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(担当S)
偉人と言うと何だかトンデモなく完璧な人物だと思われたり、周囲の人が過剰に祭り上げたりするものですから尚更、完璧な人物としてのイメージが膨らんでしまう傾向にあります。
しかし偉人も人の子、偉くなる前は普通の人のように失敗もすれば間違った判断で行動したりもしますし、偉くなった後でもベソをかいたりドジを踏んだりする事もあります。
そこで今回は、偉人の知られざる意外にお茶目でトホホな面に焦点を当てながら、担当Sの独断と偏見で5人の偉人を紹介していきたいと思います。
■「なんでや!なんで原因不明の病で兵士や国民がバタバタ倒れて行くんや!(意訳)」"スペイン風邪"の脅威に勝てなかった、3人の皇帝
[写真]"スペイン風邪"の患者で溢れ返る米カンザス州の病院
自称・他称を問わず21世紀の今日において"皇帝"の称号を頂く国家元首は、日本の天皇陛下しかいませんが、20世紀の初めには8人も"皇帝"の称号を頂く国家元首がいました。
その8皇帝を、国名のアイウエオ順に列記すると
インド皇帝(※イギリス王が兼任)
エチオピア皇帝
オーストリア皇帝
オスマン帝国皇帝(スルタン)
清国皇帝
天皇陛下
ドイツ皇帝
ロシア皇帝
と、なります。
しかし、この8皇帝の中の4皇帝は第一次大戦がきっかけとなって退位、もしくは処刑されてしまいました。
4皇帝の中で最も悲劇的だったのがロシア皇帝のニコライ2世で、ボルシェビキに子供の命だけは助けてくれと嘆願したのにも関わらず、一家全員が処刑されてしまいました。
当時のヨーロッパは、各王室(皇室)同士で何らかの婚姻関係や血縁関係があったので、ニコライ2世を問答無用で処刑したボルシェビキと共産主義革命に対して、多くのヨーロッパの各王室(皇室)は凄まじい嫌悪を示しました。
と、言ってもロシアで政変(※ロシア革命の事)が起こった時には、既に第一次大戦が勃発していて、ドイツ皇帝とオーストリア皇帝はロシアと敵対していましたから、どこまでニコライ2世に対して同情していたのかは未知数の部分がありますが…ドイツ皇帝のヴィルムヘルム2世なんかは、個人的な感情で社会主義者鎮圧法(※1878年に制定)を廃止に追い込んでいますからね…
さて残る3皇帝についてですが、これらの皇帝は例外なく第一次世界大戦で負けた側の国の皇帝で、傍目から見ると敗戦の責任を問われるような形で退位しています。
その3皇帝の名前を、国名のアイウエオ順に挙げると
オーストリア皇帝のカール1世
オスマン帝国皇帝(スルタン)の
メフメト6世
ドイツ皇帝のヴィルムヘルム2世
になります。
世界史に疎い人だと「オスマン帝国って何それ?食べれるの?」状態でしょうが、オスマン帝国とは現在のトルコの事です。
近代の初めの頃のトルコ(オスマン帝国)は、イスラム教の国でありながらヨーロッパの全ての国が束になっても敵わないほどの軍事大国で超大国だったのですが、18世紀頃から衰退し始め、20世紀に入ると「瀕死の病人」とまで言われるほどになってしまいます。
オーストリア(※"オーストラリア"ではない)は、現在では帝国という雰囲気が一切ないですが、第一次世界大戦が始まるまでは「5大国」と言う、ヨーロッパで最も強い5つの国の1カ国に数えられていました。
当時、世界の中心地だったヨーロッパで最も強い国と言う事は、世界でも最も強い国と言うのと同意義でした。軍事的にも、かなり強い国だったのです。
それが今では国名が良く似た"オーストラリア"の方が有名になってしまい、よく間違われる事から、内陸国であるオーストリアの国境沿いには上の写真(※PCで閲覧している場合は右の写真)のような自虐的な標識までが立てられてしまっています。
標識の下には「オーストリアにはカンガルーはいませんよ!」と書かれているのですが、国名が紛らわしいと思うのはどうやら日本人だけじゃないみたいで、"オーストラリア"大使館に行こうとしたヨーロッパの一般市民が、間違えてオーストリア大使館を訪問してしまう事が多々あるそうです。
余りにもよく間違われるので、オーストリア大使館は頭を抱えているとか…
で、話を戻しますけど、先ほど紹介した3皇帝は、第一次大戦ではお互いに味方同士でした。
この3ヶ国は相当の戦上手な国だったので第一次大戦ではしぶとく粘り、なかなか勝敗が付きませんでした
主な敵国はイギリスやフランスなどの、当時、世界中にいっぱい植民地を持っていたリッチマンな国ばかりで、物量的には3皇帝の国はかなり押されていました。
その上、戦争が始まってから3年目の1917年には、大国として頭角を現してきたアメリカまで参戦してきて、もともと物量では押されていたのに、それに輪をかけて圧倒され始めます。
これで決着がついたか、と思われた第一次世界大戦でしたが、それでも3皇帝の国は根を上げません。
しかし、永遠に膠着状態が続くかと思われた1918年の5月頃に、状況が一変する予想もつかなかったような事態が発生します。
なんと未知の伝染病が両軍の国で大流行して、兵士や国民がバタバタと倒れ行き、この病に罹った者は殆どの場合、看護の甲斐もなく命を落としていきました。
これが後に言う"スペイン風邪"の大流行です。
現在ではインフルエンザの一種類だったと言われている"スペイン風邪"ですが、1918年から1919年にかけて猛威をふるい、一説では全世界で5,000万人が"スペイン風邪"によって命を落としたと言われています。
第一次世界大戦では戦争により3,700万人が命を落としたと言われていますが、実はこの内の3分の1の人が"スペイン風邪"で命を落としています。
ちなみに何故"スペイン風邪"と言う名前が付いているかというと、当時、未知の伝染病とされていた"スペイン風邪"を最初に大々的に報じたのが、スペインの報道機関だからです。
感染ルートについてはアメリカから持ち込まれたと言う説と、トルコを経由してアジアから持ち込まれたと言う説がありますが、どっちが正しいのかはハッキリとは分かりません。
しかし、アメリカでは既に1918年の3月に"スペイン風邪"と思われる疾病が、デトロイトで報告されていますから、アメリカからヨーロッパへ"スペイン風邪"が持ち込まれた可能性が、どうやら高そうです。
この記事の冒頭の写真が、アメリカのカンザス州の病院の写真なのは、個人的には"スペイン風邪"のアメリカ発祥説が濃厚だと思っているからです。
では何故インフルエンザの一種である"スペイン風邪"がこれほどの猛威を振るったのかと言うと、"スペイン風邪"のウィルスは通常のインフルエンザウィルスに比べ、30倍も早く増殖する能力があったからだと言われています。
さて、話を第一次世界大戦に戻しますが、両軍の間で"スペイン風邪"が大流行すると、もともと物量に勝るイギリス・フランス・アメリカ勢が3皇帝の軍隊を圧倒し始め、敗色が濃厚になったドイツとオーストリアでは相次いで革命が勃発し、ヴィルムヘルム2世とカール1世がそれぞれ退位して、1918年の11月に第一次世界大戦は終結します。
もう1つの皇帝の国であったオスマン帝国は、ドイツやオーストリアよりも一足早い10月30日に降伏しています。
オスマン帝国皇帝(スルタン)は、第一次大戦の終結直後には辛うじて退位を免れたものの、1922年に起きた「トルコ革命」によりメフメト6世は退位に追い込まれ、現在の我々が知るところのトルコ共和国が成立します。
皇帝なき後の、この"元3皇帝"の国の末路は厳しいものでした。
比較的マシだったのはトルコで、トルコには後に「トルコの父」と言われた百年に一人、いや千年に一人と言ってもいい程の名宰相、ムスタファ・ケマルがいたお陰で内政は非常に安定しましたが、かつて東欧やアフリカ、中東に持っていた領土の全てを喪失し、トルコの領土はアナトリア半島だけとなってしまいました。
穏便とも言える末路を辿ったトルコに比べると、ドイツとオーストリアの末路は文字どおり悲惨でした。
ドイツではハイパーインフレによる経済の破綻やナチスの台頭を許し、更には第一次世界大戦の戦勝国への不満が引き金となって、第二次世界大戦を引き起こしてしまいます。
第二次大戦後、ドイツは西と東に分断されてしまいますが、西ドイツは著しい経済の発展・内政の安定を見せたものの、東ドイツは経済の停滞・恐怖政治が敷かれ、第一次世界大戦が勃発してから本当の意味でドイツに平穏な時が訪れたのは、1989年のベルリンの壁の崩壊による東西ドイツの統一を果たしてからでした。
オーストリアも第一次大戦後は多くの領土を喪失し(※ハンガーリーやクロアチアやセルビアも元々はオーストリア帝国領だった)、経済と内政も混乱を極め、1938年にはナチス・ドイツに併合されてしまい国家としての独立まで失ってしまいます。
第二次大戦後はソ連軍に占領されていた為に、スターリンによって共産党を主体とする傀儡政権が発足します。この時、お神輿としての首班に担ぎ出されたのが、隠遁生活をしていた当時75歳の社会主義者、カール・レンナーでした。
このままだとポーランドやチェコスロバキアのように、オーストリアはソ連の衛星国にされてしまう所だったのですが、お神輿として担ぎ出されたはずの75歳のレンナー爺さんが予想もしなかった意外な働きを見せます。
社会主義者だったとは言えレーニンやスターリンが大嫌いだったレンナー爺さんは、祖国オーストリアを守る為にソ連に従順しているフリを見せながら、陰ではあの手この手の策を練ってソ連の衛星国になる事を阻止しようとします。
レンナー爺さんの策は功を奏し、終戦の年に行われた選挙では国民党(右派)と社会党(左派)が仲良く票を分け合って、共産党を政権から追い出すのに成功します。
これを面白く思わない(と言うか激怒した)ソ連のスターリンは露骨な内政干渉を行い、オーストリアをソ連の勢力下に置こうとしますが、死んでもソ連の手下になんか成りたくないオーストリアの政治家達は、右派と左派の垣根を乗り越えて共同戦線を張り、スターリンによる内政干渉を見事、跳ね返します。
その為、オーストリアはドイツの様に国家が分断される事もなく、国土が東西に分けられてしまったドイツに比べればマシだったものの、やはり皇帝が無き後は非常に苦難に満ちた歴史を辿りました。
そう考えると、日本は第二次世界大戦で無条件降伏をしたのに皇室を失う事もなく、僅か十数年で経済復興を果たし、その後の経済発展によって戦前とは比べ物にならないほどの強大な経済大国になったのは、かなりのレアケースだと言えます。
だいたい世界史を見ていると、一部の例外を除いて皇室を失った国と言うのは悲惨な末路を辿ります。
トルコのように、皇帝(スルタン)を追い出しても非常に傑出した名宰相がいれば国政は安定しますけど、そうでなかったロシア、ドイツ、オーストリアは、その後の数十年に渡って、苦難の歴史を辿りました。
それでも一度は超大国になれたロシアは、ある意味勝ち組だったのかも知れませんが、恐怖政治による自国民の粛清、硬直した経済体制による慢性的なモノ不足などを経験し、とても順風満帆だったとは言い難いモノでした。
と、話が色々と脇道に逸れてしまいましたけど、最後に"スペイン風邪"について語って、この話を締めさせて頂きたいと思います。
"スペイン風邪"は医学が発達した近代以降、人類を最も脅かした伝染病であり、ヨーロッパから遠く離れた日本でも多くの犠牲者が出た事から、感染した範囲で考えると史上最大規模のパンデミック(※広範囲に及ぶ伝染病)と言えるものでした。
だからと言うわけでもないですが、インフルエンザをただの「風邪が重病化したもの」と軽く見ずに何らかの予防対策を取るのは、かなり賢明な姿勢ではないかと言えます。
まさか"スペイン風邪"のような事が再び繰り返される可能性は低いでしょうけど、世の中、何があるかわかりませんからねぇ…
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[gooブログ]【トホホ世界偉人列伝!】「なんでや!なんで兵士や国民がバタバタ倒れていくんや!(意訳)」"スペイン風邪"に勝てなかった3人の皇帝【第3回(5回シリーズ)】