領海制限したのは、米潜水艦優先のためだというが、何のことはない。
その他の、中国、ソ連、韓国、北朝鮮などのための、通行優先化のためである、と言うことにもなる。
こういうことなのに、何が何を、何のためにこういうことをしているのか、何のことやら、さっぱりかっぱり判らないことをしている。
こういうことを考えるのが、国政を預かるものがすることなのだし、それで税金で太り肥えている。
日本国憲法 第25条
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。[1]
1 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の 向上及び増進に努めなければならない。
憲法ではこのように「健康で文化的な生活を営む権利を有する」とある。
だが我々人間というものは、この「文化」というものを、「文化」によって崩壊し、自滅させようとするような浅ましさと疎かさとを持っている。
我々は「健康」でいたい。そして「長生き」したい。
それが故に「文化」を、発展させてきたといえる。
「医科学」がそうである。
それに「豊かさ、楽しさ、楽(快適さ)」な生活を営むために、科学技術を発展させ、芸術も発表させている。
こうした「文化の発展」が、今日は「発展」を通り越して、自虐的な自滅への崩壊現象を起こしている。
我々が「健康でいたい」という思いから、医学が発達した。そして長寿社会になってきている。
一方科学の発達によって「豊かに、楽しく、楽(快適)」になったのに伴い、運動不足になり、また晩婚化し、核家族化し、それは少産化を伴うとともに少子化社会となる。
これまでの人口構造が、子供が多く、高齢者が少ないビラミット型だったのが、「文化」が「発展,発達」するとともに、逆ビラミット型の少子高齢化社会となっている。これによってこれまでは十人の働き手で一人の子供や老齢者の面倒を見ればよかったのが、三人で一人を見なければならないような社会構造になった。
ところが、この働き手ともなる三人たちの中には、いい年になったのに独身の人もいるし、あるいは働き手といっても、生産としての働きてでは無く、金銭を稼ぐという働き手でしかないものもいる。
「金銭を稼ぐ」というのは、「金融、スポーツ、芸能、報道、文芸」などでの働き手ということで、第一次産業の担い手ではない。
こうした第一次産業の担い手で無い人たちが社会の第一線でがんばるような社会が、今日の文化社会となっている。
このために、民主主義の理念ともいえる「自由と平等」の精神も揺らぎ、政治から、経済から、教育から、そして家庭からも「人間として生きる覚悟と責任感」が薄れて、「文化による、文化への自滅的な崩壊」が始まっている。
「文化」とは、「そのままを受け入れて生きる」ことであるだろうに・・・・・。