午前中は得意先の状況の報告書や社内諸手続きの書類作成などのデスクワークが中心になる。
コーイチはカーレース番組を思い出し、ピットでのタイヤ交換の速さや順位が変わって行く様を頭によぎらせて、目をぱっちりと覚まさせた。・・・あのシーンは凄かったなあ。あのカーブでの攻防は思わず叫んでしまった。今思い出しても血がたぎる!
しかし、机の上の書類に眼を落とすと、たちどころに睡魔が襲って来た。・・・寝るわけには行かない。でも、眠い・・・ コーイチは今夜は絶対カーレース番組を見ないで寝ると心に誓った(多分破られるだろうが)。
うとうととしながら書類に書き込みをしていたコーイチが、はっと気を取り直すと、全く違う所に自分の名前を書いていた。
「いやいやいやいや、まいったなあ」
コーイチは書き込みに使ったシャープペンシルを目の高さまで持ち上げた。さも、このシャープペンシルが勝手に間違ったと言いたげだ。
コーイチは文房具の入れてある小引き出しを開けた。消しゴムを取り出す。シャープペンシルに付いている消しゴムを使うと何故か紙が汚れてしまうので、別に消しゴムを使う事にしていた。
しかし、取り出す時にうっかり落としてしまった。消しゴムは床で弾むと机の奥の方へと転がって行った。コーイチは体を折り曲げて机の下を覗き込んだ。消しゴムはどこへ行ってしまったのか、見つからなかった。・・・やれやれ、これも寝不足のせいかな。あきらめて体を起こした。
他の人から借りようと、きょろきょろ見回すと、隣の芳川洋子の机の上に、白い消しゴムのような小さな直方体のものが入った、透明な小さなガラスケースが置かれていた。
「あのう、芳川さん・・・」
コーイチは遠慮がちに声をかけた。書類に赤ペンでチェックを入れていた洋子は、その手を止め、顔だけをコーイチに向けた。
「なんでしょうか?」
仕事を中断された不機嫌さを隠しもせず、メガネの奥の目を細めながら洋子は言った。
「その中のものって、消しゴム?」
コーイチはおそるおそる洋子の机の上のガラスケースを指差した。
「そうですけど・・・」
「じゃあ、ちょっと貸してもらえないかなあ」
コーイチは言いながらケースに手を伸ばした。
「ダメ、ダメです!」突然、洋子は叫んで、そのケースを握り締めると、手ごと背後に隠して立ち上がった。「絶対、ダメ!」
あまりの剣幕に全員が顔を上げた。
「おい、コーイチ」西川が呆れたように言った。「また、何をやったんだ?」
「コーイチ君、仕事中だよ」林谷が笑いながら言った。「デートのお誘いなら、お昼休みにでもするんだね」
「あらぁ!」清水がわざとらしく口元に手をやりながら言った。「そんな事したら、逸子ちゃんに嫌われるわよぉ・・・」
「おいおい、コーイチ君」印旛沼が心配そうに言った。「本当にデートに誘ったのかい? うちの逸子と最近上手く行っていないのかい?」
「いや、そうじゃなくて・・・」コーイチは立ち上がり、全員を制した。「僕はただ、芳川さんから消しゴムを借りようとしただけで・・・」
全員が洋子を見た。洋子は怒った顔のままでうなずいた。
「とにかく」西川がコーイチに諭すように言った。「人の物には、それぞれに思い入れや思い出があるものだ。気をつける事だな」
「そうよ、コーイチ君」清水が言った。「私のを使うといいわ」
清水が消しゴムをコーイチに渡した。黒い消しゴムの幅広の側面両方に、金色で文字らしきものが書かれていた。呆れた顔のコーイチに清水が目だけ笑っていない笑顔を向けて言った。
「その文字は呪文よ。ちゃんと使わないと呪われるわよ、うふふふふ」
つづく
コーイチはカーレース番組を思い出し、ピットでのタイヤ交換の速さや順位が変わって行く様を頭によぎらせて、目をぱっちりと覚まさせた。・・・あのシーンは凄かったなあ。あのカーブでの攻防は思わず叫んでしまった。今思い出しても血がたぎる!
しかし、机の上の書類に眼を落とすと、たちどころに睡魔が襲って来た。・・・寝るわけには行かない。でも、眠い・・・ コーイチは今夜は絶対カーレース番組を見ないで寝ると心に誓った(多分破られるだろうが)。
うとうととしながら書類に書き込みをしていたコーイチが、はっと気を取り直すと、全く違う所に自分の名前を書いていた。
「いやいやいやいや、まいったなあ」
コーイチは書き込みに使ったシャープペンシルを目の高さまで持ち上げた。さも、このシャープペンシルが勝手に間違ったと言いたげだ。
コーイチは文房具の入れてある小引き出しを開けた。消しゴムを取り出す。シャープペンシルに付いている消しゴムを使うと何故か紙が汚れてしまうので、別に消しゴムを使う事にしていた。
しかし、取り出す時にうっかり落としてしまった。消しゴムは床で弾むと机の奥の方へと転がって行った。コーイチは体を折り曲げて机の下を覗き込んだ。消しゴムはどこへ行ってしまったのか、見つからなかった。・・・やれやれ、これも寝不足のせいかな。あきらめて体を起こした。
他の人から借りようと、きょろきょろ見回すと、隣の芳川洋子の机の上に、白い消しゴムのような小さな直方体のものが入った、透明な小さなガラスケースが置かれていた。
「あのう、芳川さん・・・」
コーイチは遠慮がちに声をかけた。書類に赤ペンでチェックを入れていた洋子は、その手を止め、顔だけをコーイチに向けた。
「なんでしょうか?」
仕事を中断された不機嫌さを隠しもせず、メガネの奥の目を細めながら洋子は言った。
「その中のものって、消しゴム?」
コーイチはおそるおそる洋子の机の上のガラスケースを指差した。
「そうですけど・・・」
「じゃあ、ちょっと貸してもらえないかなあ」
コーイチは言いながらケースに手を伸ばした。
「ダメ、ダメです!」突然、洋子は叫んで、そのケースを握り締めると、手ごと背後に隠して立ち上がった。「絶対、ダメ!」
あまりの剣幕に全員が顔を上げた。
「おい、コーイチ」西川が呆れたように言った。「また、何をやったんだ?」
「コーイチ君、仕事中だよ」林谷が笑いながら言った。「デートのお誘いなら、お昼休みにでもするんだね」
「あらぁ!」清水がわざとらしく口元に手をやりながら言った。「そんな事したら、逸子ちゃんに嫌われるわよぉ・・・」
「おいおい、コーイチ君」印旛沼が心配そうに言った。「本当にデートに誘ったのかい? うちの逸子と最近上手く行っていないのかい?」
「いや、そうじゃなくて・・・」コーイチは立ち上がり、全員を制した。「僕はただ、芳川さんから消しゴムを借りようとしただけで・・・」
全員が洋子を見た。洋子は怒った顔のままでうなずいた。
「とにかく」西川がコーイチに諭すように言った。「人の物には、それぞれに思い入れや思い出があるものだ。気をつける事だな」
「そうよ、コーイチ君」清水が言った。「私のを使うといいわ」
清水が消しゴムをコーイチに渡した。黒い消しゴムの幅広の側面両方に、金色で文字らしきものが書かれていた。呆れた顔のコーイチに清水が目だけ笑っていない笑顔を向けて言った。
「その文字は呪文よ。ちゃんと使わないと呪われるわよ、うふふふふ」
つづく
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