石が除けられた跡には暗く深い穴が見えていた。
その穴から邪気が溢れ出てくる。穴の中で響く低い唸り声が漏れてくる。
穴の縁に爪の長い右の手指が掛かった。同じように、長い爪の左の手指が逆側の縁に掛かる。唸り声は大きくなる。頭が覗いた。ざんばら頭に白濁の瞳のない眼。全体に青白いやつれた顔だった。吊り上った目尻、口角が切れ上がり、覗く歯は鋭い牙になっている。時々伸ばす舌は先が二股に分かれている。呼吸するたびに青黒い邪気が吐き出される。穴から抜け出した悪霊は、武将の姿をしていた。とは言え、あちこちが綻び、汚れている。
……鬼になりつつあるようじゃ。坊様はその姿を見て思った。
武将は、雑兵の亡者どもが押さえつけている坊様を、白濁の眼で睨み付けた。腰に手挟んだ刀を抜いた。
「お前かあ!」地鳴りのような声が響く。「わしを不快にさせたは、お前なのかあ!」
白濁の瞳が血の色に変わった。怒りが頂点に達したようだ。坊様を押さえていた亡者どもは、その姿に恐れをなして消えた。戒めの取れた坊様は錫杖を握り直す。
「そうじゃ! 拙僧じゃ!」からだの自由が戻った坊様は言い放つ。「己れの様な、鬼の成り損ないなど、初めて見たわ!」
「なんだとぉぉ……」全身から黒い邪気が吹き上がった。手にした刀を振り上げる。月光に妖しく煌めいた。「そこに直れい!」
「馬鹿を抜かせ! はいそうですかと首を差し出すたわけが居ると思うてか!」坊様は高笑いをした。「所詮、己れは敗軍の将。己れの才覚の無さのせいで、多くの家来を死なせてしまったではないか!」
「やめいや!」怒声と共に姫が姿を見せた。髪を逆立て、手には血が滴り落ちている薙刀を持っていた。これも全身から黒い邪気を立ち上らせている。「父を侮辱するは、許さんぞ!」
「ほう、勇ましい姫様じゃな」坊様は姫を見ながら笑う。「親子は似ると言うが、どちらも鬼の成り損ないじゃ!」
坊様は言うと、周りで怖気づいている雑兵の亡者どもに語りかけた。
「己れ等も、こんな敗軍の将になど忠義を尽くすでないわ! 己れ等が行のうた戦で、変わったものなど何一つ無いのじゃ。それどころか、すでに戦の面影も無く、己れ等は忘れられた者どもとなったのじゃ。人を襲う亡者に成り下がった死に損ないとなったのじゃ。それもこれも、この敗軍の将の無力さ故じゃ。己れ等を現し世に彷徨わせ、悪霊と成したは、この将の至ら無さの故なのじゃ」
「ええいっ! 黙らんかあ!」武将が叫ぶ。「者ども、憑りつき殺すのじゃあ!」
「手下に頼らず、己れで討って来い!」坊様が武将を睨みつける。「死しても尚、己れ一人では戦えぬのか!」
「黙りゃああ!」
姫が薙刀を振り回して坊様に突進し、切っ先を横に薙いだ。坊様は動かなかった。薙刀は空を切っただけだった。
「ほう、大した腕じゃな。父親よりも腕達者ではないのかのう」坊様は錫杖を握り直した。「さあ、もう一度やってみるか? 所詮は亡霊よ。恐れる者にしか手は出せぬ。それとな、己れ等にとって不快な念仏のお蔭で、己れ等の力は弱っておるのだ。憎しみで力が上がっただと? もしそうであっても、己れ等の力はそこまでよ!」
「ふざけるなあ!」
姫が討ち込んできた。坊様は錫杖を振り上げた。
「滅!」
坊様は裂帛の気合いと共に錫杖を姫に振り下ろした。ばちんと落雷に似た音が響いた。
姫の姿は消えた。断末魔の声さえ上げる事がなかった。
つづく
その穴から邪気が溢れ出てくる。穴の中で響く低い唸り声が漏れてくる。
穴の縁に爪の長い右の手指が掛かった。同じように、長い爪の左の手指が逆側の縁に掛かる。唸り声は大きくなる。頭が覗いた。ざんばら頭に白濁の瞳のない眼。全体に青白いやつれた顔だった。吊り上った目尻、口角が切れ上がり、覗く歯は鋭い牙になっている。時々伸ばす舌は先が二股に分かれている。呼吸するたびに青黒い邪気が吐き出される。穴から抜け出した悪霊は、武将の姿をしていた。とは言え、あちこちが綻び、汚れている。
……鬼になりつつあるようじゃ。坊様はその姿を見て思った。
武将は、雑兵の亡者どもが押さえつけている坊様を、白濁の眼で睨み付けた。腰に手挟んだ刀を抜いた。
「お前かあ!」地鳴りのような声が響く。「わしを不快にさせたは、お前なのかあ!」
白濁の瞳が血の色に変わった。怒りが頂点に達したようだ。坊様を押さえていた亡者どもは、その姿に恐れをなして消えた。戒めの取れた坊様は錫杖を握り直す。
「そうじゃ! 拙僧じゃ!」からだの自由が戻った坊様は言い放つ。「己れの様な、鬼の成り損ないなど、初めて見たわ!」
「なんだとぉぉ……」全身から黒い邪気が吹き上がった。手にした刀を振り上げる。月光に妖しく煌めいた。「そこに直れい!」
「馬鹿を抜かせ! はいそうですかと首を差し出すたわけが居ると思うてか!」坊様は高笑いをした。「所詮、己れは敗軍の将。己れの才覚の無さのせいで、多くの家来を死なせてしまったではないか!」
「やめいや!」怒声と共に姫が姿を見せた。髪を逆立て、手には血が滴り落ちている薙刀を持っていた。これも全身から黒い邪気を立ち上らせている。「父を侮辱するは、許さんぞ!」
「ほう、勇ましい姫様じゃな」坊様は姫を見ながら笑う。「親子は似ると言うが、どちらも鬼の成り損ないじゃ!」
坊様は言うと、周りで怖気づいている雑兵の亡者どもに語りかけた。
「己れ等も、こんな敗軍の将になど忠義を尽くすでないわ! 己れ等が行のうた戦で、変わったものなど何一つ無いのじゃ。それどころか、すでに戦の面影も無く、己れ等は忘れられた者どもとなったのじゃ。人を襲う亡者に成り下がった死に損ないとなったのじゃ。それもこれも、この敗軍の将の無力さ故じゃ。己れ等を現し世に彷徨わせ、悪霊と成したは、この将の至ら無さの故なのじゃ」
「ええいっ! 黙らんかあ!」武将が叫ぶ。「者ども、憑りつき殺すのじゃあ!」
「手下に頼らず、己れで討って来い!」坊様が武将を睨みつける。「死しても尚、己れ一人では戦えぬのか!」
「黙りゃああ!」
姫が薙刀を振り回して坊様に突進し、切っ先を横に薙いだ。坊様は動かなかった。薙刀は空を切っただけだった。
「ほう、大した腕じゃな。父親よりも腕達者ではないのかのう」坊様は錫杖を握り直した。「さあ、もう一度やってみるか? 所詮は亡霊よ。恐れる者にしか手は出せぬ。それとな、己れ等にとって不快な念仏のお蔭で、己れ等の力は弱っておるのだ。憎しみで力が上がっただと? もしそうであっても、己れ等の力はそこまでよ!」
「ふざけるなあ!」
姫が討ち込んできた。坊様は錫杖を振り上げた。
「滅!」
坊様は裂帛の気合いと共に錫杖を姫に振り下ろした。ばちんと落雷に似た音が響いた。
姫の姿は消えた。断末魔の声さえ上げる事がなかった。
つづく
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