「みつさん、あれは……?」
虎之助がみつを見る。みつはじっと窓辺の娘を見つめている。
「あの娘が内側の手形の主でしょうね」みつが言う。「と言う事は、そろそろ窓の外側に……」
皆はしばらく窓を見つめていた。すると、からんころんと下駄の音が聞こえてきた。そして、窓の外側に学生帽を被った色白で優男の若者の顔が覗いた。彼が嵩彦なのだろう。娘と同じように思いつめた表情だ。黒の学生服に黒のマントを羽織っている。明治時代の学生と言った様子だ。この若者もみつたちが目に入っていないようだ。
若者は娘が窓に当てた手に重ねるように外側から手を当てる。
「冨美代さん……」
冨美代と呼ばれた娘は何度もうなずく。
「嵩彦様……」冨美代の頬を涙が伝う。「冷たい硝子窓では、嵩彦様の温もりが感じられません……」
「僕も同じです。薄い硝子なのに、僕と冨美代さんの間は地球から昴までの隔たりがあります。いや、それ以上か……」
「ああ、嵩彦様……」
「冨美代さん、泣かないで! 君の流すその涙は、僕との距離をさらに広げてしまいます! 笑顔を、笑顔を僕に下さい!」
「差し上げたいのだけれど、この悲しみが、わたくしに笑顔を忘れさせてしまいました……」
「冨美代さん!」
「嵩彦様!」
このやり取りに、豆蔵はのろけ話を聞かされて困ったようにぽりぽりとこめかみを掻き、竜二は小難しい例えのまだるっこしさうんざりした顔をし、みつは何の話をしているのかと言うような怪訝そうな顔をしている。その中で、虎之助だけがぽろぽろと涙を流し何度もうなずいている。
「分かる、分かるわぁ!」虎之助は冨美代に声をかけた。「冨美代ちゃん! 辛いわよね? こんなに近くにいるのに……」
「え?」冨美代は驚いて振り返る。たった今、虎之助たちに気がついたと言う顔をしている。「……あの、皆様は?」
「わたしたち?」虎之助が優しく笑む。「わたしたちは、冨美代さんと嵩彦さんを助けようと思って来たのよ」
「ええっ!」冨美代は口元に手をやって驚きを示し、窓にもたれかかった。「誠でございますか……」
「君! その話は本当ですか?」外にいる嵩彦も驚いている。「本当に僕と冨美代さんを?」
「ええ、そのつもりよ」虎之助が言う。「その前に訊いておきたいんだけど、あなたたちって、恋人同士よね?」
冨美代と嵩彦は互いを見合う。冨美代は黙ってうつむいてしまった。
「では、僕から話をしましょう」嵩彦が言う。「冨美代さんは某華族の令嬢でした。著名な女学校へと通っていました。僕は地方から出てきた貧乏学生でした。出会ったのは明治二十年代の後半でした。某先生の講話があり、その席で知り合いました。たちまち互いに惹かれ合いました。……しかし、身分の違いと言う事で僕たちの仲は引き裂かれました。冨美代さんは望まぬ結婚をさせられる事になり、僕も、学問もせずに何をしているのかと田舎から叱責され、退学と帰郷を余儀なくされました。そこで……」
「そこで」冨美代が継いだ。意を決したような厳しい表情だ。「わたくしたちは手に手を取って心中を致しました。それからはずっと一緒でした。死して後に幸せとは、お叱りを受けるやも知れませぬが、本当に幸せでございました。共に行きたい所に行き、笑いたい時に笑い…… 気がつけば、世の中もすっかり様変わりをしておりました。それでも、幸せでございました」
「左様か……」みつが複雑な表情をする。「良かったと申し上げて良いものかは分かぬが……」
「まあ、あっしらの頃にも、心中はありやした。心中しなきゃならねぇってのは、よっぽどの事だ。皆、あの世で添い遂げて幸せになりなって言っておりやしたねぇ……」豆蔵が遠くを見るような目で言う。「で、お二人さんは添い遂げたんで?」
「いえ、それはまだ……」冨美代が恥ずかしそうに言う。「互いに学生でしたので……」
「ですけど、僕はそろそろと思っていました」
「そうです。少し前に嵩彦様から正式に結婚を申し込まれました。霊体になって結婚など、果たして可能なのかは存じませぬが、わたくしは受け入れました」
「良い、良いわぁ…… わたし、感動したわ!」虎之助が泣き出した。それから竜二を見る。「竜二ちゃん! わたしも決心したわ! わたし、竜二ちゃんと結婚するわ!」
「だからさあ」竜二は困った顔で言う。「お前は男なんだってば……」
「わたしの事、嫌いなの?」虎之助は両手で顔を覆い号泣し始めた。「酷いわ! わたしを弄んだのね!」
「おい、人聞きの悪い事言うなよ。オレは何にもしちゃいねぇだろうが!」
「竜二さん……」豆蔵が言う。「男らしく観念しなせぇよ」
「男らしくって…… 豆蔵さん、虎之助は男なんだぜ」
「人には多少の間違いもありやしょう。それを差っ引いたって、虎之助さんは別嬪だ」
「じゃあ、豆蔵さんが貰ってくれよ」
「いえいえ、あっしは他人様の恋路に割り込むなんて出来やせん」
「もうっ! どうしたら良いんだよう!」
竜二は泣き出した。それを虎之助が優しく抱きしめ、頬ずりをする。竜二は固まってしまった。豆蔵はそっぽを向いて声を殺して笑う。その様子から、豆蔵は楽しんでいるとしか思えない。
「……で、誓いを立てたお二人が、このような目に遭うとは、何があったのですか?」
みつが竜二たちを無視し、真顔で冨美代に訊いた。
つづく
虎之助がみつを見る。みつはじっと窓辺の娘を見つめている。
「あの娘が内側の手形の主でしょうね」みつが言う。「と言う事は、そろそろ窓の外側に……」
皆はしばらく窓を見つめていた。すると、からんころんと下駄の音が聞こえてきた。そして、窓の外側に学生帽を被った色白で優男の若者の顔が覗いた。彼が嵩彦なのだろう。娘と同じように思いつめた表情だ。黒の学生服に黒のマントを羽織っている。明治時代の学生と言った様子だ。この若者もみつたちが目に入っていないようだ。
若者は娘が窓に当てた手に重ねるように外側から手を当てる。
「冨美代さん……」
冨美代と呼ばれた娘は何度もうなずく。
「嵩彦様……」冨美代の頬を涙が伝う。「冷たい硝子窓では、嵩彦様の温もりが感じられません……」
「僕も同じです。薄い硝子なのに、僕と冨美代さんの間は地球から昴までの隔たりがあります。いや、それ以上か……」
「ああ、嵩彦様……」
「冨美代さん、泣かないで! 君の流すその涙は、僕との距離をさらに広げてしまいます! 笑顔を、笑顔を僕に下さい!」
「差し上げたいのだけれど、この悲しみが、わたくしに笑顔を忘れさせてしまいました……」
「冨美代さん!」
「嵩彦様!」
このやり取りに、豆蔵はのろけ話を聞かされて困ったようにぽりぽりとこめかみを掻き、竜二は小難しい例えのまだるっこしさうんざりした顔をし、みつは何の話をしているのかと言うような怪訝そうな顔をしている。その中で、虎之助だけがぽろぽろと涙を流し何度もうなずいている。
「分かる、分かるわぁ!」虎之助は冨美代に声をかけた。「冨美代ちゃん! 辛いわよね? こんなに近くにいるのに……」
「え?」冨美代は驚いて振り返る。たった今、虎之助たちに気がついたと言う顔をしている。「……あの、皆様は?」
「わたしたち?」虎之助が優しく笑む。「わたしたちは、冨美代さんと嵩彦さんを助けようと思って来たのよ」
「ええっ!」冨美代は口元に手をやって驚きを示し、窓にもたれかかった。「誠でございますか……」
「君! その話は本当ですか?」外にいる嵩彦も驚いている。「本当に僕と冨美代さんを?」
「ええ、そのつもりよ」虎之助が言う。「その前に訊いておきたいんだけど、あなたたちって、恋人同士よね?」
冨美代と嵩彦は互いを見合う。冨美代は黙ってうつむいてしまった。
「では、僕から話をしましょう」嵩彦が言う。「冨美代さんは某華族の令嬢でした。著名な女学校へと通っていました。僕は地方から出てきた貧乏学生でした。出会ったのは明治二十年代の後半でした。某先生の講話があり、その席で知り合いました。たちまち互いに惹かれ合いました。……しかし、身分の違いと言う事で僕たちの仲は引き裂かれました。冨美代さんは望まぬ結婚をさせられる事になり、僕も、学問もせずに何をしているのかと田舎から叱責され、退学と帰郷を余儀なくされました。そこで……」
「そこで」冨美代が継いだ。意を決したような厳しい表情だ。「わたくしたちは手に手を取って心中を致しました。それからはずっと一緒でした。死して後に幸せとは、お叱りを受けるやも知れませぬが、本当に幸せでございました。共に行きたい所に行き、笑いたい時に笑い…… 気がつけば、世の中もすっかり様変わりをしておりました。それでも、幸せでございました」
「左様か……」みつが複雑な表情をする。「良かったと申し上げて良いものかは分かぬが……」
「まあ、あっしらの頃にも、心中はありやした。心中しなきゃならねぇってのは、よっぽどの事だ。皆、あの世で添い遂げて幸せになりなって言っておりやしたねぇ……」豆蔵が遠くを見るような目で言う。「で、お二人さんは添い遂げたんで?」
「いえ、それはまだ……」冨美代が恥ずかしそうに言う。「互いに学生でしたので……」
「ですけど、僕はそろそろと思っていました」
「そうです。少し前に嵩彦様から正式に結婚を申し込まれました。霊体になって結婚など、果たして可能なのかは存じませぬが、わたくしは受け入れました」
「良い、良いわぁ…… わたし、感動したわ!」虎之助が泣き出した。それから竜二を見る。「竜二ちゃん! わたしも決心したわ! わたし、竜二ちゃんと結婚するわ!」
「だからさあ」竜二は困った顔で言う。「お前は男なんだってば……」
「わたしの事、嫌いなの?」虎之助は両手で顔を覆い号泣し始めた。「酷いわ! わたしを弄んだのね!」
「おい、人聞きの悪い事言うなよ。オレは何にもしちゃいねぇだろうが!」
「竜二さん……」豆蔵が言う。「男らしく観念しなせぇよ」
「男らしくって…… 豆蔵さん、虎之助は男なんだぜ」
「人には多少の間違いもありやしょう。それを差っ引いたって、虎之助さんは別嬪だ」
「じゃあ、豆蔵さんが貰ってくれよ」
「いえいえ、あっしは他人様の恋路に割り込むなんて出来やせん」
「もうっ! どうしたら良いんだよう!」
竜二は泣き出した。それを虎之助が優しく抱きしめ、頬ずりをする。竜二は固まってしまった。豆蔵はそっぽを向いて声を殺して笑う。その様子から、豆蔵は楽しんでいるとしか思えない。
「……で、誓いを立てたお二人が、このような目に遭うとは、何があったのですか?」
みつが竜二たちを無視し、真顔で冨美代に訊いた。
つづく
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