります。それは自由の女神像が掲げている松明(たいまつ)です。
 松明を良く見たら、黒い線が何本も縦や横へと松明を包み込むように走っている事にお気づきになると思いますが、1984年までの自由の女神像の松明はガラス張りになっていて、中に仕込まれた白熱灯と水銀灯からなる合計19,600ワットの照明により満月の2,500倍の明るさで輝いていました。
 実はこの頃の自由の女神像は灯台としても機能していたのです。
 しかし現在は灯台の役割を終え、このガラス張りの松明は1984年から1986年に実施された大規模なリニューアル工事の際に銅のボディの上に金メッキを施したものへ交換されています。
 上の写真(※PCで閲覧している場合は右の写真)は1984年まで使われていた松明を左に、現在の松明を右に配置した比較写真ですが、こうして見ると両者の違いは一目瞭然です。
 では、どうして右側の松明に交換されたかと言うと、ガラス張りの松明には、聞くも涙、語るも涙の数々の欠陥があり、それを見過ごす訳にはいかなくなったので交換を余儀なくされたのです。
 その欠陥を説明する前に、どのような経緯で自由の女神像の松明がガラス張りになったのかを説明させて頂きたいと思います。
 自由の女神像はアメリカの建国100周年にあたる1886年にアメリカとフランスの民間合同プロジェクトとして、ニューヨークのベドロー島(※現在のリバティー島)に建設されました。
 世界的に見ても珍しい高さ46メートルもなる巨大な銅像であり、台座部分まで含めた高さは93メートルにも達し、建てられた当時はニューヨークで一番背の高い建築物でした。
 自由の女神像の製作者であるフランス人、フレデリック・オギュースト・バルトルディは当初、自由の女神像をスエズ運河のほとりに建つ灯台としてエジプトに作るつもりだったのですが、財政上の理由からエジプトからは断られ、紆余曲折を経た末にニューヨークに建設される事が決まりました。
 ですから自由の女神像は最初から灯台として機能するように作られていたのですが、フレデリック・オギュースト・バルトルディが灯台を意図して作った光を放つ松明は設計がイマイチだったので、出来立てホヤホヤの頃の自由の女神像は、灯台としての役目を果たすには十分な性能を持っているとは言い難いものでした。
 当時の自由の女神像の松明を描いたと思われるイラスト(※グロテスクな描写が含まれている為、閲覧注意!)が残されていますが、可哀想な渡り鳥達にとっては満月かと見間違うほどの明るさであっても、灯台として使うには照度的に不十分なものでした。
 それでも24マイル(39キロメートル)先まで松明が放つ光が届いたとの記録が残されていますが、米国灯台理事会からは50マイル(80.5キロメートル)まで光が届かないと灯台としては落第と言われてしまい、1902年に自由の女神像は灯台として使われる事が一度、断念されてしまいます。
 転機が訪れたのは1916年、ある大事件によって自由の女神像が大きな被害を受けた事から、話が大きく動きます。
 自由の女神像があるリバティ島のすぐ隣にブラック・トム島と言う名前の島があるのですが、この島は当時、弾薬庫として使われていました。
 なんとも物騒な話ですが、1916年はヨーロッパで第一次世界大戦で行われていた時期とちょうど重なっており、ブラック・トム島にはアメリカが応援していたイギリスやフランスへ送る予定の大量の弾薬が保管されていました。
 この事実を知ったドイツ(※ドイツはイギリスやフランスと戦争をしていた)の工作員がブラック・トム島に侵入。保管されていた弾薬の全てを爆破します。
 この時の爆発のエネルギーはマグニチュード5.5にも達したとも言われ、100キロメートル以上離れたフィラデルフィアでも揺れが感知されるほどでした。
 目と鼻の先でこんな巨大な爆発がありましたから自由の女神像が只で済むはずが無く、背中には黒い焼き跡が残り、松明を持っている右手は根元からぐらつくほどの被害を受けました。
 早速、復旧作業が開始されますが、この時に灯台としては暗すぎた松明に大幅な改造を施すことが検討されます。
 誰に松明の改造を任せるかと言う話になった時に白羽の矢が立ったのが、後にラシュモア山の彫刻で有名となる彫刻家、ガットスン・ボーグラムでした。
 ボーグラムはそれまでの複数の丸い明かり窓が松明の下の方にサークル状に配置されていたデザインを廃止して、松明そのものをガラス張りにして明るさを稼ぐ事にしました。
 新しくガラス張りになった松明の中には250ワットの白熱灯を246個も取り付けて、合計61,500ワットもの照明で照らす事にしました。これで明るさについてはバッチリです…
 …と、ここで少し思い出して欲しいのですが、1984年頃の松明の中の照明は何ワットだったでしょうか?
 合計19,600ワットでしたよね。
 なのにボーグラムは、この3倍以上もの電力を持つ照明を取り付けようとしていたのです。
 何か悪い予感がしますよねぇ…
 ブラック・トム島の爆発により大きく傷ついた自由の女神像の復旧作業が終わり、新しくガラス張りになった松明に明かりが灯されましたが、すぐに思いもよらなかったトンデモない事実が判明することとなります。
 なんと合計61,500ワットもの強烈な照明が発する莫大な熱のせいで、松明そのものが溶けそうになったのです。
 そもそも普通の灯台に使われる照明はせいぜい2,000ワット位なのに、同じ目的を成し遂げるのに合計61,500ワットもの照明を使うのは、過剰すぎるのもいい所です。
 実は普通の灯台がレンズや反射鏡を上手に利用して光を遠くまで飛ばしているのに対して、ボーグラムが新たに作った自由の女神像の松明はレンズや反射鏡を使わずに、ひたすら強烈な光を作り出して遠くまで光を飛ばそうとしていたので、過剰なワット数の照明を必要としていたのでした。
 この失敗を受けて、普通の灯台のようにレンズや反射鏡を使ったらどうだ、と言う案も出されますが、自由の女神像の美観を損ねるとしてこの案は却下されます。
 結局、松明が溶けないギリギリのところまで照明の電力が落とされる事になり、色んな試行錯誤を重ねた結果、1945年にその後39年間も使われる事となる、合計19,600ワットの白熱灯と水銀灯から構成された照明へと落ち着きました。
 以前のフレデリック・オギュースト・バルトルディ作の松明と比べたらだいぶマシにはなったものの、当初予定されていた明るさに比べたら電力を落とされた分だけ松明は暗くなってしまいました。
 これだけでも何ともトホホな話ですが、実はまだトホホな話がこの松明には残っています。
 ボーグラムが作ったガラス張りの松明は気密が甘く、雨や雪が降ると必ず松明のどこかで雨漏りが発生しました。 
 その為、このガラス張りの松明が撤去されるまでの68年の間、松明から侵入してきた雨水が自由の女神像を内部から腐食させ、末期には大変深刻な問題だと認識されるまでになります。
 1984年から実施されたリニューアル工事で、自由の女神像の腐食を食い止めるにはガラス張りの松明の撤去しか方法が残されていないと判断されてしまい、それまでの光が燦々と輝く松明を諦めて雨漏りを起こさない現在の銅のボディに金メッキを施した松明への交換が決定されてしまいます。
 この時に自由の女神像の灯台としての役目も一緒に終わりを告げたのでした。
 現在の新しい松明の根元にはスポットライトが仕込まれているいるので、夜間になるとライトアップされて輝きますが、以前のガラス張りの松明みたいに松明そのものが燦々と光を放つと言う事は無くなってしまいました。
 世界で最も有名な銅像の一つとされ、トホホ要素とは全く縁が無いように見える自由の女神像にこんなトホホな話が隠されていたなんて、世の中、本当に何があるか分かりませんね。
 
 
 
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【アホかぁぁ!③】世界の大失敗ビフォーアフター事例!【まぁ、なんと言う事でしょう…(涙目】 第3回(5回シリーズ)

2017-07-16 01:20:05 | 歴史
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※本記事は2016/12/14に投稿した記事に、修正を加えて再投稿したものです。
 
 
 某テレ朝の人気番組「劇的ビフォーアフター」が何だかよく分からない諸事情により打ち切りになったようですが、この番組には失敗したリフォーム事案と言うのが結構あったみたいです。
 それで打ち切りになったがどうかは分かりませんが、世界には更に凄すぎるビフォーアフターの失敗事例と言うのがあるようです。
 そこで今回は世界の大失敗ビフォーアフター事例を、担当Sの独断と偏見で選んで紹介していきたいと思います。
 
 ■「犯人は誰やぁ!?責任者でてこぉ~い!」世界のぶっ飛び大失敗ビフォーアフター事例 第3回(5回シリーズ)
 
●ロンドンのドックランズ(イギリス)
 今回のビフォーアフター案件は、リフォームの内容が悪かったと言うよりも時代の方が勝手にワープしてしまい、その時代の変化についていけなかったイギリスの可哀想な港湾施設のお話です。
 話は20世紀の初めの頃まで遡ります。
 その頃のイギリスは名実ともに世界一の大国で、イギリスからは多くの工業製品が世界中へ輸出される一方、世界中からは様々なモノがイギリス国内へと入ってきていました。
 大国であるイギリスの海外からの物流を陰から支えていたのがロンドンの港湾施設で、かつて世界一の規模を誇ったロンドン港は海外からやってくる大量の物品を捌いていました。
 ロンドン港で貨物船からの荷下しの主役を果たしていたのが、ドックランズと呼ばれる港湾用のクレーンたちです。
 第二次大戦が勃発するとドックランズに、ロンドン港が港として開港して以来の最大の危機が訪れます。
 大戦初期に起きた有名な戦いであるバトル・オブ・ブリテンで、ドイツ空軍に目を付けられたドックランズは激しい爆撃を受けたのです。
 大きな被害を被ったドックランズに対しすぐさま復興作業が開始されますが、その作業が完全に終わったのは1950年代に入ってからでした。
 復興作業が進む中でドックランズのクレーンは、以前のものよりも大型のものへと付け替えられます。
 この章の冒頭の写真に写っているクレーンが現在のロドックランズのクレーンなのですが、戦前に撮影されたと思われる上の写真(※PCで閲覧している場合は右側の写真)に写っているクレーンと比較すると、その大きさは一目瞭然です。
 クレーンの大型化によって効率的な荷下しが出来るようになったので、貨物船の船長たちからは歓迎されました。
 当時の貨物船は貨物をバラ積みしていたのですが、それだと荷下しをするのに何日も掛かるので、何処の港でも貨物船は長い列を作って荷下しの順番を待っていました。
 先に着いた貨物船の荷下しが完全に終わらないことには、後から来た貨物船は荷下しどころか何もする事がないので、下手すると何週間も港でただただ無作為な時間を過ごす事もありました。
 しかし新しく設置された大型のクレーンなら、どんなに大量のバラ積みの貨物が来ても以前よりも短時間で荷下しができるので、貨物船の順番待ちの時間はかなり短縮されます。
 イギリスは戦争により大きく傷つきましたが、こうしてリニューアルされ、以前にも増して海外からの貨物を受け入れる能力を備えたドックランズは、イギリスの経済の再建の為に今後も物流を陰で支え続けることでしょう…
 …とは、なりませんでした。残念ながら。
 ドックランズは戦後に一瞬だけ輝いたあと、すぐにドン底に叩き落とされました。
 どうしてそうなってしまったのか、その理由については大きく分けて三つ考えられますが、最大の要因は船舶用のコンテナの登場が挙げられるでしょう。
 船舶用のコンテナは1954年にアメリカの実業家、マルコム・マクリーンによって発明されたと言われていますが、それまで貨物をバラ積みしていた貨物船の世界に革命的な変化をもたらしました。
 従来とは大きく異なり、貨物船は港で待っている鉄道車両やトラックに、クレーンを使ってコンテナごと貨物を移し変えてもらえるようになったので、荷下しの時間が大幅に短縮されました。
 それまでの貨物をバラ積みする方法だと、貨物船から貨物を下ろした後でも沢山の人手を使って貨物を仕分ける必要があったのですが、これも船舶用のコンテナの登場によって不要になりました。
 上の写真(※PCで閲覧している場合は右側の写真)は、ドックランズが繁栄していた頃の写真ですけど、見て分かる通り、沢山の労働者が貨物の仕分けをしています。
 ドックランズに新設された大型クレーンは、この古いやり方に対しては十分過ぎるほどの能力を持っていたのですが、残念ながらコンテナを効率良く捌くのには向いておらず、船舶の貨物の主流がコンテナになると、貨物船を所有している船会社からドックランズは敬遠されるようになりました。
 その上、ドックランズ周辺の水深は、現代の基準で見ると浅いと言わざる得ず、大型化が進む一方だった新型の貨物船にとって、ドックランズは入港すること自体が困難な場所になります。
 更に悪い事に、20世紀初め頃までは世界経済の中心国だったイギリスも、もうこの頃になると経済力でアメリカに引き離され、チャーチル(※第二次大戦時のイギリスの首相)が悪魔だと呼んで馬鹿にしていたソ連に対してすら経済力で負けてしまいます。その後は敵国だったドイツや日本にも、経済力で水をあけられます。
 経済力が低下すれば当然、貨物の流通量も落ちますから、コンテナに十分な対応が出来てない上に水深が浅いドックランズで、無理をしてまで下ろしたい貨物そのものが無くなってしまいました。
 海外からロンドンに届いた貨物は、全てティルバリー(※同じロンドン港にある、コンテナ対応のドック)か、水深の深いフェリックストー(※ロンドン港に程近い所に位置する港)で降ろされるようになり、ドックランズは一挙に落ちぶれてしまいます。
 新設された大型クレーンは、その能力を十分に発揮する機会すら与えてもらえないまま、次々と操業停止に追い込まれました。
 最後まで操業していたクレーンも1980年代までには操業を停止し、かつてイギリス経済の繁栄のシンボルだったドックランズは廃墟と化したのです。
 戦中から戦後にかけてドックランズで行われたリニューアルの内容自体は、取り立てて大きな問題点はありませんでした。
 しかし戦後の船舶用コンテナの爆発的な普及や貨物船の急速な大型化など、ドックランズがリニューアルされた頃には予想もつかなかったような事態が重なって起きてしまいました。
 ドックランズからすれば時代がまるで自分をワープして飛び越えて行ったような感じで時代から取り残されてしまい、十分に港湾施設としての能力を果たせないまま最期を迎えてしまいました。
 もし船舶用コンテナの出現や貨物船の急速な大型化がもう10年早く起きていれば、ドッグランズもコンテナに対応したクレーンを設置したり浅すぎる水深を海底を掘るなどして深くするなどの対応が出来て、結果は違っていたのかも知れませんが、こればっかりは運が悪かったとしか言えません。
 
 
 
 


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【アホかぁぁ!②】世界の大失敗ビフォーアフター事例!【まぁ、なんと言う事でしょう…(涙目】 第2回(5回シリーズ)

2017-07-16 01:20:04 | 歴史

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※本記事は2016/12/13に投稿した記事に、修正を加えて再投稿したものです。
 


 某テレ朝の人気番組「劇的ビフォーアフター」が何だかよく分からない諸事情により打ち切りになったようですが、この番組には失敗したリフォーム事案と言うのが結構あったみたいです。
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 ■「犯人は誰やぁ!?責任者でてこぉ~い!」世界のぶっ飛び大失敗ビフォーアフター事例 第2回(5回シリーズ)
 
●ウィンチェスター・ミステリー・ハウス(アメリカ)
 一見すると普通のお屋敷のように見えますが、このお屋敷は38年間も増改築され続けたのにも関わらず、中は欠陥だらけなのです。
 どうして、そうなったかについての理由は後ほど説明するとして、まずは数々の欠陥内容を紹介していきたいと思います。
 びっくり仰天するような欠陥が、このお屋敷には満ち溢れているのです。


 
 
【欠陥1】階段の先が行き止まり
 これは酷い!
 何をどう間違えたら、こんな事になるのでしょうか?
 なかなか凄い欠陥ぶりです。
 
 

【欠陥2】複雑すぎる構造の階段
 写真は階段を横から見たところですが、右や左に方向転換しすぎです。
それに、こんなに傾斜が緩いのも意味不明です。
 こんな階段では1階から2階に上がるだけでも、結構な時間がかかりそうです。
 全く訳が分かりません。

 

 
【欠陥3】扉を開けたら、そこは空中
 これも酷いです。
 下手したら下に転落する恐れがあります。
 大きなお屋敷では家具などの搬入用に、こう言う扉が設けられる事がありますが、もし言う事が目的で設けられた扉ならウィンチや滑車を掛ける為の突起が何処かにあるはずです。
 しかし、この扉には、そう言った突起が見当たりません。
 これは建築業者が、間違った所に扉を設置したからでしょう。

 

 
【欠陥4】扉を開けたら、そこは壁
 これも酷いです。扉を開けたら壁なんて、扉の意味をなしてません。
 この扉を付けた人は、一体何を考えていたのでしょうか?

 
 

【欠陥5】何故か床に窓
 一見すると天窓のようにも見えなくもないですが、天窓の周囲に普通、手すりを付けたりはしません。
 これは明らかに、床に間違えて窓を取り付けてしまっているのですが、一体なにをどう間違ったらこんなミスを犯すのでしょうか?
 



 
…と、ウィンチェスター・ミステリー・ハウスは、なかなかハイレベルな欠陥を幾つも抱えているお屋敷なのですが、これらの欠陥の全てが、実は意図してその様に造られたんだ言われたら、あなたは信じられるでしょうか?
 このウィンチェスター・ミステリー・ハウスは、「ウィンチェスターライフル」の販売で一財産を築いたウィリアム・ワート・ウィンチェスターの未亡人、サラ・ウィンチェスターが建てたお屋敷なのです。
 サラ・ウィンチェスターは1866年に娘のアニーと死別し、更に1881年に夫にも先立たれ、ショックと深い悲しみのあまり、すっかり精神が参ってしまい、友人に紹介してもらった霊媒師に救いを求める様になります。
 しかしその霊媒師は、サラに思いもよらない様な不吉な事を告げます。
 霊媒師によると娘や夫がサラより先に死んだのは呪いのせいであり、その呪いは「ウィンチェスターライフル」によって命を落とした数千もの人々の霊によるものであると。そしてその数千もの霊たちは、今も虎視眈々と復讐のチャンスを窺っているのだと。
 現代なら、この手の話を信じやすい人ですら馬鹿馬鹿しいと鼻で笑ってしまいそうな話ですが、サラが生きた19世紀後半は降霊術とかが真面目に科学の一分野として研究されていた事があり、その影響もあってか霊媒師の話をサラは真実を述べているのだと信じてしまいます。
 恐ろしくなったサラは霊媒師にどうすれば呪いから逃れられるのかを尋ねると、霊媒師はサラにこう告げました。
 「西に行き、自分自身と霊たちを慰める為の屋敷を建てるのです。屋敷の建設を決して止めてはなりません。もし止めたら、死は速やかにあなたの元に訪れるでしょう」
 この霊媒師の助言に従い、サラはそれまで住んでいたコネチカット州のニューヘイブンからカリフォルニア州に引っ越すと早速、霊たちを慰める為の屋敷の建設に乗り出します。
 実は、この霊たちを慰める為に建てた屋敷と言うのが、ウィンチェスター・ミステリー・ハウスなのです。
 霊たちの復讐を常に恐れていたサラは、屋敷を立てる時にあるアイデアを盛り込む事にしました。それは屋敷中を迷路にして、サラに復讐しようとする霊が屋敷内に入ってきても迷ってしまい、決してサラがいる部屋には辿り着けない様にすると言うアイデアです。
 そのせいでウィンチェスター・ミステリー・ハウスには、訳の分からない行き止まりや、意味不明な階段や扉が幾つも作られました。
 こんな迷路みたいな構造をしているのに、サラは自分の身の回りの世話させる為に使用人を雇っていたそうです。こんな構造の屋敷では、使用人はさぞ大変だったでしょうね。
 霊媒師に言われた通り、サラは自分自身が亡くなるまでの38年間、ウィンチェスター・ミステリー・ハウスの建設を休む事なく続けましたが、サラが亡くなると遺族はこの屋敷を気味悪がって放棄しました。
 それから数十年間は住む者もなく、荒れるに任せるままになっていたのですが、1950年代にひょんな事からウィンチェスター・ミステリー・ハウスがテレビに取り上げられるとアメリカ中で有名になり、歴史的な財産と見なされるようになった事から、痛みが激しかった屋敷の本格的な修復作業が実施されました。
 今ではすっかり綺麗なお屋敷になり、カリフォルニア州の貴重な観光資源の一つになっています。
 しかし、一歩間違えれば(一歩間違えなくても)幽霊屋敷だと思われかねないウィンチェスター・ミステリー・ハウスを、歴史的な財産として扱ってしまうのはアメリカらしいと言うか何と言うか…
 
 
 
 
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【アホかぁぁ!①】世界の大失敗ビフォーアフター事例!【まぁ、なんと言う事でしょう…(涙目】 第1回(5回シリーズ)

2017-07-16 01:20:03 | 歴史

2910

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●ドイツのケルン大聖堂
 今回は写真を敢えてどアップにしています。
 何故かと言うと、遠くから見ると”このぶっ飛んだビフォー・アフター”は意外にマトモに見えてしまうからです。
 しかし近くから見ると…
 写真を見ても分かる通り、これは教会なんでよく見かけるステンドグラスなんですが、普通、ステンドグラスと言うと、聖書の物語とかが写実的にカラフルに描かれているのが一般的です。
 しかし、このステンドグラスは、どっかの酔っ払いが適当に色付きのタイルを選んでハメ込んだだけじゃないのかと、錯覚してしまう程、適当なやっつけ仕事で作られた様な見た目をしています。
 とてもプロの仕事のようには思えませんが、実はゲルハルト・リヒターと言う欧州では名の知れた現代芸術の画家の作品なのです。
 そう言われても、担当Sのような現代芸術がイマイチ理解できない人間の目には、どっかの酔っ払いの所業の様にしか見えませんが…
 そうは言っても、21世紀になって建てられた新しい教会になら、これもアリではないかとは思いますが、問題はこれが世界遺産にもなっているケルン大聖堂のステンドグラスであると言うこと。
 実はこのステンドグラス、21世紀に入ってから新たに作り直されたものなのです。
 現在のケルン大聖堂は1284年に建築が始まり、完成したのは600年以上も後の1880年でした。どうして、こんなに時間が掛かったかというと、建設中に宗教革命が起こって建設資金が無くなったり、その他にも社会情勢の変化に翻弄され、なかなか工事が進まなかったからです。
 このケルン大聖堂は彫刻とかが細部まで凝って作られているので、社会情勢とかが邪魔しなくても建築には相当時間が掛かったでしょうが、それでも600年は時間が掛かりすぎです。

 完成した当時のケルン大聖堂には、常識的なデザインのステンドグラスが嵌められていました。

 上の写真(※PCで閲覧している場合は右側)は、ケルン大聖堂に今も残っている19世紀当時に作られたステンドグラスの一部ですが、非常に普通なデザインをしています。
 しかし第二次世界大戦の時に行われた空爆により、ケルン大聖堂は大きな被害を受けます。
 この時に19世紀の意匠を凝らした貴重なステンドグラスの幾つかが、跡形もなく破壊されてしまいます。
 戦争が終わると、すぐに復旧作業が行われますが、かなり応急的な修復だったらしく、廃墟に転がっていた質の悪いレンガがそのまま再利用されたりしました。
 そんなやっつけ仕事でしたから、破壊されたステンドグラスは当然、手付かずのままでした。
 本当の意味でのケルン大聖堂の復旧作業が始まったのは、1990年代に入ってからでした。
 この時「前回の復旧作業で手付かずだったステンドグラスをどうするか?」と言う話になり、どうした訳か現代芸術の画家にデザインを依頼する事になったのですが、そのデザインを任されたと言うのが、冒頭の方でお話したゲルハルト・リヒターでした。
 この新しいステンドグラスのデザインを依頼された、ゲルハルト・リヒターが取ったデザイン手法と言うのが、かなりぶっ飛んでいて、まずステンドグラスを幾つかのマス目に区切った後、"サイコロ"を振ってマス目を塗り潰す色を決めると言うものでした。
 もっとも、本当に"サイコロ"を振った訳ではなくて、同じような動作をするコンピューター・プログラムを使って塗り潰す色を決めたそうですけど、本質的には"サイコロ"を振っているのと何の違いもありません。
 使用する72色の色を決める際には、ケルン大聖堂に残っていた伝統的なデザインのステンドグラスを参考にしたそうですが、余りに斬新すぎるデザインだった為に、2007年にゲルハルト・リヒター作の新しいステンドグラスが公開されると、そのデザインに対して激しい賛否両論の議論が巻き起こりました。
 賛成意見としては「現代的でいい」「伝統は感じないが、コレはコレでなかなかイケている」と言う意見が多かったようですが、伝統を重んじる人や宗教関係者の大半はこのデザインにノーを突きつけました。
 ケルン大司教のヨアヒム・マイスナー枢機卿は、よっぽどこのデザインに対してご立腹だったのか、新しいステンドグラスのお披露目会に招待されていたのにも関わらず姿を現しませんでした。
 担当Sは芸術分野に関しては全くのど素人で、偉そうに意見する立場にはないんですけど、ゲルハルト・リヒターが取ったデザイン手法には個人的に疑問を感じます。
 コンピューター・プログラムを使ったとは言え、"サイコロ"を振るのと同じ原理で新しいステンドグラスに使われる色を選んでいるので、ITとかSEとかをやってる人ならコンピューターに色を自動的に選ばせるなんて事は苦も無く出来てしまう為に、別にゲルハルト・リヒターで無くても同様なデザインは簡単に出来ます。
 でも、「コンピューター・プログラムを芸術に取り入れる事を思いついたのは、ゲルハルト・リヒターの独創やね」と一応は擁護してあげたい所ですが、残念ながらアイデア的にも平凡だと言わざる得ません。
 昔、TVゲームの性能が今よりもうんと低くて表現力も非常に乏しかった頃、ステンドグラスのようなモノを表現する場合、その乏しい表現力を誤魔化すために、ゲルハルト・リヒターが取ったのと同じような手法でステンドグラスを描いていました。しかも、大半のゲーム開発者が同じような事をしていましたから「モザイクのステンドグラス」は、誰でも比較的容易に思いつくアイデアであり、まったく目新しさを感じません。
 今回のビフォーアフター案件は「芸術とは何か?」と、ちょっと考えさせられてしまうような、ケルン大聖堂のビフォーアフターでした。
 
 
 
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【なんじゃこりゃ?⑩】世界の大失敗発明品10選【理解できん!】 最終回(10回シリーズ)

2017-07-16 01:20:02 | 歴史
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※本記事は2017/01/12に投稿した記事に、修正を加えて再投稿したものです。

 
 世の中の発明品の中には、作っている本人は大真面目でも、端から見ると「……」としか言いようの無い発明品が数限りなくあります。
 そこで今回は、そう言った発明品の中でも、特にぶっ飛んだ発明品を、担当Sが独断と偏見で選んで紹介していきたいと思います。
 
 
 
■「これはアカンやろぉ…」思わずドン引きする世界のぶっ飛んだ発明品10選 (10回シリーズ 最終回)
 
●ソビエト流、超大型貨物空輸法
 今回で最終回となる「世界の大失敗発明品10選」ですが、全シリーズを通して読み返してみると、ぶっ飛んだ発明品の多くがイギリスと旧ソ連に集中している事が分かります。
 政治的にも歴史的にも対立する事が多いこの2カ国ですが、何らかの問題を解決するアプローチについては実は一緒の国なんではないか?と思う程に良く似ています。
 アメリカもたまに変な物を発明しますが、イギリスと旧ソ連が生んだ多くの珍発明の前では、アメリカの珍発明なんて霞んで見えてしまいます。
 だからと言う訳ではありませんが、このシリーズの大トリを務めるのも、やっぱり旧ソ連の発明品です。
 前回はイギリスの発明品がトリを務めましたから、大トリは旧ソ連で決定です。
 なんだか良く意味が分からないトリと大トリの判断基準ですが、そういう細かい事は取り敢えず気にせずに話を進めていきたいと思います。
 突然ですが皆さんは、旧ソ連のスペースシャトル計画と言うのをご存知でしょうか?
 スペースシャトルと言えば、宇宙開発とかの話題に関心がない人ならアメリカが作った宇宙ロケットだと思うのが普通ですが、実は旧ソ連もスペースシャトルを製作して実際に宇宙に打ち上げた事があります。
 実は、冒頭の写真の巨大な飛行機の上に、ちょこんと子亀のように乗っている飛行機が、旧ソ連版のスペースシャトル「ブラン」なのです。
 上の写真(※PCで閲覧している場合は右の写真)が、その「ブラン」が宇宙への打ち上げ準備をしている時の写真なのですが、なんだか見た目はアメリカのスペースシャトルと区別がつかないですよね…
 「コレ、アメリカ旅行に行った時に撮った写真やねん!」と言われたら100人中100人は恐らく信じてしまうと思います。
 旧ソ連のスペースシャトルは、アメリカから遅れること7年後の1988年に初飛行を果たしているので、当初から「アメリカのスペースシャトルのコピーでは無いか?」と言われていました。
 外見はソックリでも打ち上げ方法などの中身の方はかなり異なるので「コピーと言うのは言い過ぎではないか?」と言う意見もありますが、これ以上この話を続けるのは本題から逸れるので、このあたりでやめておきます。
 この旧ソ連版のスペースシャトルの開発が始まったのが1970年代末なのですが、開発が始まるとすぐにある問題に突き当たります。
 それは、スペースシャトルを打ち上げる場所として予定していたバイコヌール宇宙基地と旧ソ連国内に散らばるロケット工場が余りにも離れており、スペースシャトルの各部品を迅速に運ぶ方法が無いことに事に旧ソ連のエライ人は気がついたのです。
 それまでも旧ソ連はバイコヌール宇宙基地から宇宙ロケットを打ち上げていたのですが、今までの宇宙ロケットは何とか飛行機で空輸できるサイズでした。
 ところがスペースシャトルは、オービターと呼ばれる人間が乗り込む部分だけでも36メートル以上はあり、打ち上げ用のロケットに至っては全長が59メートル。小さな部品に分割して空輸しようとしても、各部品のサイズが大きすぎて従来の飛行機では無理でした。
 そこで開発されたのが、冒頭の写真に写っている大きい方の飛行機、その名も「アントノフ225」で、世界で一番重たい超巨大な飛行機にも関わらず軽快な飛行性能を誇り、輸送用の飛行機としても非常に優れたものでした。
 この「アントノフ225」が開発された事によって、旧ソ連のエライ人の頭を悩ましていた問題は根本的に解決されたのです…
 …と言いたいところですが、「アントノフ225」は開発が遅れに遅れ、結局「アントノフ225」が初飛行をしたのはソ連版スペースシャトルが初飛行したのと同じ年の1988年になってしまいました。
 当然、「アントノフ225」はソ連版スペースシャトルの開発計画に殆ど何の貢献もしていません。
 じゃぁ、それまでどうやってスペースシャトルの部品を運んでいたのかと言えば、「VM-T」と言う名前が付けられた飛行機で部品を運んでいました。
 旧ソ連のエライ人は「VM-T」と言う飛行機を開発する時に、開発期間を短縮するために既存の飛行機を改造して使う事を思い付きます。
 上の写真(※PCで閲覧している場合は左の写真)が「VM-T」のベースとなった「M-4」と呼ばれる爆撃機ですが、一見すると何の変哲も無い飛行機に見えますね。
 実はこの「M-4」はエンジンの性能が悪く、飛行できる距離が短かった為に、軍ではお荷物扱いされていました。
 そのお荷物であった「M-4」を有効活用する為に、旧ソ連のエライ人はこの飛行機に各種の改造を施して、超大型貨物を空輸できる「VM-T」にする事を決定します。
 主な改造点としては、垂直尾翼と呼ばれる飛行機が空を飛ぶ時に安定を保つための重要な部品を、それまでの1枚から2枚に増やして、更にサイズも大型化しました。
 そして飛行機の背中には、何故か車のルーフキャリーみたいな部品を取り付けました。
 どうしてルーフキャリーみたいな部品を取り付けたのかと言うと、そこに専用にあつらえた空輸用コンテナを載せようと思ったからです。
 こうして完成したのが、超大型貨物の空輸を可能にする夢の飛行機「VM-T」でした。
 上の写真(※PCで閲覧している場合は右の写真)が、その「VM-T」なんですけど、これは一体…
 皆さんが今、何を思っているのか、だいたい察しが付きますので当ててみましょうか?
 「これ、ホンマに空を飛ぶの?」
 と思ったんでしょう。
 どうですか?当たってますよね?
 もぉ、どこからどうツッコメばいいのか途方に暮れますが、恐らく誰がどう見ても、やっつけ仕事で作られた飛行みたいな"何か"にしか見えません。
 それでも気を取り直して、「VM-T」についての解説をして行きたいと思います。
 飛行機と思われる部分の背中に取り付けられている円筒形の巨大なタンクみたいなのは空輸用のコンテナで、これはボルトや溶接でガッチリ固定して取り付けられている訳では無いので脱着する事が可能です。
 実は「VM-T」の本体は飛行機の部分だけなんですね。
 「VM-T」は普通なら誰でも考える、飛行機のサイズを大型化する事によって大きな荷物を運ぼうと言う常識的な発想を捨てて、ただひたすら巨大な空輸用コンテナを運ぶ事を念頭に置いて作られたコンテナ輸送専用機なのです。
 でも、この空輸用コンテナ、どう見ても「VM-T」の胴体の直径より一回りは大きく見えますよね。
 こんなやっつけ仕事で作ったような飛行機が、本当に空を飛ぶんでしょうか?
 それがどうした訳か飛ぶんですよコレが。
 上の写真(※PCで閲覧している場合は左の写真)は先に紹介した「VM-T」の写真とアングルが殆ど一緒なので、まるでコラのように見えますが、これは本当に「VM-T」が空を飛ぶところを写した写真です。
 この「VM-T」の飛ぶ様子を見たアメリカやヨーロッパの飛行機の専門家は、腰を抜かすほどビックリ仰天しました。
 専門家の人も普通の人も気になるところは一緒みたいで、どう見ても「VM-T」の胴体より一回り大きい空輸用コンテナを、どうしてそれを担がせて飛ばそうと思ったのか?それを専門家の人も気にしていました。
 実際、「VM-T」は非常に操縦がし難い飛行機で、それは別に専門家でなくてもその姿形を見ればだいたい想像が付きますが、専門家が気にしたのはそこでは無く「本当にそれしか解決方法がなかったのか?」と言う点について気にしていました。
 冒頭の写真で紹介した「アントノフ225」も同じ旧ソ連が作った飛行機ですが、飛行機で大きな荷物を運ぼうと思ったら「アントノフ225」のように機体を大型化するのが普通です。
 アメリカやヨーロッパでも超大型貨物を空輸する飛行機を開発する時に、「VM-T」のような従来の飛行機を改造するケースもありますが、それらの改造機は例外無く胴体がかなり太く改造されています。
 旧ソ連でもやろうと思えばアメリカやヨーロッパと同様に、従来の飛行機の胴体を太く改造する事はできたのですが、どうした訳か旧ソ連のエライ人はその選択肢を選びませんでした。
 しかし無茶苦茶な事ばかりを発案したり選んだりする旧ソ連のエライ人も「アントノフ225」が登場してからは、流石に「VM-T」は性能不全の飛行機だと思ったのか、政府が絡むお仕事では殆ど使用されなくなりました。
 ところがソ連邦が1991年に崩壊すると「アントノフ225」の製造メーカーが現在のウクライナにあった事から、旧ソ連の直接の後継国家であるロシアの手からは離れてしまいました。
 ソ連邦崩壊後のロシアは10年以上もドン底状態の経済が続いたので、超大型貨物を空輸する余裕なんてありませんでしたが、プーチン政権が成立するとドン底だった経済が上向き始め、中進国程度の経済状態までなんとか回復しました。すると、ロシア国内で超大型貨物を空輸する必要性が僅かながら出てきました。
 そこで、ロシアのエライ人が集まって「超大型貨物をどうやって空輸しようか?」と言う話になった時に白羽の矢が立ったのが、なんとあの「VM-T」でした。
 一度は隅っこに追いやられた「VM-T」でしたが、現在のロシアには他に適当な超大型貨物の空輸法と言うのが存在しない為に、まさかの大復活を遂げました。
 と、言っても、空輸してまで運びたい超大型貨物そのものがあんまり無いので、そんなに活躍はしていないようですが…
 大事故が起こる前に、いい加減使用するのをやめた方がいいのでは…と思うのは、決して担当Sだけでは無いと思います。



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 [gooブログ]【なんじゃこりゃ?】世界の大失敗発明品10選【理解できん!】 最終回(10回シリーズ)