[見出し写真の説明] 「31ノットバーク」と呼ばれた猛将、アーレイ・アルバート・バーク提督
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(担当S)
今日で、日本が真珠湾攻撃を行ってから、ちょうど75年が経過します。
唐突ですが担当Sは反戦主義者です。
これは別に「戦争は人類が生んだガンであるとか」とか崇高な理念があるわけではなくて、先の大戦に従軍された多くの方々や命を落とされた多くの方々の手記や遺書を見て、担当Sが無い頭を使って自分なりに考えて出した結論です。
それらの手記や遺書には多かれ少なかれ「決して敵を憎んではならない」と言う、自分の親や妻、我が子に対して送られたメッセージが見え隠れしています。
極東国際軍事裁判で無実の罪を着せられ、非業の死を遂げた多くの人たちが、我が子へむけた遺書には「時代を恨むな、敵を憎むな!清く正しく育って欲しい」と言う、強い願いが込められた文章が綴られています。
彼らのメッセージは、我が子に対してのみならず、戦後生まれてくるであろう日本人に対しても向けられているのでは無いかと担当Sは思っているので、時代に翻弄され命を落とした彼らの意思を尊重する意味でも担当Sは反戦主義者なのです。
ここで勘違いして欲しく無いのですが、担当Sは確かに反戦主義者ですけど、決して反軍主義者ではありません。
政治色ゼロを掲げている当ブログですから、何故、反軍が良く無いかについては感情に先走ったような事は書いたりしませんが、歴史を見る限り自衛の手段を持たない独立国家と言うのは存在した試しがなく、世界史上、稀に見る長い平和を実現した江戸時代の日本ですら、小さな独立国とも言える各藩は自前の兵を持っていました。
島津家を筆頭とする外様大名勢と紀州・尾張・水戸の徳川御三家は、江戸時代の初めから攘夷運動が盛んになるまでの数百年、お互いに密偵をを出したりして腹の探り合いをしていましたけども、それぞれ独自の軍事力を持っていたので、どちらかが一線を超えるような事をすれば只では済まない事態になり、それを両者は理解していましたから、相手を過剰に刺激するような事は避けていました。
江戸期の日本は、一種の冷戦構造による平和を実現していたと言えなくもありません。
戦争は一度行えば、人的・経済的な損害が甚大ですから、力が拮抗している国同士なら、余程の理由がない限りはなるべく戦争は避けて腹の探り合いだけで終わらせようとするのは、かなり自然な事です。
しかし、幕末から明治の初めまでの一時期に日本が内乱状態に陥ったのは、黒船・欧米列強と言う止むに止まれない「余程の理由」が生じた為に、不可避的に起きてしまった内乱といえるでしょう。
軍隊が有るか無いかで、戦争になるか平和になるのかを語るのは、少し違うんじゃ無いかと担当Sは思うわけです。
ちょっと話が長くなってしまいましたけど、戦後の日本は一時期、武装解除されてしまい何の軍事力を持たない期間と言うのが存在していました。
この状態に終止符を打ったのは、他でもないかつての敵国であったアメリカ軍の軍人でした。
そんなアメリカ軍の軍人の中に、島国である日本には海軍力の再建が是非とも必要であるとして、奔走した一人のアメリカ海軍の軍人がいました。
彼の名はアーレイ・アルバート・バーク。
バークは海軍の大将まで上り詰めたアメリカ海軍の提督の一人であり、海軍作戦部長をアメリカ海軍史上最長の6年の長きに努めると言う異例なキャリアを持った、非常に有能な軍人でした。
日本の海軍力の再建に尽力したと言う話を聞くと、バークと言う男は元々、親日家なのかなと感違いしてしまいそうですが、戦争中のバークは敵である日本を激しく憎んでいました。
それなのに、どうしてそんな男が日本の海軍力の再建に尽力したのでしょうか?
それも打算からではなく私心から、自発的に日本の為に尽くしてくれたのです。
今回は少し長くなりますが、その経緯について、これから説明していきたいと思います。
■「ジャップ!」「黄色い猿!」バークの日本に対する激しい憎悪を決定づけた真珠湾攻撃
[写真]日本軍の攻撃を受け大破炎上する戦艦アリゾナ
日本時間1942年12月8日未明(ハワイ時間12月7日未明)、日本の南雲忠一中将が率いる機動艦隊から飛び立った180機以上の空母艦載機が突如、ハワイの真珠湾に停泊していたアメリカ海軍の艦隊に襲いかかります。
これが後に言う「真珠湾攻撃」の始まりでした。
実は日本政府は、真珠湾攻撃の直前にアメリカに宣戦布告するつもりだったのですが、数々の不幸な連絡ミスが重なって、実際の宣戦布告は真珠湾攻撃の後になってしまいました。
これがアメリカ人の目からは「卑怯な騙し討ち」に写ってしまい、それまで厭戦ムードだったアメリカの世論が一挙に開戦へと傾きます。
この日本軍の攻撃に烈火の如く怒りを顕にし、誰よりも敵国である日本を憎んだ、一人のアメリカ海軍の軍人がいました。
それが今回、紹介するアーレイ・アルバート・バークその人です。
バークは海軍兵学校卒業後、戦艦アリゾナ(※真珠湾攻撃で沈没し、現在は記念館になっている戦艦)で勤務した事があり、彼にとってアリゾナは古巣とも言える存在でした。
そんな戦艦アリゾナは日本軍の奇襲を受けて、1,177名の乗組員と共に海の底へと沈んだのでした。
アリゾナにはバークの戦友も数多く勤務していたと言われています。その戦友の多くも艦と運命を共にしました。
この日を境として、バークの日本に対する激しい憎悪を抱き続ける日々が始まりました。
その激しい憎しみは、バークに「日本人を一人でも多く殺す事が重要だ。それ以外の事は重要でないと」と言う訓令を出させる程でした。
バークは海軍軍人として太平洋方面を転戦し、幾度となく日本軍と死闘を繰り広げますが、事あるごとに日本人の事を「ジャップ!」「忌々しい黄色い猿どもが!」と呼び捨てました。この発言の内容からも、バークが相当激しい気性の人物である事を伺わせます。
彼の激しい気性を表す逸話として、こんなエピソードがあります。
彼が指揮をとった駆逐艦艦隊の最大速度は30ノット(約56km/h)だったのですが、軍令部には常に「こちら31ノットで急行中!」と無線で報告していた事から、いつの間にか"31ノットバーク"とあだ名される事になります。
持ち前の気性からバークは日本軍に対して果敢に戦いを挑み、激しい死闘となったソロモン沖の海戦でも、数々の華々しい戦果をあげています。
こんな激しい気性の持ち主でしたから、戦争が終わった後でも日本人の事を激しく憎み、そして軽蔑し続けました。
そんなバークに青天の霹靂とも言える命令が下されます。
1950年に朝鮮戦争が勃発した事により、バークは極東艦隊参謀副長として日本へ派遣されることが決定されます。
この命令を受けた時に彼がどう感じたかは想像するしかありませんが、それまでの日本に対する数々の発言から察するに、あまりいい感情を持っていなかったのは確かでしょう。
日本に赴任したバークは、東京の帝国ホテルに宿泊するのですが、事あるごとに日本人の従業員に対して「ほっといてくれ!」「私に関わるな!」と繰り返し口にします。
こうしてバークに、彼が最も忌み嫌う国での新しい生活が始まりました。
■「日本人の中には、自分の立場を離れて冷静に物事を考えられる人がいる」180度変わったバークの日本人観
バークが日本に赴任して極東艦隊参謀副長を務めている時に、部下からある話を耳にします。
それは、かつてソロモン方面で死闘を繰り広げた宿敵であった草鹿任一元中将(※下の写真の人物)が今ではすっかり落ちぶれて、鉄道工事現場でツルハシをふるい夫人は街で花を売ったりして何とか食いつないでいると言う、壮絶極まりない話でした。
バークは最初、この話を聞いた時に「飢えさせておけ」と思ったのですが、すぐに考えを改めて、その"可哀想な人物"である草鹿任一元中将に、面白半分で食料を恵んでやる事にしました。
かつての憎い敵将に対して、そうやって温情を示してやる事により、自分自身の優越感を満たすと共に相手に対しては「今ではお恵みが必要な程に落ちぶれている元将軍」であることを知らしめる事ができます。
草鹿に対しバークは匿名で食料を提供してやったのですが、どうやら詰めが甘かったらしく、すぐにこの事が草鹿にバレてしまいます。
実は草鹿が鉄道建設現場で働いていたのはちゃんとした理由があって、かつての部下を救済する為の資金を少しでも稼ぎたくて、自ら選んで重労働をしていたのでした。その為に生活をかなり切り詰めていました。
極東国際軍事裁判でも草鹿は部下を庇う為に「それは私が命令した」「全ての責任はこの私にある」と度々、口を挟み、裁判の進行を徹底的に妨害したので、連合軍を呆れさせました。
時には自分の知らない部下の罪状にまで「それは私の命令だ。私の責任だ」と口を挟む事がありました。
こうした徹底して部下を庇う草鹿の態度に、敵であった連合軍の中にも草鹿を尊敬し敬意を払う者が出てきた程です。
そんな草鹿でしたから、バークが腹の中で何を考えているのかを敏感に察知して烈火の如く怒ります。
腹を立て怒りに震える草鹿は、バークのオフィスに乗り込むと開口一番「私を侮辱するのはよせ!誰の世話になりたくない!特にアメリカ人とは一切関係を持ちたくない!」とバークにとってはチンプンカンプンな日本語で喚き散らすと、バークが"恵んでやった"食料をつきかえします。
そしてプンプン怒りながら、草鹿はバークのオフィスを後にしました。
この出来事にバークは目を丸くして驚くと共に、草鹿任一と言う男にとても強い好感を持ちます。
もし逆の立場だったら、自分も草鹿と一緒の事をしただろうと思ったからです。
草鹿は、それまでバークが抱いていた卑怯で狡猾と言った日本人像からは、かなりかけ離れた人物でした。
彼が寝泊まりしていた帝国ホテルの従業員も、バークが思っていた日本人像とはかなり異なっていました。
前述した通り朝鮮戦争の勃発によってパークは日本に派遣されたのですが、朝鮮半島での任務は思ったように上手く進まず、いつもぐったりして帝国ホテルに戻ってきていました。その上、彼が泊まっていた部屋と言うのが、これでもかと言うくらい殺風景な部屋で、流石のバークもこれにはうんざりしていました。
そんなある日、せめてもの慰めにと思い、バークはホテルの近くで花を一輪買ってくると、それを粗末なコップにその花を生けました。
「これで少しは、殺風景なこの部屋も華やかになっただろう」
こうして、ささやかな満足感を満たしたバークは自室を後にして、自分のオフィスに向かいました。
しかし、その日を境として、バークの部屋に少しづつ変化が起こります。
粗末なコップに活けていた一輪の花は、日を追うごとに二輪、三輪と増えて行き、仕舞いには立派な花瓶に生けられた花束へと変わっていきました。
「誰がこんな事を?」
それをチップが欲しいが為に誰かが勝手にやった事(※日本以外の国では、チップ欲しさに望まないサービスを押し付けられる事がある)だろうと思ったバークは、ホテルのフロントに苦情を口にします。
「誰だか知らないが、私の部屋で勝手な事をするな!」
バークが一輪の花が知らない間に立派な花束に変わったことをフロントに説明すると「はて?当ホテルでは、そのようなサービスを行っておりませんが」と、自分が想像していたのとは違う回答が返ってきました。
「じゃぁ、誰が犯人なのがすぐに探し給え!」と言葉を吐き捨てて、バークはフロントを後にします。
アメリカ軍の提督がカンカンになって怒っていると言うこともあって、ホテルは犯人をすぐに見つけ出し、戦争で夫を失った戦争未亡人の従業員がやった事だと言うのが判明します。
どうせチップ欲しさにやった事だろう思っていたバークは、今後、こう言う勝手なサービスを行わないように説教でもしてやるつもりで、彼女を自室に招く事にしました。
そして彼女が部屋に入ってくるなり「これが君が欲しがっていたチップだ。受け取り給え」と言葉を口にします。
恐らくバークは、この言葉に続けて「私がチップを渡すのは、これが最初で最後だ。今後は私の部屋で勝手なことをするな!」とでも、言いたかったのでしょうが、彼はそれは言う事は出来ませんでした。
何故なら彼女がチップを受け取ろうとしなかったからです。日本人なら、どうして彼女がチップを受け取ろうとしないのかは、すぐに理解できますが、アメリカ人であるバークには全く理解できない事でした。
「どうして君はチップを受け取らない!?何故だ?」
「お部屋にお花が生けてありましたから、提督はお花が好きな方だと思い、少しでもくつろいで頂こうと思ってやった事です」
話を聞けば、彼女は少ない給料の中から花を買って、バークの部屋に生けていたのでした。色々と話をしている内に、戦死した彼女の夫を殺したのは、どうやら自分が率いていた駆逐艦艦隊らしいことにバークは気がつきます。
例え日本人を激しく憎んでいたとしても、自分が殺した男の妻が目の前に立っているのは気持ちのいいものではありません。
バークは率直に「君の夫を殺したのは、この私かもしれない。どうか、この私を許して欲しい」と彼女に謝罪しますが、思いもよらない答えが彼女の口から返ってきました。
「提督は軍人として自分の職務を忠実に実行したに過ぎません。悪いとすれば、それは戦争です」
この言葉に、バークは自分の後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けます。それまでバークが日本人に対して抱いていたイメージと言うのは、卑怯で狡猾、理性などと言うのは一欠片も持ち合わせていない卑劣極まりない人種、と言うものでした。
しかし彼女のこの言葉は非常に理性的であり、何処にも卑怯で狡猾な部分はなく、バークが思っていた日本人像を根底から覆すものでした。
この帝国ホテルでの出来事や、前述した草鹿任一元中将との一件がキッカケとなって、彼は自分が日本人に対して抱いている感情が、果たして正当なものなのかと真剣に考えるようになります。
後年、バークは自分の日本人観の変化について、こう述懐しています。
「日本人の中には、自分の立場を離れて冷静に物事を考えられる人がいます。私はその事実を知り、それまで自分が日本に対して抱いていた怒りや憎しみが、正当なものであるかどうかを考えるようになったのです」
■生涯の友、野村吉三郎元海軍大将
[写真]海軍にいた頃の野村吉三郎
バークは日本に赴任している間、多くの旧日本海軍の軍人たちと交流し意見を交わしています。
前章で紹介した草鹿任一元中将もその一人で、前章ではバークの"わざとらしい"施しに草鹿は腹を立て、彼のオフィスに乗り込んでまで怒りを露わにしますが、そんな草鹿をバークは正式に帝国ホテルの食事に招待します。
この時、バークが招待したのは草鹿一人だけではなくて、板野常善と富岡定俊の旧日本海軍の提督も一緒に招待しています。
流石の草鹿も、このような招待を断るのは相手に失礼だと思ったのか、食事の席に顔を出します。
最初、帝国ホテルに顔を出した草鹿ら(旧日本海軍の)三人の提督は、バークが自分達を招待した意図がよく分からなかったので、擦り切れた礼服に身をかがめて堅い表情を浮かべていました。
しかしバークが酒が勧めて、緊張が解きほぐれてきて会話をする内に、三人の提督の意外な事実が判明します。
実は三人とも英語を話すことが出来て、特に草鹿は英語がかなり達者であることが分かりました。
酔いが回って食が進み、最初は緊張していた三人の提督もすっかりバークと打ち解けると、草鹿がすかさずジョークを口にします。
「今日、招いて下さった親切なバーク提督に乾杯をしたい。
もう一つ、私が戦争中に任務を忠実に果たさなかかった事にも乾杯しましょう。
もし、忠実に任務を果たしていたら、この宴の主人は今この席にはいなかったはずです。
そうしたら今日の美味しいステーキも食べられませんでした。
では乾杯!」
このジョークにバークもジョークで返します。
「私も自分が任務を果たさなかった事に乾杯しましょう。
任務を忠実に果たしていたら、草鹿提督の命を頂戴していたはずです。
今日の美味しいステーキに誰もあり付けなかったでしょう。
では乾杯!」
そしてお互い、笑いあいました。
もうこの頃になると、バークの日本人に対する見方もすっかり変わっていましたが、それには一人の日本人の存在が大きく影響していました。
ここで少し話が前後しますが、前章でもお話しした通り、バークは草鹿や帝国ホテルで色んな日本人に接していく内に、自分が日本人に対して抱いている怒りや憎しみが果たして正当なものであるかを考えるようになったのですが、それに答えを見出すためにバークは自ら進んである日本人に会いに行きます。
その人物とは、戦前に海軍良識派として知られた野村吉三郎元大将(※以下、野村提督と表記)です。
日本の歴史や価値観を理解する為にバークは野村提督とあったのですが、野村提督は初めて会う元敵国の提督を正座で座らせると、朝鮮半島についての講義を始めました。
慣れない正座にバークが足が痺れた事を訴えると、野村提督は話を真剣に聞いていれば足の痺れは気にならないはずだと諭し、講義を続けました。
以前のバークなら正座を続ける事を拒絶していたでしょうが、この時のバークは真剣に日本の事を
知ろうとしていたので、そのまま正座の姿勢で野村提督の話に耳を傾けました。
野村提督は相手が元敵国の提督である事は一切意に介さずに、熱心にバークに日本の歴史や価値観について説明しました。
日本に赴任している間、バークは週に一度は野村提督の元を訪れ、数多くの示唆を受けました。
時には朝鮮戦争の推移や中国の参戦の可能性について、バークは野村提督に意見を求めた事もありましたが、野村提督の答えた内容の通りに朝鮮戦争が推移してゆくので、バークは野村提督の知性と教養を高く評価するようになります。
この野村提督との会談が、その後のバークの日本人観を決定付けたのは言うまでもないでしょう。彼は野村提督の事を生涯の友と呼び、バークが日本を離れても、それは変わりませんでした。
日本でのバークの任務が終わり離日する時に、彼は午前2時に出発する飛行機でアメリカに戻ったのですが、こんな深夜のフライトですから誰も見送りには来ないだろうと、バーク自身は考えていました。
しかし、深夜にもかかわらず野村提督がバークを見送りに空港に現れたので、バークは非常に感激すると共にとても驚きました。
この時、野村提督は既に70代の老人だったのですが、電車やバスが動いている時間は公共交通機関を幾つも乗り継ぎ、深夜になって動いている電車やバスがなくなると、今度は歩いて空港まで辿りつきました。
こう言う事があったからこそ、バークは野村提督を生涯の友と呼んだのです。
野村提督が1961年に野村提督が亡くなると、訃報を聞いたバークはとても落胆し、こう書き残しています。
「野村提督が亡くなった時、私は生涯最良の友を一人失った」
後の海上自衛隊創設の元となった日本海軍再軍備計画と言うのがあるのですが、これは野村提督から薫陶を受けた元海軍士官達が中心になり立ち上がった計画です。野村提督とも関係が深いこの計画を、バークは後押しするようになります。
冒頭でもお話ししましたが、バークは野村提督を含めた多くの旧日本海軍の軍人たちと交流し意見を交わしていますが、後にバークは、彼らと意見を交わした経験は自分の人生でも最も楽しい出来事の一つだったと語っています。
こういう経緯があって日本人に対する見方や価値観が大きく変わったバークは、事あるごとに日本の1日も早い独立回復を自国の政府や同僚に訴え、かつて太平洋で死闘を繰り広げたのにも関わらず日本の海軍力の再建に大きく力を貸す事になります。
朝鮮戦争の時に、元日本海軍の軍人達で結成された掃海艇(※機雷の除去を目的として造られた船)部隊が大きな犠牲を払いながらも(※開戦半年の活動だけでも500名以上の犠牲者を出す)多大な成果を上げましたが、これはバークの要請に対して当時の吉田茂首相が答える形で行った事でした。
この事もバークにとっては、日本の海軍力の再建に力を貸す非常に大きな動機になりました。
長かった朝鮮戦争がようやく終わると、バークは日本の海軍力の再建の為に、物心共に尽力する事になります。
■バークの人生にとって最高の勲章。それは勲一等旭日大綬章
[写真]自衛隊にも供与されたP2V対潜哨戒機
本題に入る前に、ここで少し外国の視線に立って日本の国防を論じてみようと思います。
日本は言うまでもなく四方を海に囲まれた島国ですが、日本と同じ島国であるイギリスは19世紀に「二国標準主義」と言うのを掲げていました。
これは、世界の海軍力二位・三位の国が束になってかかって来ても負けないような世界一の海軍力をイギリスは保持すると言う方針で、この方針に基づきイギリスは強力な海軍力を維持し続けました。
しかし突出していたのは海軍だけで、イギリスの陸軍は他のヨーロッパの国と比べても、突出したところはなく月並みでした。
どうしてこう言うアンバランスな軍事力の構成になったのかと言えば、イギリスが島国である事に原因が求められると思います。
イギリスは大航海時代から19世紀にかけて、スペインの無敵艦隊や、かつて宿敵だったオランダ海軍、そしてナポレオン率いるフランス海軍(と、言ってもナポレオン自身は陸での戦いばかりをしてましたから、直接フランス海軍を率いた訳ではありませんが…)と、幾度となく海の上で外国勢力と衝突し、中にはイギリスの独立を大いに脅かす戦いもありました。
近代国家としてのイギリスが成立する過程で独立を守るには、海からやってくる脅威を退ける必要があり、それが海軍力偏重に繋がっていったのだと思われます。
もし16世紀に行われた、スペインの無敵艦隊によるイギリス侵攻を阻止する事が出来なかったら、今頃イギリスはスペインの飛び地になっていた可能性もあったのです。
それ位、島国が自国の独立を守る上で、海からやってくる外国の勢力と言うのは脅威なのです。
こう言う視線に立ってみれば、外国からは日本とイギリスは、きっとダブって見えるはずです。
特に日本は、ソ連や中国と言った共産主義国家の太平洋への進出に立ち塞がるような絶妙な位置に国が存在していますから、仮に日本が共産主義国家の版図に組み込まれでもすると、太平洋にソ連や中国の国旗を翻した軍船が跳梁跋扈する事にもなりかねません。
これを誰よりも嫌ったのがアメリカでした。
多大な犠牲を払ってまで日本を屈服させたばかりだと言うのに、今度は共産主義国家の海軍と太平洋上で矛を構えかねない危機がアメリカのすぐ目の前にまで迫っていました。
既にソ連は、1948年のベルリン封鎖によりアメリカを筆頭とした西側諸国との対立を鮮明化しており、翌49年にはソ連の支援の元に毛沢東による共産主義革命が中国で起こり、更に翌50年には金日成率いる共産主義勢力により朝鮮戦争が引き起こされます。
もうこうなると、極東地域で最後の砦と言える国は日本だけで、アメリカの国益を守る為にも日本を共産主義の魔の手から守るのは理にかなっていました。
日本国内でも、海上における自衛力再建の為に水面下で行われた日本海軍再軍備計画と、それに続くY機関(※日本の再軍備について政府に答弁する為の組織)の創設などの動きがあったのですが、それらの動きはアメリカの国益とも一致していた為に、朝鮮戦争が終結すると一挙に具体的な動きへと発展していきます。
これらの動きにもバークは深く関わっていました。Y機関の人選は前章で紹介した野村提督ら旧日本海軍の提督を中心にして行われましたが、その野村提督に人選について助言したのは他でもないバークその人でした。
1952年に海上保安庁の管轄の元に設立された海上警備隊は、その2年後の1954年に海上自衛隊として独立します。
この時初めて、戦後の日本に自前の海軍力が整備されたのです。
しかし、生まれて間もない海上自衛隊は武装も貧弱で、戦前に保有していた多くの戦艦や空母は戦争により失っていますから、アメリカが供与してくれるお下がりの武器にすがる他にありませんでした。
そんな中で対潜哨戒機(※敵潜水艦を海上から発見するのを主任務とした軍用機)だけは、アメリカの最新鋭機が供与され、しかも配備された当初はアメリカ海軍よりも多く、その最新鋭機を持っていました。
その供与された対潜哨戒機はP2V(※冒頭の写真がそれ)と言う名前なのですが、この開発されて間がないP2Vをバークが自国の海軍よりも優先して海上自衛隊に供与してくれたのです。
ところが、バークがこの最新鋭機を海上自衛隊へ配備してくれた裏には、どうやら彼が破ってはいけないルールを幾つも破って、更に自身の提督と言う立場も利用して、独断専行で海上自衛隊に力を貸してくれた節があります。
普通に考えれば、自国の最新鋭機が他国へ優先的に、しかも自国よりも沢山配備されるなんて事が起こるはずがありません。
バークがどうやってそれを可能にしたのか今となっては不明ですが、それくらい積極的に彼は日本の海軍力の再建に力を貸したのです。
この功績が認められて、1961年にバークは外国人としては初めて勲一等旭日大綬章(※上の写真を参照の事。PCでは右に写真が表示されます)を授かります。
この授与をとても名誉な事だとバーク自身が思っていたのは、残っている色々な資料が裏付けていますが、なんとバークは、受章後の帰りの飛行機で勲一等旭日大綬章を収めたカバンごと盗難に遭い、この名誉ある勲章を失ってしまいます。
これには流石のバークも落胆を隠しきれませんでした。
余程、落胆が酷かったのか、海上自衛隊の関係者や旧海軍の元軍人たちが心配して、再授与の為の募金や活動を始めます。
その甲斐もあってバークは二度、勲一等旭日大綬章を授かる事になりました。
こういう経緯もあってか、晩年のバークは亡くなる前に「私が死んだら、棺には勲一等旭日大綬章だけを一緒に入れて葬ってくれ」と周囲の人間に語っています。
実はバークは勲一等旭日大綬章だけでなく、色んな国の政府からも勲章を授かっていたのですが、彼にとって日本から勲一等旭日大綬章を授かったと言うのは特別に大きな意味を持っていたようです(何故、特別な意味を持っていたかについては、ここまで読み進めて貰えれば、敢えて説明する必要はないと思います)。
バークは激しい気性の持ち主でしたが、一輪の花のような可憐なものに心惹かれる一面も持っており、それを知っていた海上自衛隊の面々は、バークの誕生日には必ずバークの自宅に花束を送っていました。
これはバークが海軍を退役した後も続いたので、彼は「アメリカ海軍よりも海上自衛隊の方が大切してくれると」と冗談を口にした程です。
冗談とは言えバークに陰口を叩かれたアメリカ海軍ですが、もちろん太平洋戦線での勇者であるバークには一目置いており、1991年に就航した新型イージス艦に「アーレイ・バーク級」と言う名前を付けます。在命中の人物の名前が軍艦に付けられるのは非常に異例な事です。
この「アーレイ・バーク級」が就航した5年後の1996年1月1日に、バークは入院してたベセスダの海軍病院で息を引き取ります。96歳の大往生でした。
彼を追悼する意味を込めてアメリカ海軍は、すべての「アーレイ・バーク級」イージス艦を1分間だけ31ノットで航行させました。これは戦争中にバークが「31ノットバーク」とあだ名されていた事に由来しています。
彼の棺には生前の遺言通りに勲一等旭日大綬章だけが一緒に添えられ、波乱万丈の人生を送ったアーレイ・アルバート・バークは、こうして天国へ旅立ったのです。
今でも海上自衛隊からは、バークが生前好きだった花束が墓前へ贈られています。
ネット上では一部ではありますが、バークが戦争中に日本人の事を「ジャップ!」「黄色い猿!」と激しく罵った事から、彼を人種差別主義者だとする意見がありますけど、担当Sはバークが人種差別主義者だとは思いません。
筋金入りの人種差別主義者だったら、戦争が終わった後でも日本人を憎み罵り続けていたでしょう。
彼は決して人種差別主義者だったわけではなく、祖国に対して攻撃を仕掛けた日本と言う国が純粋に憎かっただけだったのだと思います。
こういう何かを純粋に憎める人物と言うのは案外、正義感が強かったりしますから、自分の間違いに気がついた時には、その間違いが許せなくて自分の価値観や考え方を大幅に軌道修正をする事があります。
それが戦争中と戦後では、バークの全く異なる日本人観の変化へと繋がったのではないでしょうか。
最後に生前のバークが語った、日本とアメリカが戦争に至った理由についての彼の意見を紹介して、今回の話を締めたいと思います。
「アメリカは日本を知らなかったが、日本もアメリカを知らなかった」